[2025_05_01_03]高レベル廃棄物・六ケ所貯蔵30年 関係者に聞く(東奥日報2025年5月1日)
 
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高レベル廃棄物・六ケ所貯蔵30年 関係者に聞く

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 海外返還高レベル放射性廃棄物の六ケ所村初搬入から30年。1994〜1995年の安全協定締結、廃棄物輸送船パシフィック・ピンテール号の接岸拒否−などの最前線にいた県、村、科学技術庁(当時)、反対派の関係者が取材に応じ、当時の内情や候補地選定が難航する最終処分場問題について語った。

 接岸拒否 トップ交捗 決裂が潮目 元県むつ小川原開発室長 成田正光 氏

 廃棄物輸送船の六ヶ所村入港予定を翌日に控えた1995年4月24日。県むつ小川原開発室長だった成田正光氏(84)は最終調整のため、木村守男知事と青森市内のホテルに詰めた。そこで初めて異変を察した。
 科技庁は、北村正哉県政の94年に「青森県が処分地に選定されることはない」旨の確約書を提示。翌2月就任の木村知事も、田中真紀子長官と会談し約束を確認するなど手続きを重ね、成田氏は直前まで「接岸を認めると思っていた」。
 24日、木村知事は成田氏の説明にどこか上の空。異変に気づいた科技庁からも立て続けに問い合わせがあった。知事から具体的な説明がないまま、午後、田中長官との電話によるトップ交渉に入った。
 数回目の電話を木村知事は荒々しく切ると、成田氏に「『分かったわよ!』って、どういう意味だと思うか」と尋ねた。成田氏はこの時、より踏み込んだ新たな確約書を知事が長官に求めたが、交渉は決裂したのだと悟った。県と科技庁の間で突如として、新たな文書を巡る攻防が始まった。知事は94年確約書を「文章が甘い」と言った。
 翌25日朝、木村知事は県庁で記者会見し、フランスを2カ月前に出航した輸送船の接岸拒否を表明。折れた科技庁は長官名で「知事の了承なくして青森県を最終処分地にできないし、しないことを確約する」との文書を新たに提示した。
 「知事の了承なくして」は、成田氏が木村知事から承諾を取り付けた文言だという。「公文書なので青森県が続く限り効力はあるが、知事が国へ確認に行けば行くほど公文書の価値は強くなり、行かなければ弱くなる」と指摘した。
    (佐々木大輔)

 安全協定 貯蔵期間 民意受け短縮 元六ヶ所村環境保全課長 小泉靖博 氏

 県と村、日本原燃が結んだ安全協定は、高レベル廃棄物の貯蔵期間を「30〜50年間」と定めるが、当初は「50年以内」と記されていた。1994年の締結当時、村環境保全課長として説明に当たった小泉靖博氏(72)は「50年以内という曖昧さ、『長すぎる』という村民の心配が(30年への期間短縮として)反映された」と経緯を話す。
 94年7月に本格協議が始まると、村での説明会のたびに「課長は責任を取れるのか」「50年先は誰にも分からない」と、「今と比べものにならない大きな反対の声が出た」と振り返る。
 当時、国策定の原子力開発利用長期計画は、最終処分に必要な冷却期間を「30年間から50年間程度」と明記。村内でも「最終処分できる状態になるなら30年でも良い」との議論が出た。
 小泉氏ら村側は説明会での意見を集約し県に提示。同11月、県は「30〜50年間」へ一部短縮する最終案を公表した。小泉氏は「単に手続きを踏むための説明会ではなく、できるだけ早く最終処分場へ搬出させたいという村民感情が反映された」と修正の意義を語る。「30年」への期間短縮が協定締結に向けた落としどころになったとの見方について、「全くないとは言えない」とも述べた。
 「長いスパンで村が関わる事業だから若い人を育てないと駄目だ」。土田浩村長(当時)は担当課長に42歳だった小泉氏を起用し、安全協定の調印後には署名で使ったペンを贈った。30年後の今もまだ処分場完成は先の話。「住民に『永久貯蔵』の懸念を抱かせてしまう前に、安心につながる説明を」と言い、ペンを見つめた。
    (佐々木大輔)

 反対運動 金網越し 抗議のうねり 元社会党衆院議員 今村修 氏

 「入港拒否!」。1995年4月25日の朝、社会党(当時)衆院議員だった今村修氏(83)は、六ヶ所村・むつ小川原港の岸壁付近で金網越しに抗議の声を上げた。現場には県内外から反対派約400人が集結。沖合には高レベル廃棄物輸送船の姿が見えた。
 木村知事による「接岸拒否」の一報が流れると、反対派の熱がさらに高まった。今村氏はその場で科技庁の田中長官に電話。強行に入港させて廃棄物を陸揚げするなよ−という旨を伝えたという。「入港を止めようと集まった人たちにとって、接岸拒否は『やれば何かできるぞ』と思わせた。それが1日にして終わるとは思わなかったが」 村内で核燃料サイクル施設を受け入れる立地基本協定(85年)の締結後、県議時代に原子力先進国の英仏独を自費で視察。「見て歩いた結果、最終処分場の建設は無理だなと感じた。それぞれ課題を抱え、前に進んでいなかった」と語る。
 「原子力船むつ」の放射線漏れ事故をはじめ、高レベル廃棄物などが搬入されるたびに抗議の声を上げてきた。「当初から『トイレなきマンション』と言われてきたが、核燃料サイクルをやめ、後始末を考えないといけない。再処理工場が動けば(廃棄物が)増えていく」と懸念を深める。
 ただ、往事を知る仲間が徐々に鬼籍に入り、「今は全体的に(抗議の)エネルギーが低くなっている」と嘆く。半世紀前に閣議了解された「むつ小川原開発」までさかのぼり、「人生を『むつ小川原巨大開発』と『核燃』にささげてきたようなものだ。県に責任を取ってもらわないといけない」と厳しい表情で話した。
    (佐々木大輔)

 最終処分 調査地点の拡大が重要・元科技庁審議官 興直孝 氏

 科学技術庁時代、高レベル放射性廃棄物の最終処分法の整備に奔走した興直孝氏(80)=日本海洋科学振興財団理事長=は、2000年の法施行から四半世紀を経ても処分地が決まっていないことに「国民理解がいまだ得られず、残念だ」と語る。一方でこれまでの間に、関係閣僚会議が設置されるなど、国の決意が示されるようになった−と評価。文献調査の実施地点がさらに拡大することが処分地選定に重要だとして、一層の取り組み進展に期待する。
 興氏は1995年の廃棄物返還を巡り、科技庁が発出した文書の取りまとめ役を務めた。県と文書を取り交わした直後から、原子力委員会に二つの関連部会を設置し、技術面では岐阜県瑞浪市で超深地層の調査が進むようにするなど、最終処分の法制化へ環境を整えていった。
 国会に法案が上程された際は原子力局長として答弁に立った。法案には地元了解に関わる条文も明記され議員修正で「十分に尊重」と原案より強い表記になった。「本当に重い表現。法律により、関係する地域の要請は全て担保できるようになった」と説明する。
 処分地選定の第1段階となる文献調査は全国3町村で実施。興氏は、原発が立地する佐賀県玄海町の脇山伸太郎町長による「最終処分事業への関心の高まり、国民的議論を喚起する一石になれば」との発言を重く捉え、原子力行政に長く携わった立場から謝意を示す。選定の前提として調査地点の拡大を重要視し、原子力事業への理解があるとされる立地地域の知事の行動が鍵になってくるーと見通した。 (加藤景子)
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