[2020_01_31_01]裁判官自らが語った「原発停止を決めるまで」その恐るべき苦悩と葛藤(現代ビジネス2020年1月31日)
 
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裁判官自らが語った「原発停止を決めるまで」その恐るべき苦悩と葛藤

 裁判官。日本の中枢にいる彼らの生態について、私たちはほとんど知らない。彼らは普段、何を考え、何を求め、何に悩んでいるのか――。100人以上の現職、元職に取材し、裁判官の内面に迫った『裁判官も人である 良心と組織の狭間で』を上梓した岩瀬達哉氏が、原発裁判に関わった元裁判官の証言を通して、裁判所という組織の一面を浮き彫りにする。

原発を停めた男

 その冬、金沢市は20年ぶりの記録的な大雪に見舞われていた。年末から降り続いた雪は、年が明けても止むことがなく、市内各地の小学校周辺の通学路は雪に埋もれ、児童の通学にも支障をきたしたほどだった。
 JR金沢駅から南東の方角に1キロメートルほどいった金沢城公園に隣接する金沢地方裁判所もまた、雪の中にあった。加賀藩主前田家の居城跡に造園された公園の一辺に沿うように建てられた金沢地裁は、3階建ての横長の庁舎である。
 新年の松の内も過ぎ、日常が取り戻されて何回目かの土曜日、裁判所総務課の女性職員が休日出勤し、ひとり溜まった仕事を処理していると、静まりかえった庁舎のどこかから何者かが走ってくる薄気味悪い音が聞こえてきた。
 気になって仕事が手につかなくなり、意を決して恐る恐る廊下を覗いてみると、薄暗い建物の向こうからジャージ姿の男が向かってくる。なおも目を凝らして見ていると、それは民事部の井戸謙一裁判長(部総括。31期)だった。
 女性職員は、井戸に言っている。
 「幽霊でも出たのかと思ったら、部長だったんですね。びっくりしました」 この日から約2ヵ月後の2006年3月24日、井戸は、稼働中の原発を裁判史上はじめて停止させる判決を言い渡した。任官して27年目、52歳の時だった。東日本大震災によって、東京電力福島第一原子力発電所が過酷事故に見舞われる5年前のことである。
 井戸は判決文で、北陸電力が石川県能登半島の中部に設置した志賀原発2号機の安全対策が十分ではなく、同原発を運転してはならないと言い渡した。直下型地震の想定が過少に評価されているうえ、活断層帯における地震規模の評価も適切でなく、想定を超えた地震によって原発に事故が発生し、地域住民が被曝する具体的可能性を指摘したのである。

ほどほどのところで妥協すべきという空気

 判決の衝撃は凄まじかった。負けるはずはないと高を括っていた電力会社は大いに慌て、経済産業省(経産省)もまた、傘下の「原子力安全・保安院」に地震対策の改定作業を急がせている。
 安全審査の要である「耐震設計審査指針」は、1978年の策定以来、抜本的な見直しがなされておらず、2001年からはじめられた見直し作業も5年にわたり協議は難航していた。
 しかしこの判決から半年後には、あっさり改正された。
 早急に必要な補強策を整えなければ、他の原発訴訟の審理にも影響がでると怖れたからだ。そして「原子力安全・保安院」は、改正の翌日には早くも、全国58基の原発や再処理工場など62施設を管理する電力会社などに、新基準による耐震安全性の確認をおこなうよう指示を出している。
 原発行政に一石を投じることになった井戸は、退官後、好むと好まざるとにかかわらず、原発訴訟の先頭を行くリーダーのひとりに押し上げられていた。福井原発訴訟弁護団長を務める井戸は、滋賀県彦根市の弁護士事務所で当時を振り返った。
 「あの時点で、僕は、原発がなかったら日本の社会は成り立たないと思ってましたし、原発訴訟は住民側の全敗でしたから、まあ、同じような判決を書くんだろうなぐらいのイメージだった。でも、いろいろ審理していくと、電力会社の姿勢に危惧される面があった。さすがにこれだけ危険なものを扱うのに、この姿勢ではダメだろう。やる以上は、もっと耐震性を高めてから稼働させるべきというのが、あの判決の趣旨なんです」
 政府が国策として進める原発事業の是非を、選挙の洗礼を受けていない裁判官が、わずか3名で判断するのは勇気のいることだ。まして電力の安定供給にかかわる重要政策であり、日本経済に打撃を与えかねない。当時もいまも、ほどほどのところで妥協すべきという空気が、常に裁判所内には蔓延している。 「社会的影響や予想される批判を視野に入れると、重圧と葛藤に苛まれ、身動きがとれなくなってしまう」と井戸は言った。
 「だから、法廷の中だけに意識を集中するようにしていました。審理方針は、住民側の疑問に対し、電力会社側に安全であることを立証してもらい、それが出来ないかぎり原発を停止させるというものでした」
 「立証責任の転換」と呼ばれるこの判断枠組みは、それまでの原発訴訟では一度も使われたことがなかった。民事訴訟の基本原則は、訴えを起こした住民側が、原発の危険性を証明しなければならないとしているからだ。
 しかし膨大なデータを保有する電力会社と争い、住民側がその危険性を立証することは困難を極める。また、住民側の立証が不十分だからと訴えを退けていたのでは、本当のところ、原発の安全性と危険性を見極めることができない。そこで井戸は、原発が安全であり運転しても何ら問題ないということを、電力会社側に立証するよう求めたのである。

公害事件で用いられた枠組み

 もともとこれは、高度経済成長期の工場排水や、コンビナートの排ガスなどによって引き起こされた四大公害事件の審理において用いられた判断枠組みであった。
 熊本の水俣病、新潟の第二水俣病(阿賀野川水銀汚染)、富山のイタイイタイ病(神通川カドミウム汚染)、そして四日市ぜんそくが大きな社会問題となり、その救済策として生み出されたものである。
 1970年5月6日の参議院公害対策特別委員会に最高裁が報告したところでは、この時点で各患者団体が起こした訴訟が186件、話し合いで解決策を探る調停事件が47件、合計233件の裁判がおこなわれていた。そしてその悲惨で過酷な実態が広く報道されるなか、「『裁判所は、何をしているんだ』と言われること」を怖れた最高裁は、患者救済に大きく舵を切ることにしたのだ。
 当時、公害訴訟の審理方針を模索していた最高裁民事局長兼行政局長で、その後、最高裁長官となる矢口洪一は語っている。
 「工場から本当に、その水銀が出て来ているのかどうかという因果関係の問題は、工場の排水口まで辿り着けたら、あとはいいんじゃないか、と。大気汚染だって、四日市の周辺の人間が、みんな同じような難に遭っていたら、それこそ疫学的方法で、いいことにしたらいいじゃないか、と。結局、そういうことになったのですね。
 原告が、因果関係を最後まで証明しなければいけないという、今までの理屈からすると、証明は不十分かも知れません。しかし逆に、もうこの辺でいいじゃないかということでいけば、それで十分なんです。同時に、本当にそうではないのなら、『そうではないということを、会社側が言いなさい』と。
 『ここは、こういうふうになっていて、俺のところは、こういう浄化装置で、こうしているんだから、俺のところから出たものじゃない』と。そう言えるのなら、言いなさい、と。疫学的方法と立証責任の転換とを使って、やっていこうじゃないかという協議がまとまったわけです」
 疫学的方法とは、伝染病などの病原体が不明でも、患者が発生した地域や発生状況の観察から発生源を推定する統計手法である。政府にとって患者救済が喫緊の政治課題であったため、その意向を受ける形で最高裁もまた、これまでになかった立証方針を採用することにしたのである。
 この「立証責任の転換」という審理方針は、35年余りの時を経て、井戸によって再び採用されることになった。

足音の正体

 北陸電力も政府も、井戸の訴訟方針を軽く見ていたことに、のちのち臍(ほぞ)を噛むことになる。彼らは、電力会社側を負けさせる裁判官がいるとは思わなかっただけでなく、自分たちに原発稼働の決定権があると、いとも簡単に信じ込んでいた。その驕りが、法廷で安全性の立証が足りないと求められても、「もう、主張しません」と述べさせていたのである。
 電力会社側の傲慢な態度に内心呆れ返りながら、井戸は審理終結後、左陪席裁判官が起案した判決原案を手元に抱え、幾度となく手を入れ続けた。
 「きちんとした事実認定と、そこから導いた合理的な推論にもとづく結論を書けなければ、原発推進勢力だけでなく、裁判所内からもバッシングを受けるのはわかっていた。そんな羽目には陥るまいと心に誓っていたので、年が明けてから判決までの間、家族の住む滋賀県には一度も帰らず仕舞い。
 単身赴任先の官舎と裁判所を行き来する毎日を過ごしていた。ようやく、これでいけると思えたのは2月中旬くらいで、判決期日まで1ヵ月を切っていた。それまでは、果たして書き上げられるかどうか不安で、夜、布団に入って考えていると、びっしょり汗をかいていたこともありました」
 平日の勤務時間中は割り当てられた他の裁判の処理に追われるため、原発訴訟の判決文の手直しは土日が中心となった。毎週末、午前8時前に裁判所近くのコンビニに立ち寄り、おにぎり3個とペットボトルのお茶、それに菓子類を買って登庁すると、裁判官室でひとり、ひたすら作業に没頭していたのである。
 そして午後3時頃になると気分転換と運動不足の解消のため体操着に着替え、大雪で外を走れないかわり、裁判所内の廊下を1階、2階、3階と、隅から隅まで走っていた。それが先の女性職員を驚かせたシーンだった。
 判決文の修正作業は、遅くとも夜9時には切り上げると、官舎近くのスーパーで数種類のつまみを購入してから帰宅。官舎で一杯やるのが唯一の楽しみだったという。ここまで語ったのち、井戸はしばし沈黙し、忸怩たる思いを滲ませながら言った。
 「裁判官人生を振り返ってみると、僕なりに日和(ひよ)ってるんですよ」

「変わり者」というレッテル

 この時、井戸の脳裏には裁判官の自主的な集まりであった青年法律家協会裁判官部会や、その後継団体である如月会、全国裁判官懇話会のメンバーの顔が浮かんだようだった。
 これら最高裁に批判的な団体に集う裁判官を最高裁は嫌い、その中心メンバーは露骨な人事上の差別を受けていた。井戸も如月会や全国裁判官懇話会の活動に携わっていたが、積極的に活動するというより、どちらかと言うと腰が引けていたという。
 「裁判官になった以上、地裁の裁判長(部総括)にはなりたかった。いずれ重大な、社会的に意味のある事件を審理したいという思いはありましたから自己規制もした。もちろん、裁判で判決を書くにあたって自己規制したことはない。しかし、司法のあるべき姿を議論する裁判官の自主的な運動に関わっていながら、目立つポジションを避けてきたんですね」
 そんな井戸が雌伏の時を経て、裁判長として書き上げた志賀原発の運転差し止め判決は、しかし二審で覆され、2010年10月末には最高裁で住民側敗訴が確定している。東京電力の福島第一原発で過酷事故が起きたのは、その約4ヵ月半後のことである。
 批判に臆することなく原発の稼働停止を言い渡した井戸には、いつの頃からか、変わり者の裁判官というレッテルが貼られるようになっていた。
 金沢地裁から京都地裁に異動になった時には、同僚の部総括から「どんな人が来るのかと思っていたら、けっこう普通の人でした」と言われたことがあった。またその後、大阪高裁の上司である部総括からは、こんな内緒話を明かされた。
 「あなたについては、高裁の事務局から、変わり者の裁判官なので、ご苦労されるかもしれないと言われていた……」
 井戸が57歳で依願退官したのは、福島第一原発の事故から約3週間後のことだったが、事故と退官は関係ないと言った。
 「裁判官を辞めようと決めたのは、福島の原発事故が起こる前年の秋ですから、その時点で原発の事件をやろうなんて露ほども考えていなかった。8年間、地裁の部総括(裁判長)をやって、高裁の右陪席に異動になりましたが、やっぱり地裁の裁判長がいちばん面白いんですよ。そういう意味で、裁判官として面白い時期は終わったかなと。
 それにこの時期、一番下の子供が就職して、子育ての責任から解放されましたから、あとは夫婦二人が食べていければいいんで、彦根で、地方都市の弁護士として細々とやっていければいいかという感じだったんです。ところが、いまや、原発訴訟にどっぷりつかっている。事務所経営のために他の事件もしなきゃならないけど、まあ7割くらいは原発関係を扱っていると思います」

岩瀬 達哉(ジャーナリスト)
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