【記事18408】揺らぐ安全神話 柏崎刈羽原発 はがれたベール 検証・設置審査 <1> 断層権威の警告無視 名前利用「嫌気差した」 突然の辞意 議論尽くさず 消された記述(新潟日報2008年1月1日)
 

※以下は上記本文中から重要と思われるヶ所を抜粋し、テキスト化したものである

 これほどの激震に襲われた場所になぜ、原子炉の設置が許可されたのか。中越沖地震で、阪神大震災と同じ最大で震度7を記録した東京電力柏崎刈羽原発。国は一九七七年、専門家による安全審査の審議を経て1号機の設置を許可した。しかし、中越沖地震の揺れは設計時の想定を大幅に超えた。さらに周辺海域に大規模な活断層の存在が明らかになったことによって、国による安全の「保証」は大きく傷ついた。非公開で行われ、厚いべールに覆われてきた三十一年前の安全審査。かかわった人物の証言を基にその実態を検証する。
 
 「そういうことなら辞めさせていただきます」
 七七年、東京・霞が関。柏崎刈羽原発1号機の耐震安全性を審査する場で突然、予想もしなかった発言が出た。それを、科学技術庁(当時)の原子力安全審査官だった塚腰勇(69)ははっきりと覚えている。審査は大詰めを迎えていた。
 発言の主は審査メンバーのl人で東京大学地震研究所助教授だった松田時彦(七六)。当時、国内ではまだ新しい学問だった活断層研究の最先端を走っていた。
 1号機の安全審査を担ったのは、原子力委員会の原子炉安全専門審査会(炉安審)内に設けられた「120部会」。塚腰の記憶では、耐震安全性を審議する分科会の真っ最中に、松田は辞意を示した。
 分科会は地質や建築の専門家十三人によって構成。まとめ役の東大工学部教授だった大崎順彦(故人)が議論を収拾しようとしたときのことだ。松田はその日以降、分科会を去った。
 120部会の出席表が今も残っている。松田が最後に出席した分科会は同年五月十日。三カ月後の八月、炉安審は「柏崎刈羽原発の安全性は確保されている」との報告書をまとめた。
 
 ■議論尽くさず
 
 活断層研究の権威がなぜ辞めようとしたのか
 「途中で嫌気が差したから、辞めさせてくれと言ったんです」。松田は淡々とした口調で振り返る。だが、当時の資料に辞任を示す記述はない。「(科技庁が務める)事務局から、報道機関が騒ぐので出席しなくてもいいから辞めないでくれ、と言われた」と明かす。
 発端は、長岡平野西側の丘陵沿いを南北に走る活断層「気比ノ宮断層」=図参照=の評価をめぐる議論だった。
 松田は当時、気比ノ宮断層北方の延長線上に並ぶ断層群の存在を気に掛けていた。断層群と気比ノ宮が一体である可能性があり、同時に動けば、マグニチュード(M)8規模の地震を引き起こす恐れがあるからだ。
 だが、断層群については調査はおろか、議論も尽くされなかったという。1号機の安全審査書では、気比ノ宮断層で起きる可能性があるM6・9の地震を考慮することが妥当と結論付けられた。
 審査書には松田の主張が結論とは関係のないただし書きという形で残された。「気比ノ宮断層の北北東に同一の断層系に属する別の断層が配列する可能性は否定できない」。松田にとっては事実上、無視されたのと同じだ。
 「活断層の専門家として呼ばれたのに意見を聞かれただけだった。やりがいがない上、名前だけ使われている気がした」と松田。当時の悔しさが込み上げた。
 
 ■消された記述
 
 松田は柏崎刈羽1号機を最後に原発審査から一切、手を引いた。「研究で得た知識を必要としている人に知らせるのが研究者の役目。その夢が破れた」
 松田の見解は八二年にまとまった2、5号機の設置審査でも「一連の断層と考える必要はない」と否定された後、残りの号機の審査書では記述すら消された。
 中越地震直前の二〇〇四年十月十三日、政府の地震調査委員会は、気比ノ宮断層と、その北に連なる断層群を「長岡平野西緑断層帯」としてひとくくりにし、M8規模の地震が起こり得ると評価した。二十七年前の松田の見解と同様の内容だった。
 それでも国は中越沖後、原発の安全審査について「当時としては最高峰の学者が持つ知見で評価した」と強調する。
 活断層研究の最高の知見が生かされなかった背景には、実際に物づくりに携わる工学系の専門家たちとの意識のずれがあった。
 
 (文中敬称略)

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