[2012_07_25_01]脱原発に転じた東海村の真意 村上村長に聞く 編集委員 滝順一 (日経新聞2012年7月25日)
 
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脱原発に転じた東海村の真意 村上村長に聞く 編集委員 滝順一

茨城県東海村は日本国内で最初に「原子の火」がともった発祥の地だ。昨年の東日本大震災では日本原子力発電の東海第2原子力発電所が津波に襲われたが、大事故には至らなかった。原子力とともに発展した村でありながら、村上達也村長は東海第2の廃炉を求め「脱原発」にかじを切った。その真意を尋ねた。

――東海村は1999年、核燃料加工工場であるジェー・シー・オー(JCO)の臨界事故を経験しました。繰り返す事故に原子力業界の反省が足りないと思われたのが、脱原発の契機だと話されていますね。

「それもある。安全を軽視する風土は変わっていない。また昨年、原発事故の恐怖をじかに感じたことも大きな理由だ」

――東海第2原発の状況に肝を冷やしたということですか。

「大震災直後は道路や水道の復旧などに追われたが、福島原発の状況には注目していた、15日にはメルトダウンが起きていると思っていたし東海村で観測される放射線が高くなっていた。東海第2については11日夜に原電からファクスの報告が入り始め、炉心の状況がわかっていた。圧力や温度がなかなか下がらないと思ってはいたが、破滅的な状態は避けられるとみていた」
「寒けがしたのは23日だ。海水が(ポンプエリアの)防潮壁の高さまでわずか70センチまで到達していたと聞いた。非常用電源3台のうち1台がダウンし、もう少しで全電源喪失、福島と同じ事になっていたと知らされた。10キロ圏で約30万人、20キロ圏なら75万人が避難対象になる」
「原電はよくぞ持ちこたえてくれたと評価したい半面、破滅と紙一重だったのも事実だ。防潮壁は茨城県のハザードマップ見直しを受けて高くし2日前に壁の穴をふさいだばかり。十分に備えがあったから大丈夫だったのだとはとても言えない。原電が安全最優先でやってきたとも思えない」

――確かにもうひとつ何か不運なことがあったら、事態は深刻だったかもしれません。しかしあの津波に耐えたのも事実です。

「日本には技術は世界一だという過信がある。日本人が科学技術で世界に秀でているとは思えないのに、米国で事故が起きたが日本では起きないとか、旧ソ連は労働者のレベルが低いとか、そんな論調が強かったことに以前から危惧していた」
「すでにJCO事故の時から、米原子力規制委員会(NRC)は原子力の推進と規制を分離すべきだと指摘し私もそう言っていた。当時は科学技術庁に原子力安全委員会と、その事務局である原子力安全局があった。科技庁と文部省と統合で安全規制は経済産業省の原子力安全・保安院に移ったが、分離どころか、ますます推進と一体化した」
「保安院は規制をしっかりやればよく『安全は確認された』などと結論までいう必要はない。検査して異常はないと確認したと言えば十分ではないか。そう保安院の人間に言ったことがあるが、その人は『(保安院は)原子力推進だ』と開き直っていた。規制というと政策に反対するイメージがあるのだろうが、これは役割をはき違えている」
「日本は原発を技術的につくる能力はあるが、原発をきちんと管理できる組織体制をつくれていない。新しくできる原子力規制委員会や規制庁は人選やスタッフの質が重要な問題だ。(いったん配属されたら出身官庁には戻れない)ノーリターン・ルールを厳しくすると規制庁に良い人材が集まらないと言う人がいるが、そんな調子では規制の重要性が理解されていないと言わざるを得ない」

――東海第2の廃炉を求めていますが、企業に対し資産を廃棄しろとは言えません。具体的にどのような方策を考えていますか。

「とくにこうするという具体的な手段があるわけではない。ただ政治的には保守的といわれる茨城県の17の地方議会で東海第2の廃炉を求める住民の請願を採択した。これは画期的だ。世論調査でも住民の多くは依存しない社会にしたいとの意見が多い。私自身は『脱原発を目指す首長会議』などで自分の意見を包み隠さず話していくだけだ」

――県内の自治体には原電との原子力安全協定を見直すことを求める声が高まっています。

「9市町村からなる県央地域首長懇話会(座長・高橋靖水戸市長)で7月5日に原電に申し入れた。東海村は安全協定に基づき原発の再稼働などで原電に対して意見を述べる権限がある。私が同意しないと再稼働は困難だろう。他の自治体も東海村と同等の権限を持ちたいと考えている。また東海村に隣接する日立、ひたちなか市など5市で組織する原子力所在地域懇談会(座長・村上村長)も原電に協定見直しを17日に要望した」

――村内には原発関連の職に就く人が多く、脱原発は経済面では難しいとの指摘があります。

「雇用の面では日本原子力研究開発機構のウエートが大きく原発はそれほどでもない。日本の原発は廃炉の時代を迎えている。これから長期間にわたり廃炉と廃棄物の処理・処分に取り組まねばならないのは明かだ。東海村をそのための人材育成と技術開発の国際拠点とし、ベトナムや中国などから技術者を招き養成する国際的な役割を果たしたい。原研機構のJ-PARC(高強度陽子加速器施設)などの科学研究を軸に国際的なまちづくりをしていくのが進むべき道だと考えている。実現は容易ではないが、原子力発祥の地として21世紀の科学の拠点を目指したい」

――東海第2だけでなく、日本全体の脱原発も主張されていますが、どのくらいのスピード感を想定しているのですか。

「ドイツは10年かけてゼロにする。これはひとつの理想だと思う。日本政府は脱原発依存を口にしているが、どれを廃炉にするのか基準が何一つ決まっていない。原発比率が15%か25%かという議論ばかりだ。本当に脱原発依存のやる気があるとは思えない。そこが不信感の原点だ。40年で廃炉だと言う一方で、美浜原発で寿命延長を認めているのもおかしい」
「原子力などの科学技術は西欧思想の延長線上にあり、西洋思想の前には宗教がある。日本は和魂洋才といって、科学技術が築かれた土台の思想抜きで技術だけを導入してきた。あげくに4枚のプレート(岩板)が交差する列島の上に54基を集中立地しさらに13基つくるつもりだった。先進国の形だけをまねた中国の新幹線の事故を笑う資格はない」

――原発立地自治体は交付金などで潤ってきたのではないかとの指摘にはどう答えますか。

「原子力マネーで食っているから何でもできるとみられるのは不本意だ。福島県双葉町の井戸川克隆町長がこう言っている。『事故で何もかも失って改めて、原発のない会津地域の自治体でも私たちの町と同じような施設があることを知った。原発に頼らなくてもよかったのだ』と。金がないならその範囲内でやればいいだけの話だ。電源交付金は長らく、箱物(公民館などの建物)にしか使えなかった。目立つ施設を建設させ原発があるとこんなにいいことがあると見せるためだとある官僚が言っていた。プルサーマル受け入れの時もトップランナー方式と言って、早く手を挙げれば交付金を増やした。ニンジンでウマを走らせるようなことはやめてほしいと言った。原子力政策には地域の尊厳を傷つける側面が強い」

 ■取材を終えて
 東海村に原子力施設の建設が決まった1950年代、村上村長は中学生だった。当時の村の雰囲気は「原子力の研究所が来ると思ったので抵抗がなかった」と話す。ノーベル物理学賞を受賞した「湯川秀樹さんみたいな科学者がやってきて20世紀の科学拠点になる」との期待があり、原発が来るとは思っていなかったそうだ。確かに日本原子力研究所(現在の日本原子力研究開発機構)はやってきたが、その後、原発も核燃料再処理工場などもついてきた。
 脱原発の代替で「21世紀の科学の国際拠点」をつくりたいという村長の話を聞くと、60年前の原点に戻ろうとしているのではないかと思ったりもする。ただ村長も自覚しているとおりそれは容易ではない。「大きく膨らんだ風船のような今の社会」(村上村長)を破裂させずに新しい形に変えていくには細心の注意が要る。

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