[1997_10_13_11]反原発運動マップ_山口県上関町_上関原発15年の歩み_河本広正●原発に反対し上関町の安全と発展を考える会_p189(緑風出版1997年10月13日)
 
参照元
反原発運動マップ_山口県上関町_上関原発15年の歩み_河本広正●原発に反対し上関町の安全と発展を考える会_p189

 山口県上関町に上関原発計画が表面化したのは1981年であり、すでに15年を経過している。96年11月、中国電力は、反対行動のため町役場に行くことができない中、姑息にもファクシミリで建設の申し入れを行なったが、反対運動は一歩も後退していない。
 計画が表面化したときに話を戻すと、それ以前から中国電力は密かに、町長を始めとして予定地の四代地区の町議や中心的な町議、また町当局にむらがるボス的有力者に働きかけて原発の立地をもちかけていた。このころ県会での質問で町民ははじめてこのことを知り、町議会で18人中ただ一人の反対議員が町長に質問、これがたちまち町内で大きな話題となった。驚くべきことには、すでに中国電力の裏工作と有力な国会議員の働きかけでほとんどの議員が原発誘致に双手を挙げて賛成していた。これは同じ山口県内の豊北町で原発建設に失敗した中国電力が、当時は原発についてまったく無知であった町の有力者を味方につけ、町自身から誘致を申し込むという、いわゆる上関方式を考え出したためである。立地点に最も関係の深い祝島島民の驚きは大変なものであり、とくに当時は祝島には出稼ぎの人が多く、各地の原発などで下請けに従事していたが、これら数十名の人々は放射能の怖さを身をもって知っていた。また、ここが魚の宝庫であり、島の目前に原発が建つことに大きな衝撃を受け、反対運動が急激に盛り上がりをみせ、旬日を経ずして島民の九割が反原発の会に加入した。当時の島の三人の議員はすでに推進の中心人物であり、島民の頼みをまったく開こうとしない。そのため、島民の力で原発を阻止する以外に方法がない。そこで、今や有名となった祝島の毎週月曜日の島内デモが始まった。翌年、商工会を中心に推進の会が発足、時をおかずして全町的な反対の組織が発足する。賛成・反対の対立は頂点に達し、両派による第一回町長選となった。告示一カ月前に出馬が決定した反対陣営にとってはまさに殴り込みの選挙であった。選挙結果は、破れたとはいえ42%の人々が反対派の候補に投票した。選挙後、立地事前調査の請願合戦が行なわれたが、推進町議だけで作られている企業誘致特別委員会によって賛成請願のみ採択された。
 すでに原発反対の祝島の島内デモが毎週行なわれていたが、この頃は20キロに及ぶ町内デモまで行なわれるようになった。84年、中電の立地事前調査事務所ができ賛否両派の村立のなか地震調査が実施され、予想通り適地報告がなされた。85年、両派の請願にもかかわらず委員会はまたしても賛成派の誘致請願のみ採択し、議会も誘致決議を挙げる。86年に町議選が行なわれ、18人中反対派は7議席を獲得、11対7の議会構成となった。反対派の議会での攻勢も目覚ましく、両派の対立はいっそう厳しさを加える。この年4月、ソ連(当時)のチェルノブイリ原発事故が発生し、放射能は全世界に拡散し大問題となる。中電のワイロまがいの行為は日常茶飯事に行なわれ、目に余るものがあった。反対派も陸上デモ、海上デモ、町長交渉、中電交渉、対県交渉、座り込みなど反対運動に全力を尽くす。
 翌87年、原発計画表面化後第二回の町長選が行なわれたが、チェルノブイリ後であり、中電の工作はその極に達する。町内真っ二つに分かれた凄惨な争いの結果、反対派は42・7%の票数にとどまったが、選挙後重大な事態が発生した。町長派が非常に多くの不正転入者を出していたことが発覚したのである。二百数十名に及ぶ大量な不正転入である。これは山口県にとっても未曽有の不祥事であり、多くの者が検察庁より告訴され、その結果、起訴七名・略式起訴ー11名・起訴猶予33名の者が罪を認めたことになった。その中には、町長の家族や、特に中電社員が六名含まれていた。中電社員の不正転入については国会で問題となり、通産大臣が言語道断の出来事だと発言している。このような状況にもかかわらず、88年9月、連日の反対派の抗議の中、町長は密かに中電本社に行き、誘致の申し入れを行なった。反対派は激怒し、中電本社前の座り込みを決行、激しい抗議行動を展開した。連日の役場前の抗議座り込みにより、ついに中電は郵送での回答を行なう。このように誘致申し込みも誘致受け入れも、町民やマスコミの前で行なわれることなく、すべてが秘密裡に行なわれた。町民の合意どころではなかった。
 この頃発表された中電の世論調査では三人に一人が原発建設に反対で、賛成の四人に一人を大きく上回っていた。この年、中電は共同漁業権をもつ八漁協の管理委員会に環境影響調査同意の申し入れを行ない、漁業者に対してあらゆる工作をしながら、七漁協の同意を取りつける。
 90年、町議選に突入。大変な激戦となったが、中電をバックの推進派の金と物の動きと、反対派の票の割り振りが成功せず、五名の当選にとどまる。91年、美浜原発事故発生。日本の原発では最大の事故で、蒸気発生器の細管のギロチン破断であり、日本で初めて緊急炉心冷却装置が働く事態となった。同年、第三回の町長選が行なわれる。反対派の活躍は目覚ましかったが46・2%の票にとどまり、当選にはいたらなかった。しかし、これによって町内には半数近くの反対の人々がいることが証明された。つづいて94年の町議選は定員2名減の16名となり、反対派は前回の反省を含め候補者を6名に絞った結果、全員上位当選となる。
 このような状況にもかかわらず同年4月には、中電は、上関原発を94年度施設計画に組み入れるという暴挙を行ない、つづけて上関町長と計って国の重要電源指定を受けるという、まったく町民の合意や周辺住民の意向を無視した工作をすすめる。しかも、栽培漁業センターの運営基金七億円を中電が拠出するという条件に踊らされた共同漁業権管理委員会は8月、この海に最も関係の深い祝島漁協の退場のもと、環境影響調査同意の決定を行なう。そして、反対派の猛烈な抗議の中、中国電力は陸と海の調査を強行した。
 上関原発の計画地は、阪神地域と同じく、日本で八力所の地震特定観測地域となっていて、過去、山口県でも最も地震の多い場所である。中国電力が充分な活断層調査などを行なっているか、きわめて疑問であり、このような場所に原発を立地することがいかに無謀で非常識なことかは、言うまでもない。95年4月、第四回町長選は、全国注視のもと、まれにみる激しい選挙選となり、まったく互角の争いといわれ、勝敗の予想は誰にもつかなかった。中電は社運をかけた戦いとして、過去に例をみない金力と圧力により反対派の押さえつけに乗り出した。選挙は残念な結果に終わったが、43%の票はどのような金力にも圧力にも屈しない反原発の票であることを銘記せねばならない。

[上関町]
 面積34・70平方キロメートル、人口5088人(1996年3月末現在)。特産品はびわ、みかん、らっきょう、さよりなどの海産物。祝島の名は「万葉集」にも見られる。

施設計画
 電力会社は毎年度末に、次年度から10年間の発電所建設計画をまとめ、資源エネルギー庁に提出している。以前はこれを「電力施設計画」と呼んだが、1996年以降は 「電力供給計画」という名に変わった。

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