[1997_10_13_19]反原発運動マップ_福井県高浜町・大飯町・小浜市_大飯原発・高浜原発_池野正治●原発設置反対小浜市民の会_p154-160(緑風出版1997年10月13日)
 
参照元
反原発運動マップ_福井県高浜町・大飯町・小浜市_大飯原発・高浜原発_池野正治●原発設置反対小浜市民の会_p154-160

 「裏日本のミニ大島」。1960年代前半の観光案内書に書かれた福井県大飯町大島の姿です。そして、こうも書かれています。「陸の孤島、若狭の秘境」。
 [大島]は〈島〉ではなく、〈陸地〉なのです。歴史は古く、縄文時代の遺跡が発掘されており、弥生時代前期の遠賀式土器も見つかり、若狭地方で最も早い頃から稲作が行なわれていたのではないか、と言われています。七世紀には奈良大安寺の荘園となり、また、菅原道真が上陸したとも伝えられています。仏教文化も大きな花を開き、古刹は三寺あり、六点の重要文化財が残されています。このように豊かな文化も、1974年に[青戸大橋]が開通するまでは、一日三便の船しかなく、近代・現代の間は[裏日本]の[秘境]だったのです。
 大島半島は若狭湾の真ん中よりやや西寄りにあり、小浜湾をつくっています。小学生だった私は6月になると大島へ、「枇杷狩り」によく船に乗って行った思い出があります。ここの枇杷は天然の木で小粒なのですが、瑞々しい味だったことを今も覚えています。
 「道路さえあったら、原発は来てほしくなかった」と後日、大島のある漁師さんが述懐されて居られたように、ここでも[道路]が住民を説得する大きな[テコ]となりました。それは、終戦直後に起きた大火の記憶が生々しかったのかもしれません。「消防自動車が来てくれなかった」――この悔しい思いが心の底に沈澱していたのでしょう。
 「閉ざされた楽園――大島半島の開発」。これが、時の大飯町長が福井県に提出した「調査願い」の大義です。69年のことで、隣の高浜原発が電源開発調整審議会にかかり、設置許可申請をする直前の時期でした。この年に原発設置に向けて一気に事が進み、町議会は満場一致で誘致を決め、関電は大島漁協と4.3億円の漁業補償にまでこぎつけました。後で発覚するのですが、この頃、町当局は関電と秘密協定を結んでいました。それには「町が関電に全面的に協力する、問題が起こったら町が肩代わりをする、佐分利川(大飯町民の上水)からの取水を認める」という内容が書かれており、町の姿勢がよく分かります。
 翌70年には早くも関電は敷地の造成を始め、大飯一・二号機の設置許可申請は71年に入ってからです。このような住民無視の行政に対して、「大飯町住みよい町造りの会」が結成され、町長リコールの署名が始まりました。議会も町長を見限り、二日後にはあえなく辞職となりました。秋には舞鶴市民もー緒に「若狭湾共闘会議」が、年末には「原発設置反対小浜市民の会」が結成され、翌72年には地元大島の青年団も反対の署名を始めました。この事態に行政は危機感を抱いたのか、若狭出身の中川知事(役職はすべて当時のもの)自らが斡旋に乗り出し、工事の一時中止(三カ月後に再開)と、町への協力金で収めました。そして工事再開の翌日に原子炉設置申請は許可されたのです。「道路が欲しい」という悲痛な叫びに負けた、とは大島地区の方の言葉です。
 大飯町長が原発誘致を陳情する四年前の65年、隣の高浜町では浜田町長が住民に何も話さないで福井県に誘致を陳情し、次いで県と一緒に原発誘致を関西電力に陳情しました。翌66年にさっそく関電は調査を開始しました。”寝耳に水”の地元住民は自主的に東海発電所(前年運開)に視察に行き、自分たちの目で見て反村を決めました。
 高浜原発の建つ高浜町田ノ浦地区は若狭湾の西、福井県の西の端に当たります。すぐ隣は海上自衛隊の基地がある京都府舞鶴市になります。田ノ浦地区は内浦湾の奥にあり、音海断崖や若狭富士として知られる青葉山をひかえた絶景の地です。私事ですが中学一年の時、親戚のあるこの地を訪れ、その紺碧の色には声を失した事を今も鮮やかに思い出します。[絶景]と映ったのは当時[町]に住んでいた私の限界だったのかもしれません。
 東海発電所から帰った地元住民たちは、署名を集めて福井県開発局に嘆願するのですが、一蹴されてしまいます。翌67年には県・町・関電は協力協定を結び、周辺の土地を次々と買収していきます。原子炉から一キロ余りという所に住む小黒飯、神野浦地区では、「原発設置反対期成同盟」をつくって反対するのですが、須知副知事の仲介(脅かし)で68年に土地売買契約に調印しました。高浜町長は「土地収用法を適用してでも、実力で土地を強制収用してみせる」とうそぶいたそうです。
 大飯町に原発誘致の話が舞い込んだ同じ頃、ここ小浜市にも計画が浮上し、68年に当時の鳥居市長は田島地区へ誘致を要請しました。もちろん関電の要請を受けてのことです。この田島地区へ行くには隣の上中町からしか行けず、小浜市でもかなりの僻地でした。すぐさま近くの内外海(うちとみ)の漁師さんたちが「内外海原発反対協議会」を結成し、県や関電本社に反対の陳情をしたのです。隣の大飯町では誘致が議会で決議された同じ時期でした。71年に各地で住民の反対運動が組織化され、年末には「原発設置反対小浜市民の会」が先の「内外海原発反対協議会」を引き継ぐ形で結成されました。「市民の会」では大飯一・ニ号機の建設中止と小浜市への誘致反対の署名1万3500人分(有権者の過半数)を集め、市議会に請願したのですが、議会は「不採択」。しかし賢明な鳥居市長は「誘致断念」を決断したのです。内外海地区は大島地区と同じような地形なのですが、幸いなことに65年に地区へ抜けるトンネルが開通し、県道に昇格したので、もう〈道路)は必要では無くなっていた、という事情が事を決した大きな理由だったと思われます。このトンネルは近くの笠井師が10年間托鉢された結果でもありました。
 高浜町、大飯町で先行して立地が進んだので、小浜市では目立った動きはなかったのですが、高浜、大飯原発建設が軌道に乗った74年頃からまたも小浜市への働きかけが強まりました。議会でも動きがあったのですが、当時の浦谷市長は「誘致の意志はない」と表明しました。それでも収まらないのが推進派議員。76年3月に市議会は「発電施設立地調査推進決議案」を強行採決してしまいました。この「発電施設」というのが曲者で、提案議員は「原発とは限らない」と説明しましたが、後で判明したところでは、彼らが知事に陳情した文書にははっきりと「原発」と書かれていたそうです。実はこの問題は今現在にまで引いています。辻現市長は同じ田島地区に「財源の確保」を名目に、関電の火力発電所誘致を進めています。
 さて小浜市議会で採択された「推進決議案」ですが、「市民の会」などの強い要請行動に応えて、賢明な浦谷市長(前回には推進の先頭)は「原発による金より、小浜市民の豊かな心を取る」と七世代先の選択を選んだのです。
 79年のスリーマイル島(TMI)原発事故は、営業運転を開始する前から事故を何度も起していた大飯一号機に、大きな問題を投げかけました。何とTMI事故は一号機の営業運転開始の翌日に起こったのです。すぐさま「小浜市民の会」は大飯町の会と一緒に大飯発電所に公開質問状を出し、問題点を明らかにしました。通産省が渋々運転停止を指示したのは翌月になってからでした。
 高浜三・四号機の増設問題は、75年に二号機が運関したのと同時に表面化し、翌76年には町議会で圧倒的多数で誘致を決議してしまいました。80年には全国で初めての公開ヒアリングが反対派の抗議の中で開催され、それは半年後に設置許可申請が認可されるためのセレモニーでした。直後には女性たちが「高浜の海と子どもたちを守る会」を結成し、署名を集めて議会に「請願」を提出したのですが、町議会は否決してしまいました。
 大飯三・四号機の増設の方も80年から活発化し、翌81年には早々と事前調査を受け入れてしまいました。83年に大飯町の「町造りの会」は住民投票条例制定の直接請求の署名を集め、提出したのですが、議会で否決されてしまいました。「小浜市民の会」は市の青年団等と一緒に「市民投票を進める会」をつくって、大飯原発から10キロ以内の市内5600世帯に葉書を送って、投票してもらいました。その結果は投票率53%で、有権者の90・8%の人が反対しました。この一カ月後に第一次公開ヒアリングが行なわれ、設置変更許可申請がされ、第二次ヒアリングがあり、申請が許可される、という段取りでした。第二次ヒアリングの時には小浜市で「自主公開ヒアリング」を開催しました。
 加圧水型のアキレス腱になっている蒸気発生器の細管損傷は、特に大飯一号機と高浜二号機でひどく、運転中の放射能漏れ事故や、定検での検査・補修が続いていました。安全解析施栓率(ここまでは細管に栓をしてもよい率)は、3%から始まって89年には25%にまで引き上げられました。そして住民の不安が高まっていた時、ついに95年、美浜二号機で細管破断事故が起こったのです。損傷率から見て比較的”優秀とされていたプラントでの事故であり、ならば最も危険とされる大飯一号機と高浜二号機を動かすなんてとんでもないとして、蒸気発生器の取り替えが決まった高浜二号機の運転差止めの民事訴訟を同年10月に起こしたのです。関西一帯の112名が原告になりました。
 判決は93年12月24日で、細管破断の危険性を認め、関電の検査能力を疑う判決でした。差止め請求は棄却されましたが、国の安全管理体制にまで踏み込んだ画期的な判決でした。そして12日後、蒸気発生器の交換のため原子炉は停止されたのです。
 小浜市は大飯原発の真正面に位置し、半径10キロ以内の住民の75%は小浜市民なので、大飯原発の実質的な立地自治体は小浜市である、というのが、市民の一般的な感覚です。それで「市民の会」では特に大飯原発を主要な課題と考えています。それは「原子力防災」への取り組みで、今までに市、県、保健所と何度も交渉を続けています。小浜市役所や小浜市にある福井県事務所には原発を八基も抱えながら原子力の専門家が一人もいない、というのが市・県の実態を示す好例でしょう。夏には京阪神から若狭へ海水浴客が200万人以上訪れ、冬は雪の中で大事故が起これば、手の打ちようがないのが実状です。「防災計画」ではこの点が全く触れられていません。
 「小浜市民の会」では最近は、美浜二号機の細管破断事故、敦賀三・四号機の増設問題、大飯二号機の事故、地震問題、もんじゅ事故等に振り回されて、身近な問題が手薄になっているのが気がかりです。結成して25年も経ち、メンバーの高齢化、固定化が運動の硬直化に繋がっている現状は、反省すべき時期でもあります。回りには原電(地元ではこう言う)で働く人たちは多く、ガンや白血病で亡くなられた方も多く開きます。大飯町、高浜町は税や交付金で成り立っています。ここ小浜市でも「何故原電を小浜に持ってこなかったのか、隣の大飯はあんなに金があるのに、実質地元の小浜には金が無い」という声は一般市民だけでなく、行政からも聞かれます。潤沢な交付金で、山は削られ、海は埋め立てられ、次から次へとハコモノは建っています。自然は荒れ、地元の人たちの心も荒れてきた、と地区の古老は嘆いています。僻地ゆえに受けざるをえなかった人たちの声に、どう応えられるのか、私たち一人一人が問われています。
 ウラン採掘から原発の運転・定検、英仏での再処理、六ヶ所村まで幾多のヒバクシャの犠牲の上に成り立つ原子力産業は、今世紀最大の悪夢でしょう。一人でも多く、悪夢から覚めるように微力を尽くしたいものです。
 多くの先達の記録とお話から書き留めました。特に中嶌哲演さんには貴重な提言を頂き、深く感謝する次第です。

[高浜町〕
 面積72・02平方キロメートル、人口1万2253人(1996年3月末現在)。海岸部は若狭湾国定公園に含まれ、風光明媚で、海水浴などの多くの観光客が訪れる。

[大飯町]
 面積68・02平方キロメートル、人口6589人(1996年3月末現在)。第一次産業から観光の町に変わりつつある

[小浜市]
 面積232・84平方キロメートル、人口3万3807人(1996年3月末現在)。農林水産業のほか、重要文化財のある寺社が多くあり、中嶌哲演さんが住職をつとめる明通寺は、特に名高い。
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