[2024_09_27_04]<JCO臨界事故25年 当時の東海村長・村上さん回想>(上) 悩んだ末、初の住民避難 情報ない中、当日の決断(東京新聞2024年9月27日)
 
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<JCO臨界事故25年 当時の東海村長・村上さん回想>(上) 悩んだ末、初の住民避難 情報ない中、当日の決断

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 1999年、核燃料加工会社「ジェー・シー・オー(JCO)」の東海事業所(茨城県東海村)で、国内の原子力施設では初めての臨界事故が起きてから30日で25年となる。事故では同社の作業員3人が被ばくし2人が死亡。多くの近隣住民らも放射線にさらされ、村は初の住民避難を行った。当時の村長の村上達也さん(81)に、当日の決断の過程と今後の原子力開発への考えを聞いた。(竹島勇)

 「事故当日のことは、鮮明に覚えている」。村上さんはそう切り出した。常陽銀行で支店長まで務め、請われて村長選に出馬。事故時は就任2年、56歳だった。村は日本原子力発電東海第2原発をはじめ多数の原子力施設が立地する。事故を機に原発反対の立場に転じ、現在も危険性を訴え続ける。
 99年9月30日午前10時35分、臨界事故が発生。村上さんは公用車で出張中で、正午過ぎに事故を知った。JCOによると、敷地境界での1時間当たりガンマ線線量率は最大0・84ミリシーベルトと、一般人の年間許容量の1ミリシーベルトに迫る値だった。
 午後1時半に役場に戻ると、関係者や報道陣が集まり騒然としていた。「大変なことが起きた」と実感した。JCO社員が同社周辺を太線で囲んだ地図を示し、「この範囲の住民を避難させて」と強く訴えた。

 当時の村の原子力防災計画では、成人の屋外避難の基準は「外部全身で予測線量100ミリシーベルト以上」とだけ記載されていた。どう対応するべきか、県と科学技術庁(当時)に問い合わせたが、県は「屋内退避を」と原則を示し、科技庁とは連絡が取れなかった。
 JCOは社員を即座に避難させていた。屋内退避中の住民を外に出すのは悩んだが、村上さんは住民避難を決断し、午後3時、JCOの半径350メートル圏内からの避難を要請。防災無線で住民がパニックになるのを避けるため職員が戸別訪問し、約1・3キロ離れた村のコミュニティセンターに計161人が身を寄せた。
 「県も国も有効な情報を出せなかった。あの日、この国は原子力事故の対応策がないまま開発に突き進んでいたのだと実感した」と村上さん。「あの時は避難してもらうしかなかった」と言い切る一方、「職員は防護服すらなく危険な業務をさせてしまった」と、苦悩の連続だった1日を振り返った。

<JCO臨界事故> 1999年9月30日午前10時35分、東海村の核燃料加工会社「ジェー・シー・オー(JCO)」東海事業所の転換試験棟で、作業員3人がウラン溶液を製造中、核分裂の連鎖が続く臨界状態が発生し、中性子線やガンマ線が放出される臨界事故が約20時間続いた。
 同社は作業効率を上げるため、正規の手順を守らず、ウラン粉末の溶解作業にバケツを使い、臨界を防ぐ形状になっていない沈殿槽に規定量の約7倍のウラン溶液を投入していた。事故により、作業員のうち2人が同年12月と翌年4月にそれぞれ死亡。近隣住民667人も被ばくした。
 JCOは被害者らに計154億円の賠償金を支払った。元所長ら6人が業務上過失致死などの罪に問われ、03年3月の水戸地裁判決は会社ぐるみの違法操業が事故の原因と認定。全員に執行猶予付きの有罪判決が確定した。
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