[2022_06_17_12]福島原発事故避難者訴訟 愛媛に避難して…交錯する思いと不安 原告の11年【愛媛】(テレビ愛媛2022年6月17日)
 
参照元
福島原発事故避難者訴訟 愛媛に避難して…交錯する思いと不安 原告の11年【愛媛】

 2022/06/17 20:15 6/17(金) 20:15配信
 福島第一原発事故で避難した住民にとっては無念の判決が下されました。
 福島第一原発事故から11年。
 愛媛に避難して今回の訴えを起こした原告にとってはさまざまな思いが交錯する11年でした。
 これまでの経緯を振り返ります。
 渡部寛志さん:
 「原発事故という恐怖の中、全てを投げ出し、全てを奪われ、命からがら逃げ出したのです。その恐怖や苦しみを忘れることなどできません」
 あの日から11年。
 愛媛に避難して今回の訴訟で原告のひとりとなった渡部寛志さん(43)。
 福島第一原発事故では多くの住民が避難を余儀なくされました。
 渡部さんが住んでいた福島県南相馬市小高区は原発から10数キロの地点で、すぐに「避難指示」が出されました。
 農業を営んでいた渡部さんは妻と幼い娘2人を連れて、大学時代を過ごした愛媛に避難。
 その後、伊予市などでミカンの栽培を始め、収穫のたびにミカンを積み込んだトラックで福島の親戚や友人を訪ねました。
 渡部寛志さん:
 「南相馬市というこの地域を捨てて、愛媛に来たという気持ちでいるわけじゃない。とりあえず今は(地元と)つながっていたい」
 3年前からは福島の避難指示が解除されたエリアで米作りも再開。
 愛媛と福島での「二重の生活」をスタートさせたのです。
 直線距離にして800キロ以上を行き来する暮らし。
 そこに渡部さんのぬぐい切れない「不安」がありました。
 渡部寛志さん:
 「(福島に)帰るか帰らないか悩んだけど、やっぱりまだ原発の状況が不安だし、(放射性物質への)不安が拭えないから完全に帰還するわけにはいかないという心境が続いている」
 幼い子供を育てる中で、今も残るかもしれない放射性物質へのおそれが拭えず、愛媛にも生活の軸を置こうと決めたのです。
 しかし、福島に戻って元通りの生活をしたかった妻との意見の相違などから、結果、家族は離れ離れに。
 現在、渡部さんは次女と暮らし、松前町で農業経営の会社を立ち上げています。
 渡部寛志さん:
 「住んでいた所から離れて、今まで生活していた場所であったり、仕事にしていた農業というのが、どれだけ自分にとって大事なものだったか、かけがえのないものだったか、あの場所がどれだけ大事な場所だったのかっていうのを気付かさせられたんですけど」
 自らの人生を大きく変えてしまった福島第一原発事故。
 その責任はどこにあるのか。
 渡部さんら愛媛への避難者25人は、2014年に国と東京電力を相手取って損害賠償の訴えを起こしました。
 提訴から5年後の2019年、1審の松山地裁は被告の国・東電ともに事故の責任を認め、賠償を命じる判決を出しました。
 去年、2審の高松高裁も同様の判決で両者に賠償金4621万円の支払いを命じました。
 そして、審理の場は最高裁判所に移りました。
 今年3月、最高裁は東電の上告を退けて、残るは国の責任に関する審理だけとなりました。
 5月17日には実際に法廷を開いての弁論が行われ、渡部さんと次女の2人が最高裁の小法廷で「一国民として被害者一人一人の気持ちに寄り添ってほしい」と訴えていました。
 そして、17日、全国で起こされていた同様の訴訟とあわせて最高裁が判決を出しました。
 多くの人たちが避難を、人生を変えることを、余儀なくされたあの事故に国の責任があるのかどうか。
 この国の司法の最後の番人・最高裁判所が初めて判断したのです。
 渡部寛志さん:
 「大きな地震と津波のせいにして、東京電力だけのせいにして、東京電力にだけ責任を負わせて、地域住民と東京電力の関係ということだけで終わらせてしまう、非常に許せない判決でした」
 あれから11年。
 最高裁が判決を出したことで、この裁判は終わりますが、渡部さんの、原発事故で影響を受けた全ての人たちの人生が事故以前に戻ることはありません。

 テレビ愛媛
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