[1999_12_15_01]発生出力と中性子線量_今中哲二(技術と人間1999年12月15日)
 
参照元
発生出力と中性子線量_今中哲二

 JCO事故の発生を私が最初に聞いたのは、九月三十日の昼過ぎのことだった。職場の仲間から、東海村の核燃料転換工場で臨界事故が起きたらしいというニュースを教えてもらい、「何かの間違いだろう、事故があったとしても六弗化ウラン漏れとかウラン汚染といった話だろう」と答えたのを覚えている。JCO臨界事故の第一報に接したとき、日本の原子力関係者の大部分は私と同じように感じたことと思っている。核燃料の転換工場や成形加工工場は、どんなことがあっても臨界にならないように設計管理されており、比較的その立て前を守りやすい施設である。臨界事故など起きるはずがない、というのが常識であった。
 臨界事故は本当らしい、と思うようになったのは午後もしばらくたってからであった。被曝を受けた作業員三人が吐き気を訴えたりしてヘリコプターで千葉市の放射線医学総合研究所の病院に運ばれ、うち二人が意識不明というニュースを聞いてからである。吐き気や意識障害は急性放射線障害の特徴であり、核燃料転換工場でそのような大量被曝があったのなら臨界事故以外に考えられない、という納得の仕方であった。臨界事故というのは、核燃料工場や再処理工場などで、何かの拍子にウランやプルトニウムといった核燃料物質が一カ所に集まってしまい、核分裂連鎖反応を起こしてしまう事故である。一瞬(一秒以下)のうちにパワーバースト(出力暴走)が発生し、そのバーストにともなって容器が破壊されたり核燃料が飛び散ったりして終息する、その昔、原爆開発にともなって米国やソ連でちょくちょくあったようだが最近は聞いたことがない、というのが臨界事故に対する私の認識であった(炉物理を専門にしている小林圭二さんは、容器が壊れてないらしいと聞いて、すぐに再臨界のことが気になったそうである)。マスコミからの問い合わせ電話がいくつかあったものの、こちらが情報をもっているわけではないので、問い合わせは軽く受け流して普段通りに午後の仕事をこなした。
 驚いたのは夕刻に帰宅しテレビのニュースを見てからであった。JCO周辺では依然として高いレベルのガンマ線が続いており周辺三五〇mの住民が避難していた、さらには四ミリシーベルト/時という高レベルの中性子が敷地境界で検出されているという。すなわち、臨界状態がいまだに続いており、収拾の見通しがない状況に陥っていたのであった。(後略)
 作業員から急性放射線障害が出ていること、周辺住民の緊急避難が行われていること、事態収拾のメドがたっていないこと、これらのことは、日本の原子力開発史上最悪の事故が目の前で進行していることを示していた。

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