[2023_05_01_01]東京の消防能力退歩訴え(東奥日報2023年5月1日)
 
参照元
東京の消防能力退歩訴え

 1923年9月の関東大震災の翌月、「地震博士」として有名だった今村明恒東京帝国大(現東京大)助教授が皇太子の裕仁親王(後の昭和天皇)に緊急で進講した際の手書き原稿が30日までに見つかった。地殻のせめぎ合いで地震が起きるとの当時の新説を紹介し、東京の防火対策が江戸時代から退歩したと訴える内容。孫の英明さん(88)東京都在住=が約10年前、自宅に残る遺稿の中から発見していた。
 原稿「一般地震と関東大地震とに就(つ)いて」は計20枚でペン書き。29年1月、地震学会誌にほぼ同じ内容を発表している。
 北原糸子・立命館大客員研究員(災害史)は、大正天皇に代わる摂政の激務を務める皇太子は科学者でもあり「進講がある種の救いや余裕をもたらした」と推測する。
 この原稿は現在の理論プレートテクトニクスに通じる「大陸漂流説」を紹介するなど、かなり専門的な内容。水平に働く力に地殻が抵抗するので「地震力の蓄積といふことが始まり、最後に平均が破れて(略)大地震の現象が生ずるので御座(ござ)ります」とする。
 大学の地震計は「震動餘(あま)りに大きかった爲(た)め(略)描針が途中で紙面を外(は)づれまして、暫時用を爲(な)して居りませぬ」。最も強い揺れは記録できたため、震源を「東京の南二十六度、西九十二粁(キロメートル)の(略)相模湾の中央部」とした。
 関東大震災では火災で10万人近く死亡した。1855年の安政江戸地震では消防能力が十分だったため大火にならなかったが、火事の原因となる化学薬品や石油なども増えた割に水道が地震で役に立たないなど「消防能力は(略)殆(ほとん)ど皆無の状態にまで退歩した」と嘆いた。
 進講は「地震を抑あつ(よくあつ)致しますることは不可能で御座りませうが、火災を防止致しますることは必ずしも不可能では御座りますまい」と訴えて終わった。

 代表作「子々孫々に」 防災の提言を幅広く

 地震博士として知られた今村明恒は1923年9月の関東大震災について、天皇の代理(摂政)を務める皇太子に心血を注いで語りかけようとした。29年1月の地震学会誌で進講の原稿を公開し、高貴の方にささげて書いた代表作として「自己の子々孫々に伝えたい」と記している。この雑誌は、今は国会図書館など限られた場所でしか読むことができない。
 手書き原稿を読んだ北原糸子・立命館大客員研究員は「何を考えて書いたのか、過程が分かる貴重な資料だ」と評価する。「難しい表現を分かりやすくしたり丁寧な言葉に言い換えたり、苦心して何回も添削している」 地震の理論だけに偏らず、震災の被害や観測の結果、防災に向けた提言を幅広く説明していて「現場を見て回り、防災を重要視した今村らしさが出ている」と分析した。

 今村明恒 1870年、現在の鹿児島市生まれ。地震学者。東京帝国大{東京大の前身)の助教授だった1905年、東京では周期的に大地震が起きており近い将来の大地震と火災に備えるベきだと雑誌の記事で警告し、社会問題となった。23年9月の関東大震災を受け、直後の10月15日に摂政で皇太子の裕仁親王に進講した。同年東京帝大教授。私費で南海トラフ地震の観測所を運営し、新聞や雑誌への投稿などで地震の研究や防災の必要性を訴えた。48年1月に77歳で死去。
KEY_WORD:KANTOUDAISHINSAI_:ANSEIEDO_: