【記事72940】<つなぐ 戦後73年>戦時、隠された被災地 昭和東南海地震 国が報道管制(東京新聞2018年8月20日)
 
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<つなぐ 戦後73年>戦時、隠された被災地 昭和東南海地震 国が報道管制

 太平洋戦争末期に東海地方を襲った昭和東南海地震は、戦時下の報道管制で被害状況がほとんど伝えられなかった。「隠された災害」を浜松市で経験した斎藤ようさん(84)=東京都町田市=が今夏、首都圏に住む高校の同級生たちとともに被災体験を文集にした。都合の悪いことを隠し、日本は焦土へ突き進んだ。文集には「大地震さえ隠す戦争の恐ろしさを伝えたい」との願いを込めた。 (松村裕子)
 国民学校の四年生だった。ドッカーンという大きな音がして、激しい揺れに襲われた。「爆弾が落ちた」と思い、爆風から身を守ろうと急いで机の下にもぐった。地震だと分かったのは校舎の外に出てから。千二百人以上の死者を出した東南海地震は一九四四年十二月七日、午後の授業が始まってすぐに起こった。下校途中、倒壊した家屋から人の手だけが見え、怖くて足早に通りすぎた。
 浜松市を大規模な空襲が襲ったのはその六日後だ。
 軍需工場が多いこともあり、終戦までに艦砲射撃も合わせて大きなものだけで二十七回も米軍の攻撃にさらされた。地方都市では異例の被害が出たのは、帰還する米軍機が余った爆弾を浜松上空で投下したためだった。日本爆撃作戦の司令官だった米軍のカーチス・ルメイは浜松を「爆弾のゴミため」と後に記した。
 斎藤さんの自宅もたび重なる空襲で焼失した。
 空襲とほぼ同時期の巨大地震は国民の戦意喪失を恐れた軍部によって隠された。斎藤さんが報道管制を知ったのは戦後十年余りたったころだったという。
 「あんな恐ろしい思いをしたのに、被災地以外はほとんど知らないなんて」。戦争のせいで被災地が見捨てられたように感じた。
 子や孫に詳しく話したことはなかったが、二〇一一年の東日本大震災を町田市で体験し、「子どものころ、もっと怖い地震があった」と思い出した。
 斎藤さんにとって空襲と相前後して体験した地震もまた戦争そのものだ。「書き残しておけば、いつか読んでもらえる」と昨年五月、終戦後に進学した静岡県西遠(せいえん)女子学園中学・高校(浜松市)の同級生たちに文集作成を提案。東京近辺に住む友人たちも同じように東日本大震災で戦下の記憶がよみがえっていた。斎藤さんを含め十八人が体験談を書き、文集「戦争に翻弄(ほんろう)された私たちの子ども時代」をまとめた。
 昨夏、ひ孫が生まれ、斎藤さんは「子どもたちを自分たちのような怖い目に遭わせたくない」との思いを強める。近年、戦後生まれの政治家たちが勇ましい言葉で改憲を急ぐ。戦時下に戻りかねない空気を感じるという斎藤さんは「戦争を想像できない人に言いたい。どんな理由があっても戦争はしてはいけない。戦争で幸せになる人はいない」と声を絞った。

 ◆文集はA5判、165ページ。1500円。専用メール(sensounih@yahoo.co.jp)で受け付ける。

<昭和東南海地震> 1944年12月7日、三重県沖を震源に発生。マグニチュード7・9で三重、愛知、静岡3県を中心に1200人以上が亡くなった。静岡県の死者は300人近くに上り、旧浜松市でも23人が亡くなったという記録がある。東南海地震の37日後には愛知県東部を中心に約2300人が亡くなった三河地震が発生。戦争末期の2つの地震は発生そのものが秘密扱いで、資料もほとんど残っていない。

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