[1997_10_13_08]反原発運動マップ_山口県豊北町_豊北原発反対闘争を闘って_山本宏●電産中国山口県支部_p198-199(緑風出版1997年10月13日)
 
参照元
反原発運動マップ_山口県豊北町_豊北原発反対闘争を闘って_山本宏●電産中国山口県支部_p198-199

 
◎住民運動の団結で撤退した中国電力

 1995年夏、山口県豊北(ほうほく)町土井ガ浜海水浴場は例年になく大勢の海水浴客で賑わった。近くに弥生時代の遺跡が発掘され、多くの人骨を含む遺品等が当時のままの状態で見学できる展示館等も完成し、人類の歴史探訪と海水浴が同時にできるレジャーのメッカとして活気を帯びている。あくまでも澄みきった青い海と白い砂浜。山口県内でも有数の海水浴場である土井ガ浜には山口県内のみならず、北九州方面からもマイカーやバスで訪れる人が少なくない。
 この土井ガ浜から北西の方向に、日本海に突き出た岬が見える。距離にして二キロ程度の位置にあるこの岬こそ、中国電力が19年前に100万キロワット級原発二基の建設予定地として計画を発表した神田岬である。もし、この豊北原発建設に対し反対運動が起こらず、中電の思惑どおりに原発建設が進められていたならば、今頃はもう原発は完成し運転を開始している頃であり、そうなればこの夏のような海水浴客で賑わうという光景は見られなかったであろう。
 山口県の西北端に位置する豊北町は、漁業と農業中心の町であり、特に漁業は、イカ、ブリ、ボラ、イワシ、アジなどの近海魚の水揚げが多いことで知られている。豊かで美しい海こそ豊北町民の誇りであり宝であるわけで、この素晴らしい宝は何物にも渡さないという強い意志が今もって「原発反対」という意思表示により表わされている。
 現在、中国電力は豊北町に原発をつくろうという野望を抱いてはいない。いや、抱こうとしても無駄骨であるということを十二分に味わされたのである。今から19年前、即ち1978年5月、原発建設の是非を問う町民投票ともいうべき町長選挙が激しく闘われた。原発推進派は中国電力から流れた金の力によって、土木業者や利権狙いの面々が推進派候補のためにやっきになって暗躍し、当時の同盟系労組で原発推進の方針を持つ中電労組も中国五県より大量動員をかけて豊北町に組合員を送り込んだ。
 これに村し、漁民を中心に町内の労働者、医師、農民、主婦、商店主など多くの町民は、原発反対を公約としてかかげた藤井澄男候補の勝利に向けて、連日連夜、手弁当の運動を展開した。当初、海側は反対、山側は賛成の海山戦争と言われていたが、やがて「外から来た中電派と住民との闘い」という姿が明確となり、9120票対3540票という大差により原発反対派候補が圧勝した。同時に行なわれた町議補欠選挙も反対派が圧勝し、町民の原発に対する意思表示を明確に示した。
 その半月後には藤井新町長は臨時町議会を召集し、原電対策条例の廃止、事前環境調査拒否を提案し、どちらも多数の賛成で可決された。その一週間後には藤井町長は中国電力並びに山口県に対し、「原発拒否」を正式に回答した。それでも中国電力は巻き返しをはかろうと、その後一0年くらいは執拗に住民工作を続けたが、住民の原発反対の意志は固く、四年毎の町長選挙では原発反対派候補が依然圧勝を続け、町議会議員選拳でも反対派候補が圧勝し続けたため、ついに中国電力は90年頃に完全に豊北町から撤退した。

◎電産中国の闘い
 豊北町とその周辺に漁業権を持つ漁協に対し、中国電力が原発建設のための事前環境調査を申し入れたのは、町長選挙の一年前、77年6月である。それまでに、豊北町神田岬を原発建設予定地としての策動が見え隠れしていたため、豊北町内では漁協などを中心に早くから学習会を開くなどして反原発への運動準備が進んでいた。そのために中国電力からの申し入れが行なわれた翌日には町内の九漁協がいっせいに総会を開き、すべての漁協が「原発絶対反対」を決め、中国電力並びに山口県に対しその旨の通知を行なったのだ。7月に入ると山口県漁連も「豊北原発建設反対決議」をあげた。そして7月ニー日には漁民を中心に町民ー500人が夏休みに入った小学校グランドに集まり、原発反対総決起集会を開催し、町内初のデモ行進を行なうとともに、各漁協ごとに学習会を開いたり、町長に対し事前環境調査を拒否せよとの交渉を展開した。
 こうした状況の中、我が電産山口県支部は7月24日の定時大会において、反原発闘争を積極的に進める方針を決定し、学習会・数宣活動、そして豊北町民との交流等を積極的に進めた。また、自治労や教組をはじめ県下の各労働組合もそれぞれ「豊北原発反対」の方針を決定し、県労評を中心に学習会、教宣活動、そして反対集会やデモを繰り返した。10月26日、推進派の原子力の日を逆手にとってこの日を「反原発の日」とし、電産山口県支部は全国初の「反原発スト」を敢行し、中国電力山口支店前に大きな反原発の看板を立てて組合員が座り込んだ。これには山口県労評も加わった。それ以降、中国電力社屋前への看板立て、ビラ貼りなどによる反原発闘争を継続的に展開し県民に反原発を訴え、反原発市民運動も組織され、大規模な集会やデモが繰り返された。
 このように全県下で豊北原発反村の運動が巻き起こる中で77年は暮れた。明くる78年冒頭、平井山口県知事は突如、「豊北原発に関する事前環境調査の機は熟した」と声明を出し、一気に攻勢をかけ始めた。これにより豊北町の反対運動は一段と熱気を帯びたものとなり、自治会、婦人会、老人会、青年団、ありとあらゆる団体が反対決議をし、その意思表示として町のいたるところに原発反対の看板が樹立された。そして町民が町長に対し「事前環境調査を拒否するよう」求める直接交渉を行ない、町長はついに「拒否」を町民に約束した。
 このことを町議会でも確認すべく議員全員協議会が三回にわたって開かれ、この様子がスピーカーを通して町役場前広場に流され、毎回1500人を越す町民や県下の反原発の人々が寒風の中でじっと耳を傾け、成り行きを見守った。この時が現地漁民や農民と労働者との絶好の交流の機会となった。我々電産もこれに積極的に参加し交流するとともに、電力労働者として原発に反対し闘っていることを明らかにし、原発の危険性などを説明したビラを作成して豊北町内各戸に配布した。
 追い込まれた中国電力は、我々のこうした反原発運動を押さえこもうとして、ビラ配布に対し「業務妨害だ」と因縁をつけ、当時山口県支部委員長であった私を含め七人の組合員に不当処分をかけてきた。この不当弾圧に対し、電産は組織をあげて闘う方針を固め、中国電力に対し不当処分の撤回を求めて広島本社前で三カ月に及ぶ座り込みを敢行した。これには山口・広島の労働組合はもちろんのこと、全国各地の労働組合、反原発団体、そして豊北町漁民などから大きな激励が贈られた。
 こうした最中に、事前調査拒否を約束した町長に対し山口県からの圧力がかかり、町長はついに辞任、町長選挙となったのである。
 我々に不当処分を加えたことが中国電力にとって裏目に出たことは明らかで「電産の人たちは私たちのために処分を受けた。いまこそ仇打ちを」と漁協婦人部の人々は町長選挙に火と燃えて頑張りぬき、勝利をおさめたのである。三カ月の座り込みの後、我々は裁判闘争に持ち込み、息の永い闘いを続けることとした。この裁判闘争には、多くの労働組合や反原発団体の人々、さらに久米三四郎先生をはじめ幾人かの科学者の方々にも大きなお力添えをいただき最高裁まで闘ったが、いかんせん「国策」という大きな壁を破ることはできなかった。
 しかし、その10年余の裁判闘争の間は山口県内の反原発闘争を停滞させずに続けることができたし、何よりも豊北原発を阻止し、きれいな海、美しい自然を守り、土井ケ浜海水浴場で多くの人々が楽しむ光景を見ることができたことは、非常に大きな成果であったと思っている。そうした偉大な闘いの一部分にでも参加できた喜びを今かみしめている。

電産
 日本電力産業労働組合の略。1947年に全国単一の産業別組織として結成された電気産業労働者の組合。会社側の工作により次々と分裂した第二組合に吸収され、57年以降は電産中国地方本部のみが活動を維持している。

反原子力の日
 1963年に動力試験炉が日本で初めての発電をした翌年からはじめられた、原発推進のための「原子力の日」に対抗し、同じ日を「反原子力の日」と呼び変えての行動が77年から各地で行なわれている。

[豊北町]
 面積168・58平方キロメートル、人口1万4830人(1996年3月末現在)。本州最西端の農漁業を中心とした町。
KEY_WORD:豊北_原発計画_: