[2017_06_16_02]世界が震撼した大火砕流(島村英紀2017年6月16日)
 
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世界が震撼した大火砕流

 6月は長崎県島原半島にある雲仙普賢(ふげん)岳で26年前の1991年に「戦後最大」の火山災害を生んでしまった月だ。
 このときの火山災害は火砕流だった。2014年の御嶽噴火で戦後最大という記録は塗りかえられたが、温度は300℃を超え、流れ下る速さが新幹線なみの火砕流は逃げられるものではなかった。43名が犠牲になった。いまでも火砕流のあとがはっきり残っている。
 しかし、雲仙普賢岳ではかつて日本史上最大の被害者数を生んだ火山災害が起きたことがある。火砕流ではなく山体崩壊だった。
 江戸時代の1792年のことだった。普賢岳で噴火と同時に起きた強い地震で隣の眉山(まゆやま)が崩れた。
 大量の土砂が島原の海になだれ込んで津波を起こし、有明海対岸の肥後(熊本)を襲った。犠牲者は対岸のほうが多く、全部で15000人にもなった。「島原大変、肥後迷惑」と称されるようになった事件だ。
 この山体崩壊に見られるように、そもそも火山は、火山灰や噴石や火砕流が積み重なって山を作っているものだから、とても崩れやすい。
 たとえば、静岡・御殿場市は標高500メートルほどのなだらかな斜面に拡がっているが、これは約3000年前に富士山の山体崩壊で作られた平坦面なのである。
 しかも、この山体崩壊は、富士山の噴火が起こしたものではなかった。近くで起きた地震による崩壊だったのだ。火山が噴火しなくても、揺すぶられれば山体崩壊が起きることがある。
 18世紀の大災害後、当時の島原藩主は復興のためにハゼの木の育成を奨励した。ハゼは実から「ろう」が作れる。ろうは、当時の重要な照明だったろうそくの原料だった。島原は約10万本のハゼ林が広がる国内屈指の産地になり、最盛期には200軒以上の工場や工房でろうそくが作られるようになった。
 ハゼから採れるろうで作ったものは現在は「和ろうそく」と言われる。
 しかし、明治以降は石油を原料とする安価な「洋ろうそく」が普及し、電気が普及して照明の用途もなくなって島原の和ろうそく産業は衰退した。だが、和ろうそくはすすが出にくく、仏壇や仏具などを汚しにくい特長があるので、細々ながら続いていた。
 そこへ追い打ちをかけたのが、1990年から5年半にわたった普賢岳の噴火だった。ハゼ林が残っていた山腹の千本木地区が土石流や火砕流に襲われたのだ。
 ところで、雲仙岳ではこの1792年に火山災害を起こした噴火以後は、約200年間噴火はなかった。噴火が再開されたのが1990年。その翌年に大災害が起きてしまったのだ。約200年という長い休止期間のあとで活発化したのである。
 日本のほかの火山でも休止期間が長いと、人々も自治体も、ずっと噴火しないものだと油断していることが多い。
 たとえば富士山は1707年の最後の噴火後300年間は静かなのだが、警戒は怠れない火山の一つなのだ。地球にとっては200年や300年は、ごく短い時間なのである。

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