[1997_10_13_10]反原発運動マップ_山口県田万川町_田万川原発計画の経過_小野都●田万川町_p194〜196(緑風出版1997年10月13日)
 
参照元
反原発運動マップ_山口県田万川町_田万川原発計画の経過_小野都●田万川町_p194〜196

 1973年、既に地質調査は終わっていた。島根県との県境、山口県田万川(たまがわ)町の計画地は、三分の四がユーレイ会社に買われていて、中国電力は育写真まで作ってあった。74年1月に申し込みの予定であったことを知る。地質調査を、何の不審も感じることなく、議会はすんなり許す。24年前といえば、ほとんどの住民は原発について無知だったために、現在の瀬戸内海側の上関原発計画のように、地質調査を許すまでに約10年かかるなど、想像もできないことだった。
 たまたまポーリングの最中を、魚釣りに通りかかった有識者が見つけ、「これは大変、原発ができる。原発の危険なことを一刻も早く住民に知らせねば」と数人が立ち上がった。何が、どう危険なのか、勉強のため、73年11月9日、佐賀県の唐津市で、初めての原発公開討論会(賛成四人=原子力研究所や原発PR館々長、反対四人=東大・阪大などの先生が開かれるのを聞きに出かけた。新聞で約三カ月前から予告するほどの大行事であり、世界中が注目していると新聞にあった。朝から午後六時に及んだ。
 唐津で賛成側を完敗に追い込んだ久米三四郎先生に田万川町に来ていただくことになった。主として、農・漁・町の婦人会が立ち上がった。「父ちゃんは仕事、母ちゃんは勉強、町民の多数が根拠のある反対となれば、その中から、賛成の町長も議員も生まれない」と呼びかけ、第一回目の勉強会を74年5月30日に開く。久米先生に原発とはどんなものかについて、約二時間講演をしていただいた。続いて、8月、山口県下関市から島根県浜田市までの全漁協の組合員が田万川町の江崎漁協に集合、久米先生の講演を聞き、全員団結して原発ボイコットとなった。
 これを皮切りに約二年間、久米先生、市川定夫先生に度々お願いし、町を四、五カ所に分けて勉強会を開いた。兵庫県浜坂町の原発反対町民協議会でつくっておられた『生存をおびやかす原発(15冊組み)』などをたくさん買って、勉強の材料にさせてもらった。反対団結の一つの「とりで」として伊方訴訟へカンパを送ることにし、各集落ごと、お母ちゃんパワーの世話役が集合、三年八カ月で440人のカンパ440万円を送ることができた。
 このようにして、田万川原発計画は中電の二番目の原発の予定だったが、三番目の予定の島根二号炉が先に、75年12月に申し入れとなった。ちょっと書けばこれだけでも、その間の苦労は並々ではなかった。初めての勉強会でも、久米先生の演題を「原発について」としたら、原発という言葉があったら、小学校は貸さないと教育委員会がごね、「放射能の危険性について」だったと思うが、書き替えをしたり、あらゆる圧力がじわじわと現われた。77年6月になって、中電は新たに山口県豊北町へ原発建設の申し入れをした。田万川町には歯が立たないと見たからと思う。豊北町は田万川町に倣って一致団結、町長を先頭にして頑張り、中電は一歩も入り込めず、79年頃にはやはり山口県の萩市に鉾先を変えた。萩も主として医師会、地主が団結、市長も反対を表明し、賛成派は手も足も出ず、豊北町、萩市は近いので、こちらからも応援に出かけ、また、向こうからも来たり、交流すること度々、三カ所とも守り通した。
 現在は、四カ所目の瀬戸内海側、上関一カ所に集中攻撃となった。前の三カ所のボイコットにこり、中電は金にあかして、上関では根廻し根廻し、田万川の時はこれといった事故もないうちだったのが、その後、スリーマイル、チェルノブイリ、日本でも数カ所、もう世界中が原発は新設しないという中を、金で予定地をまどわす。予定地にされている所の方々、どうか頑張っていただきたい。私ども三カ所の苦労を無にしないで欲しい。

[田万川町]
 面積78・20平方キロメートル、人口4153人(1996年3月末現在)。農林漁業主体の町で、町域の八割は山林。
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