[2020_07_31_05]再処理工場 審査合格 安全への信頼高まる 元六ヶ所村助役 橋本勲さん 稼働させる理由ない 元核燃料廃棄物搬入阻止実行委代表 平野良一さん(東奥日報2020年7月31日)
 

 安全への信頼高まる

元六ケ所村助役 橋本勲さん

 県、六ヶ所村と事業者が核燃料サイクル施設の立地基本協定を締結して、今年で35年。日本原燃の六ヶ所再処理工場(六ヶ所村)が、原子力規制委員会の安全審査に正式合格した。核燃料サイクル事業に長年、推進、反対それぞれの立場で関わってきた2人に話を聞いた。(加藤景子)
 
 「厳しい審査に合格し、再処理工場の安全性に対する信頼は高まった。操業に向けて前進し、本当に良かったと思っていますよ」
 六ヶ所村職員、村助役、村議と、30年近くにわたって再処理工場と向き合ってきた橋本勲さん(81)はこう安堵する。
 34歳で村企画課長に就いた。1980年代初め、村には「むつ小川原開発」のために村民から買い上げられた広大な土地が残っていた。巨大構想が頓挫し、見込まれた企業誘致が実現しなかったからだ。そこに突如、浮上したのがサイクル基地の立地だった。「事業費、雇用など天文学的な数字に驚いた」。眠れないほど大きなプレッシャーを抱えながら仕事にまい進した。
 85年の立地協定締結の場面には橋本さんも同席した。あれから35年、村の風景は様変わりした。多額の交付金や税金で村の財政は豊かになり、若者の定住が進んだ。サイクル事業関連の雇用も多く、早朝には周辺の道路が村に向かう車やバスで渋滞するほどだ。
 かつての村は貧しく、高校進学率は県平均を大きく下回っていた。橋本さんは特に、教育環境が改善されたことを喜ぶ。「自分は大学に行きたかったが果たせなかった。でも今は村に高校があり、教育水準も上がった。子供たちには幸せに暮らしてほしい」
 2011年の福島第1原発事故を経て、再処理事業に、より厳しい視線が注がれるようになっていることを実感している。「自分が元気なうちに本当に操業するだろうか」との不安がよぎることもあるという。その不安を打ち消すように力を込める。
 「再処理工場は日本に必要な施設。国には毅然とした態度でエネルギー政策を進めてほしい。そして再処理工場が安定的に稼働してほしい」
 <はしもと・いさお 1939年、六ヶ所村生まれ。59年に村役場に入庁。村助役を務めた後、村議4期。現在、六戸町在住>

稼働させる理由ない

元核燃料廃棄物搬入阻止実行委代表
   平野良一さん

 反核燃の市民運動に携わってきた平野良一さん(91)は「審査で安全性が本当に確認されたのか。想定外の事故が起きても適切に対処できるとは思えない」と、再処理工場の審査合格に異を唱える。
 「そもそも今、再処理工場を稼働しなりればならない理由はない。原発はほとんど止まっていて、使用済み核燃料を再処理工場に運び出す必要性も、再処理してブルトニウムを取り出す必要性も見当たらない」
 批判の矛先は13兆9千億円に上る総事業費にも向けられる。「国民の電気料金が入っているという認識があれば、事業に対する姿勢も丁寧になるはず」と日本原燃で相次ぐトラブルを批判した。
 1995年4月、六ヶ所村のむつ小川原港に海外返環のガラス固化体(高レベル放射性廃棄物)が陸揚げされるのを「腹立たしい思い」で見ていた。25年たつ今も、国内の最終処分場は決まっていない。
 木村守男元知事の時代、木村氏とトイレで出くわしたことがあった。「青森を最終処分場にしないで。それだけは意地でもやってほしい」と伝えた。木村氏は「私もそう思う」と同意してくれたという。
 本県は国と「本県を最終処分場にしない」との確約を結んだが、工場が稼働すれば、より複雑な問題が持ち上がると懸念する。「今度は本県でガラス固化体が生み出される。それをよそに持って行けと言えますか。処分が難しい固化体を生む再処理工場はやはり動かすべきではないのです」
 振り返れば、反核燃運動が全県的に盛り上がった時代もあった。今は当時のような勢いはなく、若い賛同者も減ったと感じる。「もう少し強い熱意で活動していたら事業を止められたかもしれない」。最後に少し悔恨の思いを口にした。

 <ひらの・りょういち 1928年、旧浪岡町(現青森市)生まれ。旧浪岡町長2期。核燃料廃棄物搬入阻止実行委員会代表などを務めた>
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