[2022_10_28_11]珠洲原発反対運動の歴史(簡略版)(珠洲たのしい授業の会2022年10月28日)
 
参照元
珠洲原発反対運動の歴史(簡略版)

 本ページは『石川県教組珠洲支部50年誌 いばらの歩み』(発行:珠洲支部)より引用してあります
 元の文章も「珠洲たの」管理人が作成したので、著作権は大丈夫です(^^;)

 目次

  珠洲原発計画の浮上
    推進・反対の動き
    珠洲原発反対連絡協議会の発足
  原発静観・石炭火力推進
  再び原発推進
  林市長の登場とチェルノブイリ原発事故
  「珠洲文化会議」結成と国定正重市議の誕生
  珠洲市長選と事前調査阻止
  県教組珠洲支部の積極的な運動
  一歩一歩前進…土地共有化基金
  一歩一歩前進…選挙へのとりくみ
  不正・違法の珠洲市長選挙
  中西県政から谷本県政へ
  珠洲市長選挙無効訴訟
  やり直し市長選と秋祭り
  珠洲原発白紙撤回の日まで
  珠洲原発事実上の「白紙撤回」

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 珠洲原発計画の浮上
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 珠洲市の原発誘致問題が具体化したのは,1975年10月30日の市議会全員協議会で『原子力発電所,原子力船基地等の調査に関する要望書』を国に提出することを決め,黒瀬市長と田畑議長らが,中西知事にこの要望書を渡し,珠洲市に適地調査を行うよう政府に取り次ぎ依頼をした時から始まる。この動きを見てとった中部・関西・北陸の各電力会社は,1976年1月に相次いで原発開発構想を発表した。なかでも関西電力の芦原会長は「珠洲市に1000万キロワットの一大原発基地をつくりたい」と述べている。
 一方,黒瀬市長の要望を受けた国は,地元住民の承諾も不十分なままに,76年3月から12月までの間,高屋町小浦出,三崎町寺家地内において原発立地予備調査を実施した。その結果は,1977年3月に通産省エネルギー庁から報告された。それによると「原発立地に支障はない」としながら〈さらに精密な調査をすること〉が条件となっていた。

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 推進・反対の動き
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 こうした状況の中,黒瀬珠洲市長は,日本原子力文化財団から2000万円の寄付金を要請し,さらに一般財源からも2000万円を予算化して,地域住民の原発視察などの補助金として使うなど,市の行財政は原発先行型の姿勢となった。また市議会も,「珠洲市地域振興開発特別委員会」を「珠洲市エネルギー特別委員会」に切り替え,原発積極論を支持する動きとなり,住民のコンセンサスづくりのために立地地区住民や漁民との対話集会を開くなど,工作を続けた。
 市が進める原発誘致の動きに対し,市内では,珠洲地区労働組合協議会(通称,地区労)など革新団体が「新しい珠洲を考える会」を結成したのをはじめ,漁民・地元民などによる反対住民組織が結成されるなど,原発の危険性,環境に及ぼす影響についての抗議や,反対申し入れ運動が強まってきた。

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 珠洲原発反対連絡協議会の発足
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 1978年3月25日,珠洲原発に反対する3者(地区労,日本社会党珠洲総支部,新しい珠洲を考える会)が連携して原発反対運動を強力に推進するために,「珠洲原発反対連絡協議会(通称:反連協)」を発足する設立総会を開催した。そして,講演会のチラシ配布や,立て看板の設置,立地地区住民や漁民との対話,関係機関に対する要望・申し入れなどの事業方針を決定した。
 反連協の役員は,発足当初は11名であり,珠洲支部からも1名加わっている。役員は徐々にふえていき,1997年度は27名で,そのうち珠洲支部の組合員が7人,教組OBが2人入り,反連協の運動を担っている。

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 原発静観・石炭火力推進
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 1979年3月28日,アメリカのスリーマイル島原発の大事故が発生。原発が思うように進まないと見た黒瀬市長は,1979年12月,突如,火力発電所の誘致を提起した。原発推進の“つなぎ”に打ち出したものだが,黒瀬市長は,個人的負債が政治問題化して辞職し,市長選挙となった。
 1981年4月,敦賀原発の放射能漏れ事故による反原発意識の高まる中で,市長選挙が行われた。反連協は,珠洲原発・石炭火電による珠洲エネルギー基地化に反対し,会長の河岸二三氏を珠洲地区労・社会党の推薦で擁立してたたかい,5246票を得る善戦をした。当選した谷又三郎氏は,原発反対票が多いことから,就任後「原発静観,石炭火電推進」を表明した。
 1982年6月から1年間,北電と電源開発公社の共同で,石炭火電の立地可能性調査が行われた。しかし,1983年6月9日,建設コストが高くつき,困難だとする調査報告書が出され,珠洲市は石炭火電を断念せざるを得なくなった。

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 再び原発推進
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 1983年12月16日,市議会で,谷市長は「市民の理解と認識が深まった。原発を積極的に推進する」と表明した。その結果,1984年3月5日,電力3社は,珠洲原発の立地調査の現地入りを申し入れ,4月1日,北陸電力珠洲営業所内に「珠洲電源開発協議会」の事務所を開設した。
 反連協は,珠洲原発が再び動き出したことに対し,市長や珠洲電源開発協議会に抗議の申し入れをし,街頭ビラを配り,愚安亭遊佐ひとり芝居,映画『海盗り』上映,議会傍聴などを行った。
 この間,珠洲支部は,青年部を中心に原発の学習会やビラ配りなどをしながら,反原発の意志固めをしていった。1984年度の青年部定期大会議案書には,そのときの模様が次のように書かれている。
 1 1月24日(土),肌寒い中,常任委員が寺家方面と高屋方面の二手に分かれて,反原発のビラを一戸一戸配って歩いた。原発建設候補地であり,賛成派が多いという情勢の中で,全員緊張した表情で配って回った。

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 林市長の登場とチェルノブイリ原発事故
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 1986年4月の市長選挙に向け,候補者擁立を模索していた社会党・地区労は,残念ながら擁立を見送った。
 4月14日の市長選挙で無投票当選した林幹人氏は,「過疎脱却を目指して電源立地を真剣にとりくむ」と明言し,就任早々,高屋・寺家へ話し合いに入った。また,1986年3月議会 では,1986年度の電源立地推進予算として,3841万1000円という,前年度よりも大幅増の予算を計上した。
 1986年4月26日,ソ連のチェルノブイリ原発で,史上最悪の大事故が起こった。反連協は,6月10日,市長・電源開発協議会に,「原発の安全神話は崩れた。原発は即時中止せよ」と申し入れた。
 しかし,市当局は,チェルノブイリ原発事故の被害の甚大さを掌握しようともせず,申し入れの4日後の6月14日,市議会で原発誘致決議をするという暴挙に出た。チェルノブイリ原発事故のあと,世界中が脱原発・反原発に向かって動き出したのに,珠洲市は原発推進を止めず,世界の潮流に反する決議を行ったのである。
 こうした推進の動きに対して,反連協は,毎月欠かさず現地の高屋・寺家にビラ入れをしたり,8月や3・28スリーマイル島原発事故記念日には街宣車をくり出し,反原発のアピールを行った。

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「珠洲文化会議」結成と国定正重市議の誕生
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 1986年10月7日の劇団「はぐるま座」『夏の約束』公演が,市内の宗教者・教員などを含む一般市民によってとりくまれた。<市民の主体的なとりくみを地区労・教組が応援する>という初めての形であった。この公演をきっかけとして,市民団体「珠洲文化会議」が結成された。この会へは,珠洲支部の組合員も数名参加し,市民の一員として,珠洲市の抱える問題を考え,文化活動を進めていった。そして,この反戦・平和を目指す文化活動が,当然のこととして,珠洲原発に反対する運動へと発展していくことになるのである。
 市議選を控えた,1987年4月4日,珠洲文化会議主催の文化講演会『原子力の未来』(講師:高木仁三郎氏)が開催された。珠洲支部青年部は事前のチケット販売や会場準備など,協力を惜しまなかった。
 4年前の市議選に地区労が推薦した反原発候補がわずか4票の差で落選して以来4年間,すべて自民党市議だったが,1987年4月26日の市議選に,地区労推薦で,元珠洲支部委員長の国定正重氏が立候補し,上位当選を果たした。県教組も国定氏を推薦し,珠洲支部とともに,この市議選に全力でとりくんだ。当選後,県教組と珠洲支部は,国定市議と連携し,反原発運動に,より積極的に関わるようになっていった。定期大会の議案書に章を設けて「珠洲原発反対運動」のことに触れるようになったのも,このころからである。

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 珠洲市長選と事前調査阻止
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 1988年12月14日,関西電力は,石川県知事と珠洲市長に,高屋町の原発立地について「まちづくり構想と共存共栄できる発電所構想の可能性を調査するため」の事前調査を申し入れた。
 この電力の動きに危機感を抱いた市民たちは,3月,「珠洲文化会議」を主体として反原発団体「止めよう原発!珠洲市民の会」を結成。1989年4月の珠洲市長選で,同会メンバーの北野進氏を市長候補として擁立し,現職の林氏に挑んだ。
 結果は,北野・米村候補の反原発票8461票が,当選した林候補の8021票を上回る過半数(有効投票の51.3%)を占めた。推進派が,とても勝ったとは言えない状況だったにもかかわらず,市・電力は,5月12日,高屋で事前調査を強行した。これに対し,珠洲支部は,6月10日の支部定期大会で「珠洲原発に反対する珠洲支部特別決議」を採択し,市と電力に「事前調査の即時中止」などを申し入れた。それを受け,県教組も,定期大会で「特別決議」を採択した。
 5月12日から,関西電力が高屋で事前調査を強行するや,反原発市民が連日阻止行動を開始した。珠洲支部は,関西電力が6月16日に調査の一時見合わせを発表するまでの35日間,組合員に動員をかけ,市民とともに事前調査を阻止した。
また,5月22日,反原発市民が市長との対話を求めて市役所に行き,途中で退場した市長の帰りを待って,40日間も市役所会議室で座り込みを続けた。珠洲支部は,市役所会議室へも連帯を求めて顔を出すよう,組合員に要請した。
 さらに,珠洲支部は,6月市議会に「珠洲原発計画の白紙撤回」の請願書を出した。また,反原発の署名やカンパなど,市民グループと連帯してとりくんだ。
 この署名活動を通して,各地に原発反対の住民組織が次々に誕生したのは,画期的な出来事だった。これらの組織が大同団結し,6月17日「珠洲原発反対ネットワーク」が誕生したのである。
 6月30日の座り込み解除後も,市民団体(ネットワーク)や地区労・県評などが,次々と集会や映画会,講演会などを開催し,反原発を市民にアピールした。珠洲支部は,独自の運動とともに,このような各種の集会には積極的に参加し,市民とともに運動をしているという実感を得ていった。

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 県教組珠洲支部の積極的な運動
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 1989年〜1990年の珠洲支部の「珠洲原発反対闘争」は,市民団体の動きに刺激される形で,どんどん盛り上がっていった。それまでも「原発反対運動」が珠洲支部の運動方針に掲げられてはいた。とは言え,それまでの運動は,どちらかというと,能登(志賀)原発の動員をこなしたり,地区労・反連協の一員としての動きの方が主であった。
 しかし,1990年ごろの珠洲支部のたたかいは,組織的・能動的・積極的であったという意味で,珠洲支部にとって,歴史的な時期であったと言えよう。この1年間で,珠洲市長選,参議院選,衆議院選と,3回もの選挙が行われたが,いずれも反原発を鮮明にした候補が善戦し(うち参議院選の粟森喬氏は当選),珠洲では画期的なたたかいとなった。

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 一歩一歩前進…土地共有化基金
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 高屋における関西電力による土地賃貸 契約締結の策動は,1989年6月の可能性調査中断以降,特に執拗に継続されていた。こうした実態については,NHKドキュメンタリー’90『原発立地はこうして進む』で全国に放映された。
 このような関西電力の動きに対し,高屋では,昼夜を問わず監視行動が続けられた。珠洲支部組合員も地区労の動員要請を受け,監視行動に参加した。しかし,関西電力による工作は,まさに「黒子」を地でいくようなもので,夜間に及ぶことが多く,残念ながら,地元任せの監視行動にしかならなかった。
 そんな中,1990年5月から「高屋町郷土を愛する会」によって「高屋土地共有化基金」のカンパが始められた。これは,関西電力による土地確保の策動に対抗して,<原発に土地を渡さないために共有化を進めよう>という趣旨によるもので,珠洲市外の全国に向けたカンパ要請活動だった。珠洲支部は,このカンパに協力することを第3回支部委員会で決定しとりくんだ。さらに,県青年部・支部青年部もそれぞれ機関会議で決定し,カンパ運動に積極的にとりくんだ。

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 一歩一歩前進…選挙へのとりくみ
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 1990年度,第7回支部委員会(12/14)において,国定正重氏(現職)を珠洲市議会議員候補に,内浦町議会議員候補に小路礼一郎氏を推薦し,以来,教組OB,退職者,市民グループ等の支援を得ながら,地区労と共に組織の総力をあげて選挙戦をたたかった。
 前哨戦と言われた先の知事選(2/3)や県議選(4/7)では,全国的には自民党保守勢力の反動的巻き返しに会い,社会党を中心に革新系の後退という厳しい状況にありながら,石川県下では,革新系の飛躍が見られ注目された。とりわけ,県議選での北野進氏の当選は,国定候補をはじめとする反原発陣営には,勇気を与えた。しかし,国定候補を含めて反原発候補が6人もひしめき合う珠洲市では,選挙戦史上かつてない激戦となった。
 結果は,国定正重氏をはじめ計4名の反原発議員が誕生。原発反対の市民たちは,議会へもその力を及ぼし始めたのである。
 このように,珠洲市民の原発反対の意志が一歩一歩確実に示されてきているにもかかわらず,市当局は従来の「地域振興課」の性格をより鮮明に打ち出し,「電源立地振興課」と改名してまでも原発推進に執着するという有様であった。このような,市民の声を無視した市行政の姿勢が,次の市長選でさらに明確になり,ついには裁判で争われることになるのである。

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 不正・違法の珠洲市長選挙
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 反原発を掲げてたたかう1993年4月の市長選は,1981年,1989年に続いて3回目だった。2月1日に立候補表明した樫田凖一郎氏は,元県教組珠洲支部書記長・委員長を歴任した人であった。翌2月2日,珠洲支部は第9回支部委員会で推薦し,組織の総力をあげ,必勝を目指してとりくむことを決定した。それを受け,2月4日,県教組も,第131回定期大会で樫田氏の推薦を決定した。そして,3月10日,日教組中央委員会でも樫田候補の推薦が決まった。
 市長選の争点である「原発反対」が,県教組の運動方針に合っていたのと,樫田候補が珠洲支部組合員の人望の厚い人だったので,県教組は珠洲支部と連携して全力でとりくんだ。多額のカンパや檄文,支持者カードなどが珠洲支部に届き,出陣式や総決起大会にも県教組から多数参加した。
 一方,珠洲支部組合員は,ハガキの宛名書き,電話戦術,ビラ配布,ポスターの両面テープ貼り,支持者カードの集約・点検・増票などを行った。また,後援会結成大会,個人演説会,地区選対などに も積極的に参加した。投票日当日の自主選管の監視行動にも,青年部を中心にとりくんだ。
 開票の結果は,樫田凖一郎氏が8241票,林幹人氏が9199票だった。しかし,開票後,投票総数が投票者数より16票多いことが判明し,不正・違法選挙であったことが明らかになった。林陣営は,市選管と一体になり,林票への大量増票操作を行い,帳尻合わせに失敗した,というのが大方の見方だった。
 不正な開票作業を目の当たりにした多くの組合員が,大いに怒り,<平和や人権を尊重し,真実を貫く民主教育の確立>が急務であることを痛感した。

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中西県政から谷本県政へ
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 1993年7月30日,能登(志賀)原発が営業運転を強行した。
 県教組は,1992年度から「原子力防災対策委員会」を設置し,能登原発の防災対策や校内の防災計画などについて,学習を重ねてきた。
 珠洲支部では,原子力対策委員会(あえて「防災」という文字をとっている)を中心に,支部・分会で学習を重ねてきた。そして,「最高の防護対策は<原発の運転を中止させること>しかないこと」を確認してきた。能登原発が事故を起こせば,珠洲のこの地の住民は逃げる場所などないのである。
 また,1994年1月〜2月頃,珠洲では「事前調査が強行されるのではないか」という風聞も流れ,県評センターでも連日50人規模の動員体制を組めるよう,指示を下していた。しかし,2月2日の中西 知事死去のため,状況は大きく変わった。
 中西知事死去により,31年間続いた中西県政に終止符が打たれ,新しい県知事の決定に向けてのとりくみがすすめられた。県教組は,第6回臨時県委員会で,谷本正憲候補の推薦を決定するとともに,第2回支部選対委員長会等を開催,具体的なとりくみを決定し,谷本候補必勝に向けて始動した。
 珠洲支部は当選できる候補として,また珠洲原発反対の意志表示をするために,よりベターな選択として谷本候補を推薦し,県よりも多くの目標を設定し,全力でとりくんだ。その結果,珠洲ではもう一人の反原発候補と合わせて自民党候補に741票差に迫る票を獲得し,谷本新知事の「まだ十分な地元の合意はできていない」という発言をひきだした。しかし,原発推進の中断であって破棄ではないので,今後も各選挙において反原発の意志表示を票で示していかなければならないと総括した。

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 珠洲市長選挙無効訴訟
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 1993年6月3日,反原発の樫田派の市民は「不正選挙を糾明する会」を結成し,4月28日に市選管に「選挙無効」の異議申し立てをし,5月28日に却下された。6月16日,県選管に申し立てを行ったが,これも11月30日,棄却された。
 1993年12月24日,市民約2200人が選挙無効を訴えた審査請求を棄却した県選管を相手に,裁決の取り消しと選挙無効を求める訴訟を,名古屋高裁金沢支部に起こした。1994年2月16日から第1回公判が始まり,9月5日,6日には全投票用紙の検証も行った。11月28日の第10回公判で,原告側は,偽造投票用紙の鑑定を申請した。さらに,投票用紙の鑑定申請を求める署名を裁判所に提出したが,12月9日,却下された。12月12日,第11回公判で,原告側は再度投票用紙の鑑定を申請したが,採用してもらえなかった。仕方なく,原告は笹本裁判長を忌避した。裁判長は即時抗告した。1995年7月10日,第12回公判が再開された。第13回公判で結審。そして,12月11日の第14回公判で,「選挙無効」という歴史的な勝利判決が下った。
 この訴訟に,県教組は多額のカンパを寄せた。珠洲支部組合員は,申立人や原告に加わり,集会やデモ,裁判傍聴に参加してきた。県選管は,1995年12月21日,最高裁に上告した。
しかし,1996年5月31日,最高裁は「選挙の手続き全般に わたって厳正かつ公正 に行われたかどうかに ついて疑いを抱かざる を得ない」と述べ,「珠洲市長選挙を無効」とした名古屋高裁金沢支部判決を支持し,県選管の上告を棄却した。高裁に次ぐ最高裁の勝訴で,樫田氏を支持した反原発派の市民は,歓喜した。
これにより,選挙の無効が確定し,同時に林幹人「市長」の当選が無効となり,林氏は失職した。

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 やり直し市長選と秋祭り
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 最高裁の判決書が届いてから50日以内に,やり直し選挙が行われることになった。6月4日に通知を受けた市選管は,再選挙の日程を7月7日告示,7月14日投票と決めた。県教組は,今度こそ樫田氏を市長に当選させようと,珠洲支部とともに選挙戦に加わり,前回同様,カンパや檄ビラ・支持者カードを集約し,演説会や各種集会に参加した。
 「裁判に勝っても選挙に勝たねば意味がない」と,総力をあげてたたかったが,林前「市長」の後継者,貝蔵治陣営は,原発を争点からはずして対話路線を掲げ,組織力をフルに使い,樫田陣営にきめ細かな圧力をかけ,当選してしまった。しかし,投票の翌日の7月15日,朝から市役所に警察が家宅捜索に入り,市長職務代理者の田畑助役が逮捕されてしまった。「市職員に貝蔵氏の支援を求める演説をし,前回同様市役所ぐるみの選挙を企てた」のは公職選挙法違反(事前運動・公務員の地位利用)の疑いがあるというのである。そして,7月31日田畑助役は辞任した。
 12月25日には有罪が確定している。 このように,やり直し市長選挙も原発の利権にありつこうとする人たちによって,不正選挙が繰り返され,恥の上塗りに終わったのである。
選挙さえもまともに行えない市。珠洲原発反対運動が,珠洲の民主化運動であるというという理由は,まさにこの点にあるのだ。
 1996年9月16日,蛸島漁港で「第16回豊かな海づくり大会」が開催されたのを踏まえ,珠洲市長選や衆議院選の疲れをほぐそうと,「豊かな自然を守る珠洲の秋祭り」を行うことにした。主催は,「珠洲の秋祭り実行委員会」で,既存の団体である勤労協・反連協・ネットワーク・自然を守る会などから,スタッフを募る形で組織した。珠洲支部からも若手教師を中心に多数実行委員に加わり,計画・実行に移していった。
 11月16日には,「巻町住民講演会」「樋口健二写真展」「Mr.マリック・オン・ステージIN珠洲」「交流会IN鉢ヶ崎」が行われた。「Mr.マリック・オン・ステージIN珠洲」は,そのほとんどを珠洲支部の組合員が担当した。17日には,鉢ヶ崎で,フリーマーケット及びお祭り広場を開催。2000名以上の人でにぎわった。
 一方,珠洲支部組合員は,教文部・推進委員会を中心に,映画『とべないホタルPiPi』を3回上映。のべ500名余りの人が,この映画を見た。
 準備期間が短く,手探り状態の行事だったとは言え,新しい形の文化創造運動として,人権や環境を市民と共に考えていくきっかけとなるものであった。今後も,珠洲支部組合員が主体的にこのようなとりくみに参加していくことが期待される。

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 珠洲原発白紙撤回の日まで
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 貝蔵市長は,1997年3月24日の市議会で,「電源立地を前提にした地域振興策」についての「市民フォーラム」を10月頃に開催する予算案を可決し,物議をかもしだしている(9月議会で,11月16日午後に開催することを決定)。市民全員と話し合うという公約に違反しているし,動燃の再処理工場で1997年3月11日に起きた火災・爆発事故などで,原発の安全神話が崩れ,国の原子力政策である核燃料サイクルがつぶれたのを,見ようともしていないのだ。一方,反対派は,10月の中旬から下旬にかけ,96年の秋祭りの内容に加え,独自に講演会や市民フォーラム,シンポジュームの開催を予定している。世界的な脱原発,国内の原子力政策の破綻で,珠洲原発の白紙撤回は近い。今後とも,反原発運動をねばり強く継続していかなければならない。

 そして…

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 珠洲原発事実上の「白紙撤回」
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 その後,曲折を経て,2003年(平成15年)12月5日,関西・中部・北陸電力の3社長が珠洲市役所を訪れ,「珠洲原発の凍結」を申し入れました。ここに,28年間に及んだ珠洲原発計画は,調査も出来ないまま撤退したのです。

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