[1925_05_24_02]火炎うずまく震災地へ 本社飛行機の冒険視察 豊岡町は殆んど猛火に包まれ(東京朝日新聞1925年5月24日)
 
※以下は地震関連の見出しと重要と思われる部分をテキスト化したものである

○火炎うずまく震災地へ 本社飛行機の冒険視察 豊岡町は殆んど猛火に包まれ 城崎温泉地は焦土と化す 二百メートルの低空から見た避難民の惨状【二十三日午後六時大阪電話】
○猛火は夜の空に物凄く 関東大震災を目の辺りの惨状 和田山にて平井、森本両特派員発
 記者は二十三日午後七時四五分やっと豊岡町に到着した、??天をこがして同町を焼ける地獄の業火は和田山?からもはkkりと見られた、豊岡駅前の家屋は全部ペタンコに倒壊して同町は全滅だ、同町約二千戸の家屋はことごとく元形を止めているのはない、悲惨な光景は丁度一昨年の関東大震災の状景そのままであるこの日午前十一時十分気味の悪い音響とともに左右動が起こり続いて猛烈な上下動が起こったので同町の家屋はほとんどが倒壊したが間もなく竹山町の町会議員三宅直吉氏宅付近から火を発したのを初めとして数カ所から同時に発火したちまち四方に燃え広がり、まず豊岡郵便局を??夕刻までには次の通りこれという主なる建物は焼失し??として停車場の方へ燃え広がりつつあり、?父郡朝来郡各地方の消防?隊が?式の蒸気ポンプを?上げ下げしているがそんなことでは猛烈な日の勢いには何の効果もない、焼失した主なる建築物左の如し
町公会堂▲但馬貯蓄銀行▲豊岡銀行▲農工銀行▲郵便局▲町役場▲有楽館▲布袋座▲豊岡警察署▲?源寺▲来迎時▲自性院▲立正寺▲光行寺▲??寺▲社会会館▲船木病院▲松宮病院▲木下病院▲尼子医院
 等にて病院もことごとく全焼したが幸い患者は安全な所へ移し得た、城崎あたり一帯の土地は一尺乃至二三寸の幅の地割れあったかくて飛田町、久保町、中町、下町、竹山町、新屋敷町、寺町豊岡町目抜きの場所はことごとく焼失し夜に入るも火は少しも弱らず火炎天をこがして凄壮な状況を呈しているなお死亡者は夕方までに四十七名を担ぎ出し、初めの部は豊岡小学校講堂に収容したが火が次第に塚づくので午後四時頃豊岡中学校グラウンドに移したがこの中には一家四人暮らしのうち三人まで圧死して母親一人ぼう然と死体の傍らに座っているなど悲惨の光景を呈している、その他倒壊家屋の下敷きとなった死亡者でいまだ掘り出されぬもの多数あり、また火事と共に焼死したものも続々発掘中で避難民は阿鼻叫喚うろうろして行くところを知らむ模様で、午後九時ごろになって初めて落ち着き、路傍にテントを張り徹夜している。
○全滅の城崎温泉 建物の損害七千万円 豊岡町も八分通り焼失して 両町の死者四百名【二十四日午前二時本社着電】
○地震と共に数カ所から発火 焼け残った家も皆半壊 露営する一万二千名
○久美浜でも死傷者多数 家屋の破壊百十一戸 小学校も倒れ生徒死す
○最初の救護電報 城崎町長から兵庫県へ
○避難民無賃輸送 東京から慰問隊 大震災当時の恩返しに きょう市長等の協議
○各地の惨害
○震災地の人口及び世帯数
○津浪 浜阪方面を襲うとの報
○運転中止【鉄道の被害】
○全線きょう復旧の見込
○下敷きになった四五十名の旅客 城崎駅の崩壊に遭いようやく逃げ出した親子 物凄かった光景を語る
○天の橋立に亀裂 下夜久野付近の被害
○救護班出発す 各地からぞくぞくと 内務省からも視察に
○政友会から見舞いに 齋藤氏出発 
○この地震の大きさ一昨年と昨年との中間 今村博士発表 
 二十三日山陰大地震につき東京帝大地震学教室今村明恒博士観測の結果左のごとく発表された
 発震時午前十一時四十九分四十九秒▲初期微動継続時間六十五秒▲全部の??時間一時間半▲最大??八ミリメートル(一寸二分)▲初期の方向正東の上下動▲震動は但馬西部に相当す、されど震源距離遠きため、十里程度の偏差はある得べきものとす、震源推定にして大なる?なくば本地震は山陰?帯に?し正?元年二月一日(今より二百十四年前)美作、因幡、伯耆国境付近に起れる大地震の東方延長と見なしべく、地震の大さ一昨年九月一日関東大震災と、昨年一月十五日相模中部大地震との中間程度であろう
○昨夜の強震 折も折とて驚いた市民 心配はあるまい

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