[1997_10_13_06]反原発運動マップ_高知県窪川町_窪川原発計画の経過と現状_島岡幹夫●窪川ジャガイモクラブ_p209(緑風出版1997年10月13日)
 
参照元
反原発運動マップ_高知県窪川町_窪川原発計画の経過と現状_島岡幹夫●窪川ジャガイモクラブ_p209

 高知県窪川町では、電力会社による原子力発電所の招待見学旅行が町有権者(1万3000人)の過半数を超えた1980年6月、「町域内に原子力発電所の建設が可能か否か電力会社によって調査してほしい」という住民からの請願署名を集めて町長、議会に提出、この決定を受けて原発を推進するという「窪川町方式」と名づけられた新手の原発計画が町に持ち込まれた。以来八年有余にわたり、賛成反対で町を二分して、当時の政府自民党の総力を挙げての支援と国内各電力会社、大企業、財界の後押しを受けた町当局に対し、農民を中心とする全町的な反対組織との激しい攻防戦で、全国的なニュースを提供し続けた。
 窪川原発問題は、原発推進町長のリコール成立ー>出直し町長選で推進町長の返り咲きー>毎月開催される御用学者による原発講座ー>原発町民投票制度の条例制定ー>二年有半にわたる町主催の集落説明会(82カ所)ー>電力会社との間に立地可能性調査協定書の締結ー>町議会の原発立地促進決議ー>調査協定書の破棄議決ー>立地調査の凍結宣言ー>町長の引責辞任ー>町議会における原発論議終結宣言といった経過をたどり、一応の幕を閉じた。金力、利権、地位利用、精神的な重圧、各種の締めつけと、暗雲の八年余の間、私たちは、現行法制の中で考えられるだけの手段と方法を構じて応戦をした。当時の私たちは、反対運動は常に先手必勝、絶えず闘い続ける気持ちを維持することであった。チェルノブイリ事故後一年を経て凍結先送りと一応の平穏を取り戻してから既に10年が経過して、窪川町民の中に原発問題は過去のものとなり、反原発運動も形骸化された意識しか残っていない。しかし現実には、通産省の要対策重要電源の指定は残されたまま。町と電力会社の間に結ばれた調査協定書も、凍結を理由に、現町政でも白紙還元していない。私は、この間の窪川町民の原発に対する意識の風化こそ電力企業の一番望んでいることだろうと常々考えている。
 四国電力は91年、徳島県阿南市橘湾への石炭火力270万キロワット(電源開発200万キロワット、四国電力70万キロワット)の建設を決定、98年前後の完成を目指している。電力会社の四国島内太平洋側への進出拠点となる窪川原発計画は2000年頃に再燃すると予想され、その対応を構じておくべきだと考えている。原発問題凍結の後、国内各地の原発立地計画のある市町村から、住民運動の灯台と呼ばれた当時の話を開きたいという要請も頂く。時折、時間をつくって各地にお邪魔して、原発立地の最前線における住民運動の問題点など切実な問題として捉え、後日に悔いを残さないようにしたい。窪川町で数年後に原発問題が再燃した場合、問題発生より20年を経過して世代交代が進み、過疎地の農漁業の町に再びあの電力企業、政財界、日本国を相手に一歩も退かないぞ、という住民の自治意識を呼び戻すことが可能かと問われたとすれば、私は大きな焦りと不安を禁じ得ない。
 反原発運動とあわせて当初から運動を展開してきた農の復権を求める運動と、無農薬、低農薬の農産物、いわゆる安全な農産物を都市の消費者に供給する運動は、消費者の皆様の温かいご理解とご支援を頂いて年を追うごとに大きな流れとなり、地域ぐるみの産直化への兆しも見え始めてきたことは嬉しい限りだ。

[窪川町]
 面積278・08平方キロメートル、人口1万6043人(1996年3月末現在)。山地酪農や豚の飼育で知られ、良質の仁井田米の山地でもある。海岸部では漁業。

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