[2022_03_08_06]「日本が終わると思った」 3.11原発事故、記者が会見場で感じた戦慄と重圧(西日本新聞2022年3月8日)
 
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「日本が終わると思った」 3.11原発事故、記者が会見場で感じた戦慄と重圧

 あの時、記者としてどうすればよかったのか。この季節が巡るたびに自問する。
 2011年3月11日。東京報道部の記者だった私は、首相官邸前にある国会記者会館で激しい揺れに襲われた。外に飛び出すと、参院決算委員会で国会にいた菅直人首相の車列が猛スピードで官邸に入るのが見えた。「こりゃいかん」。私は担当していた経済産業省へと一目散に霞が関の坂道を走り下った。
 東京電力福島第1原発は巨大な津波で全電源を喪失していた。当時原発の安全行政を所管していたのは経産省の原子力安全・保安院。記者会見はそれから数週間、昼夜を問わず続いた。常時50〜60人の記者がいただろうか。その中には、かつて九州で一緒に勤務した全国紙の原発専門記者もいた。
 あの時、何を考えながら会見を聞いていたのだろう。久しぶりに電話すると、彼はこう言った。「2011年はチェルノブイリ原発事故から25年で、現地を取材しようと準備していた。そしたら調べていたことが目の前で起きて…。日本が終わると思った」
 1、2、3号機と連鎖する危機に記者たちも戦慄(せんりつ)した。余震の揺れは続き、携帯電話から緊急地震速報のアラーム音が鳴り響いた。それでも私の記憶では、会見中に浮足だったり、声を荒らげたりする記者はいなかった。誰もが努めて冷静に振る舞った。
 ただ、その冷静さの裏には言い知れぬ重圧があった。「マスコミ発のパニックを起こしてはならない」という無言の圧力だ。
 原子炉の圧力が異常に高まり、冷却のための注水がストップする。次々に訪れる深刻な局面で、記者たちの質問は「何が起きているのか」「どうすればいいのか」などと目先のことに終始した。普段なら出る「この先どうなるのか」「最悪の事態は何か」といった質問が出ないのだ。
 当時の会見はテレビやインターネットで生中継されていた。政府側の答えによっては、自分の質問が引き金になりパニックが起きかねない。私を含め、少なからぬ記者がそれを恐れたと思う。現に東京駅や羽田空港は、首都圏から脱出する子ども連れであふれていたが、パニックを恐れてどこも報道しなかった。
 その後、当時の近藤駿介原子力委員長が、首相の指示で「最悪のシナリオ」を作成していたことが判明した。原子炉格納容器の破損が連鎖するなどした場合、福島第1原発から半径250キロ圏内が汚染地域になるとされていた。東京を含む3千万人が避難を強いられる規模だ。
 あの時、聞くべきこと、報じるべきことを自己規制してしまったのではないか。次に同じことが起きたらどうするか。今も答えが出ない。(佐賀総局長・植田祐一)
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