[2013_11_01_01]【特集】原発と社会運動/労働運動(2)_「原発お断り」地点と反原発運動_平林祐子(法政大学_大原社会問題研究所雑誌_No6612013年11月1日)
 
参照元
【特集】原発と社会運動/労働運動(2)_「原発お断り」地点と反原発運動_平林祐子

 はじめに
 1 原発ができなかった地点
 2 計画断念までのプロセス
 3 お断りのためにとられてきた戦略
 4 「原発お断り」の運動
 おわりに
 
 はじめに

 福島第一原発事故は,反原発運動を新しい局面へと押し出した。同時に,昭和後期以降の日本における重要な社会運動の一つである反原発運動とその歴史は,かつてなかった社会的注目を浴びるようになった。
 ところが,震災以前の反原発運動については,福島原発事故が起きることを「止められなかった」,頑張ったがほとんど成果をあげられずにきた残念な運動であるというイメージが少なからずあるように思われる。たしかに,日本では原発が一度着工されて以降に建設や運転が中止された例が一つもないこと,原発を推進し続けてきた政治や行政のみならず司法判断においても原発差し止め訴訟が過去すべて敗訴していること(1)などをみれば,日本の反原発運動の歴史は敗北の歴史だ,というような言い方も一面の真実と言えるかもしれない。また,以前から運動にかかわってきた人々の一部に,敗北感や自責に近い感覚があることも関係していよう。日本の原子力政策の転換が行われるには「『もう一つのチェルノブイリ』を待たねばならないのだろうか」(長谷川 1999)という危惧が最悪の形で的中してしまった,という衝撃の大きさはここで述べるまでもない。
 しかし実は,建設が始まる前の段階で原発建設計画を止めた(2)計画地点は,日本全国に50ヵ所も存在する。「日本は,脱原発の決定をしたドイツよりもたくさんの原発を止めてきた」(原子力資料情報室・西尾漠さん)のである。この事実は,「日本の反原発は敗北の歴史」という認識に比して知られていない。「止めた」ケースの多くが80年代以前であることもあって,震災後に原発に関心を持つようになった都会の人々のなかには,このことをほとんど知らず,驚きをもって受け止めている人が多い(3)。
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(1)司法が原発反対の立場の原告の主張を部分的に認めた判決としては,もんじゅの設置許可無効確認の訴訟の控訴審判決(2003年1月27日,名古屋高裁名古屋支部判決),志賀原発2号炉の建設・運転差し止め訴訟の一審判決(2006年3月24日,金沢地裁)があるが,いずれも最高裁まで争った結果,棄却されている。
(2)電力会社が「計画の中止」「白紙」を表明したところ以外に,事実上計画が白紙に戻ったとみられるところも含む。
(3)筆者がツイッターで,原発建設を止めた町が20近くもある,とツイートしたところ,短期間で460回以上リツイートされた(ツイートは2012年7月5日)。反原発に関係するツイートは頻繁に行っているが,ここまで反響があったものは他にない。
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 長年反原発運動に携わってきた土井淑平は,最近の著書で原発を拒否した地点に言及し,「フクシマ以後の脱原発への決定的なターニング・ポイントに立って,これまで80ヵ所の地域住民がどれだけの心血と労力を注いで巨大な原発の黒い影に立ち向かったかを心にとめておきたい」(土井2013:230)と述べているが,筆者も同じ思いである。

 本稿は,これら「原発お断り地点」(これは『原子力市民年鑑』で長年使われている呼称である)にスポットを当て,概略を紹介するとともに,複数の「お断り」地点における反対運動の実態を,担い手および組織戦略の面から検討する。ただし,運動に内在的な要因だけが原発お断りの可否を規定するものではない。お断りの可否に関係する要因としては,計画が浮上した時期,計画地点の場所,またその地域の政治・経済・社会的状況等の外在的要因も考えられる。「原発がなくてもやっていける」という主張が説得力を持つかどうか−それは,窪川や串間における農業,芦浜における漁業のような熱心な担い手のいる地域の基幹産業の有無,あるいは都市に近く(4)ベッドタウンとして存続可能であった巻のような地理的ロケーション等に大きく規定されるだろう−は間違いなく決定的に重要である。これらについては稿をあらためて検討することとし,本稿では「お断り地点」の運動内在的な要素に共通する点を抽出することを主眼としたい。
 依拠する主なデータは,現在筆者も編集委員の一人として取りまとめ中の『原子力総合資料集(仮)』(同資料集編集委員会編)に掲載予定の日本全国の原発立地点および計画地点の詳細年表およびその元となるデータ(一般紙記事,反原発運動全国連絡会が78年から発行している『はんげんぱつ新聞』掲載記事,各立地点について書かれた当事者やジャーナリスト等による書籍・雑誌記事,運動団体のニュースレター,研究者による論文等),およびこれまで筆者が断続的に行ってきた,複数の原発立地点および計画地点訪問と関係者からの聞き取りによって得られたものである。

 1 原発ができなかった地点

 これまでに,原発建設計画が浮上しながら計画が撤回された,あるいは現時点までに着工に至っていない点は全国で50地点ある。再処理工場の立地を拒否したところを含めると全国で64ヵ所,さらに放射性廃棄物持ち込み拒否条例を制定した自治体を加えると全国80ヵ所で原発,再処理工場,放射性廃棄物処分場を拒否または回避(一部はまだ最終決着はしていない)している(土井2013:229)。
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(4)旧巻町は現在,合併によって新潟市の一部となっている。
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 表1に,原発ができなかった地点の一覧を示す。政府から「要対策重要電源」に指定されたものや,いったんは電調審に上程されたものなど,建設着工に至るプロセスが具体的に相当程度進んだケースもあれば,立地調査もできずほとんど具体化しないうちに話が立ち消えになったケースも含む。

       表1 原発建設に至らなかった地点

原発名 電力会社 所在地 計画発覚年 撤回決定
稚内 北海道電力 北海道 1975以前?
大成 北海道電力 北海道 1976-1980
浜益 北海道電力 北海道 1975以前 1997年9月,用地を地権者に返却
鳥牧 北海道電力 北海道 1975以前
北檜山 北海道電力 北海道 1975以前
松前 北海道電力 北海道 1975以前
市浦 東北電力 青森県 1975以前
蒲野沢 東北電力 青森県 1975以前
野牛 東北電力 青森県 1975以前
下北 東北電力 青森県 1975以前
上北 東北電力 青森県 1975以前
浅内 東北電力 秋田県 1975以前
鶴岡 東北電力 秋田県 1975以前
田老 東北電力 岩手県 1975以前
本波 東北電力 岩手県 1975以前
田野畑 東北電力 岩手県 1975以前
東北電力 新潟県 1969(火力) 1983年に電調審に上程されるがその後安全審査が中断。1996年,住民投票で反対過半数。2003年12月東北電力が断念表明
浪江・小高 東北電力 福島県 1967 反対派が土地を共有。2013年3月,震災後の状況を踏まえて東北電力が撤回表明
白丸(珠洲) 北陸電力 石川県 1975以前
富来(珠洲) 北陸電力 石川県 1975以前
熊野 中部電力 三重県 1971 1987年9月,市議会が4度目の拒否決議
芦浜 中部電力 三重県 1963 住民投票条例制定。2000年2月,県知事が白紙撤回表明
海山 中部電力 三重県 1981 2001年11月,住民投票で反対過半数
那智勝浦 関西電力 和歌山県 1969 1971年,反対に逆転
古座 関西電力 和歌山県 1968 2006年,関西電力が断念
日高 関西電力 和歌山県 1975(1960?) 1990年9月,反対派町長当選
日置川 関西電力 和歌山県 1976 1988年7月,反対派町長当選
香住 関西電力 兵庫県 1975以前 1970年,町議会全員協議会で棚上げ
浜坂 関西電力 兵庫県 1969(火力) 1973年,町議会で原発反対請願採択
久美浜 関西電力 京都府 1975 2004年に合併で京丹後市に。市長が2006年2月調査申し入れ撤回表明,翌月関電が計画中止発表
鹿ケ居島 関西電力 岡山県 1975以前
青谷 中国電力 鳥取県 1981 1982年,町議会が反対決議。1989年,反対派が土地共有
黒松 中国電力 島根県 1975以前
高津 中国電力 島根県 1975以前
田万川 中国電力 山口県 1975以前
豊北 中国電力 山口県 1975以前 要対策重要電源にいったんは指定されるがのちに解除。1978年6月,町長・町議会が建設拒否を回答。
上関 中国電力 山口県 1981 要対策重要電源に指定。2013年現在,「建設準備中」。
中国電力 山口県 1982 1995年3月,市が対策事務局を廃止
阿南 四国電力 徳島県 1976 1979年6月,県・市が白紙撤回を四国電力に通知
津島 四国電力 愛媛県 1975以前 1968年1月,四国電力が計画断念
日和佐 四国電力 徳島県 1975以前
海南 四国電力 徳島県 1975以前
佐賀 四国電力 高知県 1975以前
窪川 四国電力 高知県 1976-80 反対派町長当選,住民投票条例制定等を経て1990年12月,町議会が立地調査協定撤回を決議
志摩 九州電力 福岡県 1975以前?
値賀崎 九州電力 福岡県 1975以前?
小金丸 九州電力 福岡県 1975以前
高山(蒲江町) 九州電力 大分県 1960年代 1994年3月,蒲江町議会が反対決議
蒲江 九州電力 大分県 1981以降 1994年3月,蒲江町議会が反対決議
佐土原 九州電力 宮崎県 1975以前
天草 九州電力 熊本県 1975以前
内之浦 九州電力 鹿児島県 1975以前
串間 九州電力 宮崎県 1992 1997年3月,九州電力が計画白紙・再検討を申し入れ

注1 電力会社による商業用原発に限った。
注2 網掛けは、現在電源開発計画に入っているもの。
(反原発全国集会実行委員会編 1975; 西尾 1977;反原発運動全国連絡会編 1997; 原子力資料情報室編 2013より作成)

 これまでの原発建設計画と「お断り」の状況について三点を指摘したい。
 まず,東京電力を除いて,北海道電力から九州電力まで,現在原発を持っている8電力すべてに,原発建設を検討しながら建設に至らなかった地点が複数あることがわかる。立地断念を余儀なくされたのは特定の電力会社あるいは特定地域の原発というわけではなく,全国各地で立地を断念したケースが存在し,その背景には立地点の強い反対があった(5)。東京電力だけは,新規立地点を次々に検討する代わりに新潟県の柏崎刈羽原発に7基,福島県の福島第一原発に6基,福島第二原発に4基と,一ヵ所に集中的に建設してきている代わり,今回あたった資料の限りでは「お断り地点」はなかった。(一ヵ所集中の方針が内包するリスクが福島第一原発事故で大惨事として現実化してしまったことは言うまでもない。)ただしその東京電力も,建設中の青森県の東通原発では計画浮上から建設までに長い年月を費やしている。

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(5)ただし,すべての電力会社について,ここに挙がっていない中にも電力会社あるいは通産省(経産省)内部で検討された地点がある可能性はあり,ここに挙げた計画地点の数の多寡には,電力会社の情報コントロール能力も影響しているかも知れない。
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 第二に,建設計画が浮上した時期,撤退が決まった時期をみると,計画浮上時期は圧倒的に1975年以前が多い。日本で最初の原子力関連予算が計上された1954年以降,50年代後半から原発立地点探しが始まり,とくに1960年代後半から1970年前後にかけて,全国で集中的に原発計画が立てられ,各地で調査や,用地買収等が行われた。現存する日本の原発50基は17地点にあるが,17地点すべてにおいて最初の1基の計画浮上は1970年以前である(西尾 2012:292)。うち14地点では1基目が1980年末までに電調審を通過している。
 原発の建設は,計画浮上時期が後になって原発の危険性が一般に知られるようになればなるほど困難になっている。1号機の計画公表から運転開始までのリードタイム実績は,1970年までに電調審を通過した7地点では平均約100ヵ月(8年あまり)なのに対し,1970年以降に電調審を通過し建設に至った10地点では平均してその倍近くかかっている(電気新聞 2011:120)。最も新しい新規立地点である東通原発は計画浮上から運転開始まで30年を要し,現在「建設準備中」の新規立地点である上関原発は未着工の現段階で既に32年が経過している。
 このように原発建設が困難になるなか,逆に撤回や断念の決定は1990年代以降に目立ってくるが,これらの「原発お断り地点」でも,実は最初に浮上した時期は1950年代から70年代初頭にまでさかのぼるケースが少なくない。

 つまり第三に,計画浮上から最終的な計画断念に至るまでに30年以上も費やすという壮大な無駄に終わっているケースが,複数の電力会社にみられる。東北電力の巻原発,中部電力の芦浜原発,関西電力の久美浜原発,日高原発,中国電力の上関原発(2013年8月現在「建設準備中」)などがそれにあたる。30年は電力会社にとっても長いが,振り回される立地点の人々にとってそれがいかに長いか。この長さは,国の政策としての原発推進の硬直性と同時に,数十年にわたって運動を持続しなければならない反対派も,また推進の立場で活動し続ける立地点の人々も,それにほぼ一生を費やさざるを得ない状況を示している。それは同時に,町の分断が続く状況でもある。
 もともとは極めて緊密であったコミュニティが,「原発をめぐって親兄弟・親戚・漁師仲間で賛否が分かれ,人間関係がズタズタ」になり,「祭りや冠婚葬祭がいつまでも真っ二つに割れ」続けると言った「「ムラ」の存続にかかわる耐え難い出来事」(中西 2013:210)のなかで数十年も過ごさなければならない。振り返って原発を作らなかったのは正解であったと思えたにしろ,「(巻町は)原発建設というリスクは回避したが誰一人「勝った」とはいえない」(中澤 2013:237)結果が残る。原発計画がなければ可能だったかもしれない独自のまちづくりのための時間やエネルギーもそれに費やされてしまうのである。

 ここで,30年以上前から原発建設計画がありながら着工に至らず,現在準備中となっている上関を例に,原発建設計画が持ち上がっている町の実情に触れておきたい。もちろん上関は一例に過ぎず,それぞれの地点では政治,経済,社会的状況が異なるが,反対運動について検討するにあたっても,原発をむしろ望む地域の姿もそこにはあることには注意をしておく必要がある。筆者らは震災後の2011年夏,さらに2013年夏に再度,中国電力が原発建設を計画している山口県上関町を訪れた(6)。上関では,1981年に反対の強い田万川や豊北に代わる候補地として原発計画が浮上して以降30年以上にわたり,原発建設予定地の向かいに位置する離島,祝島(いわいしま)(上関町の一部)の島民らによる根強い反対が続いてきた。2009年12月に中国電力が原子炉設置許可申請を行い,2011年2月,原発建設のための海面埋め立て工事着手に踏み切り,漁民らが激しく抗議し,事態が紛糾しているさなかに福島第一原発事故が起きた。震災以降,工事は中断している(2013年8月現在)。原発計画地点は事故をどのように受けとめているのかを知るため,2011年8月に初めて現地を訪問した(7)。
 上関町役場,中国電力上関事務所のほか,原発推進派,反対派双方の町民の方々へのインタビューから分かったことは,震災後半年の時点では,上関原発建設に対する基本的な考え方は変わっていないということであった。反対派がますます反対の意思を強めているのは予想の範囲内であったが,推進派も,震災後もさらに力を傾注して「原発についての理解を求める」活動を続ける中国電力のみならず,行政も,推進派の町民も,今後のまちづくりの前提となるのは原発(原発がもたらす財源)であるというスタンスは変わっていなかった。
 以前と違って施設建設等のハード面だけでなく多様な使途が許されるようになった電源関係の交付金の使途には,市外に通学する高校生(町内には高校はない)のバス代の補助,小中学生の医療費の補助などの,少しでも若い世代が暮らしやすく,町にとどまりやすくするための公共サービスが含まれている(8)。約50年前に1万2千人いた人口が約3,300人(2010年)に減り,高齢化率ほぼ50%の「限界自治体」で,地理的条件から企業の進出が見込めない上関は,町自体が存亡の瀬戸際にあると言ってもいいだろう。その町を存続させ,次の世代に引き継いでいくために「原発財源」は不可欠であると認識されている。原発のない未来像を描き,実現のための原発財源以外の財源を見出すのは簡単ではない。
 上関はおそらく,原発以外の道による町の発展あるいは存続自体を考えるのがとくに困難なケースだが,原発計画が持ち上がる地点はどこも,程度の差はあれ過疎や地理的不利などの課題を抱え,また原発立地が始まった60年代においてはインフラ整備が不十分であるなどハンディを負わされた地域であった。そのなかでいかにして「お断り」に至るのか,そのプロセスをみていきたい。

 2 計画断念までのプロセス

 初期の計画地点で「お断り」にならなかった,つまり原発ができてしまった地点における立地プロセスに特徴的にみられる点として,建設までが短期間であることが挙げられる。原発計画が明らかになる前に別の名目での土地買収が進められ,議会や首長の協力がとりつけられ,気付いた時にはもう着工は動かせないものとなっている,といったやり方である。県,および地元の町長,町議会という地元の意思を代表する主体が,住民らの意思を確かめることなく,推進に突き進むやり方が各地でみられる。
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(6)2011年8月,都留文科大学の環境社会学ゼミの学生らとともに訪問した。
(7)2013年8月の再訪問では,町,中国電力,祝島の反対派のスタンスは,ここで述べている2011年段階の状況と基本的には変わっていなかった。2013年8月現在,「原発建設準備中」で工事は中断中,着工・運転開始の時点は「未定」となっている(中国電力パンフレット)。
(8)上関町役場での聞き取りから。
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 たとえば,関西電力の最初の原発である美浜原発の場合には,次のようになっている。1962年5月14日,福井県知事が日本原電の要請(9)にもとづき,美浜町に原発の勧誘と協力を依頼。町長は即日,これを了承。翌日には予定地区の区長らに了解を求め,その5日後の5月20日には町議会が全員協議会を開催して原発誘致を決議(日本弁護士連合会公害対策委員会 1976:37)。住民には何が起きているのかもわからないうちに,「土地取得・漁業補償・地元同意」の原発立地の3条件をクリアした,という形を強引につくってしまうのである。
 初期に計画が浮上した地点の多くで,このようなまるで奇襲攻撃のような形で1号基をつくって橋頭堡を築き,その後増設を続けて現在に至る,というやり方がとられた。伊方では1963年に,だまされて土地売却の判をついてしまった住民9人が後になって売却を拒否,四国電力側から契約違反で訴えられるというような事態がおきている(久米,2011:76-77)。だまされて,あるいは強要されて土地を売ってしまった地権者の自殺という悲惨な事件も,いくつもの地点で起きている。
 このような状況で,住民らが反対の意思を表明することは困難を極め,表面上三条件がそろってしまったところでは計画阻止は事実上不可能であった。しかし土地取得等が完了していない早期の時点で計画が判明した地点では,推進派より後から動き出した反対運動側にも闘いの余地がわずかに残り,結果として計画撤回地点になる可能性が残された。

 一定程度まで建設計画が具体化した原発が「断念」に至るまでには気の遠くなるような紆余曲折がある。住民の意思が明確に反対であることが示されても,それですぐ断念に結びつくとは限らない。たとえばよく知られた巻町の例がある。
 1969年に東北電力の原発建設計画が浮上した新潟県巻町では,1994年に当時の町長が原発推進を明確にしたところから,町民のなかから原発建設は住民投票を行って決めようとの動きが出てきた。町民らでつくる「巻原発・住民投票を実行する会」が中心になって住民投票条例をつくるところから始まり,投票実施に賛同する町議員や町長の選挙での当選等を経て条例に基づく住民投票が1996年に実施され,住民の9割以上が投票し,その結果反対票が過半数を占めた(10)。巻町の場合には,巻原発建設予定地の中心に近いところに町有地が残っていて,これが建設推進に向けた最大のネックとなっていたが,笹口町長(当時)はこれを東北電力に売却するか否かは住民投票の結果によって決めるとしており,それによって本来は諮問的性格しかもたない住民投票が実質的に原発建設を左右する効力を持ち得ていた。反対過半数の投票結果を受けて笹口町長は,町有地の東北電力への売却は行わないと明言した。
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(9)その後7月に土地売買契約が美浜町と日本原電の間で結ばれ,11月に日本原電から関西電力が土地売買契約上の地位を継承した。
(10)巻原発の住民投票実施に至るまでの経過については平林(田窪)1997aで詳しく検討している。
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 ところがこの翌日,梶山静六官房長官は記者会見で「住民投票の結果がただちに原発計画を左右する影響は及ぼさない」「町民の理解が得られれば立地は可能」と述べた(8月5日付朝日新聞)。翌6日には東北電力が新潟県の平山知事と会談し,原発建設への協力を求めている。住民投票によって示された住民の意思は一顧だにされていない。結局,東北電力が巻原発断念を発表するまでには,その後7年あまりを要した。
 福島の事故を経たいま,このように住民の意思を正面から足蹴にするようなやり方はとうてい許容されるわけもなく,電力会社や政府が採用するとも思えないが,わずか10数年前にはそれが実態だったのである。
 このような状況では,議会の反対決議が一度行われたくらいでは全く安心できない。熊野原発(中部電力)計画があった三重県熊野市では,71年に計画が浮上してから87年までの16年間に市議会が4回も反対決議をしている。計画浮上の翌年,市からも三重県からも正式に中部電力に原発受け入れ拒否を伝えたにもかかわらず,計画撤回には至らなかった。反対決議を繰り返し実現するため,反対運動側は,反対派の議員を当選させ,反対の署名や請願を提出することを16年間にわたって繰り返した(反原発運動全国連絡会編 1997:118-120)。

 3 「お断り」のためにとられてきた戦略

 このように,原発立地について通産省等の非公式の調査だけで終わるなど立地の噂レベルで立ち消えになった地点はともかくとして,一定程度立地プロセスが進んでから正式な計画断念に至るまでには,長年にわたる継続的な「反対」の意思表示を続けざるを得ない。また,原発が建設された17地点でも,原発が動き出して以降もしぶとく反対運動が続けられている。
 実際におもな「原発お断り地点」で採られてきた手段をみてみよう。ここでは,巻,浪江・小高(ともに東北電力),芦浜(中部電力),久美浜,日高,日置川(すべて関西電力),上関(中国電力),さらに窪川(四国電力)をとりあげる。
 最初の6地点はそれぞれ,30年以上にわたって原発ができなかった地点で,このうち巻と久美浜では計画断念,芦浜では白紙が表明され,日高と日置川は電源開発促進重要地点の指定から外れた。福島県の浪江・小高は,震災後の2013年になって撤回が表明された。巻,久美浜,日置川,窪川はそれぞれ市町村合併の結果,現在は合併後の自治体の一部となっている。ただし,原発問題の決着がつく前に合併したところと決着後に合併したところがあり,必ずしも合併と原発問題とがリンクしているわけではない。
 高知県の窪川町(現・四万十町)は,75年ごろの計画浮上後,70年代末から80年代終盤まで原発をめぐって激しい攻防を繰り広げた。長年推進の旗振り役となっていた町長が立地を断念して辞任するという形で,1988年に「原発お断り」を実現し,他の原発立地点のみならず多くの社会運動関係者から注目されてきた。原発受け入れの可否を決める手段として住民投票を打ち出し,1982年に日本で最初の原発立地の可否を問う住民投票条例を制定した町としても知られる。全国の反原発運動のなかでも特別な位置を占めると言ってよい事例である。

 表2に,上述した地点でとられてきた主な手段を挙げる。巻町の例のように,これらの手段を使ってさえ,確実な阻止になるとは限らないが,原発立地の3条件に直接的にかかわる点で実効力を期待できる手段である。これ以外にも,反対の請願,署名集め,市町村議会選挙における反対派議員支持などの活動が繰り返し行われている。これらはいわば組織の基盤となる日常的活動に近い意味を持っている。以下,表に挙げた手段についてみていこう。

      表2 「原発お断り地点」で採られた計画断念までのおもな手段

手段 地点
土地の共有 巻,浪江・小高,久美浜
漁協の拒否(海上調査拒否など) 芦浜,日高
反対派首長の選出 巻(住民投票派),日高(断念後),日置川,窪川
住民投票条例制定 巻,南東町(芦浜),窪川
住民投票実施

 土地共有・漁業補償

 反対派による土地の共有は,原発計画に対する「ノド元の刃」(松島 1981)としてきわめて有効である。ともに東北電力が原発建設を計画した巻と浪江・小高では,反対派が,電力側の切り崩しに遭っても対抗しつづけるため,共有者のなかに一人でも反対者がいれば売ることはできない「共有地」の形で土地を保有しつづけた。しかし,「最初から土地を武器にした反対運動という闘いだけでは,その所有した土地が計画予定地内で広い面積を占めているという確信でもない限りムリだろう」と巻原発共有地主会は分析する(反原発全国集会1983実行委員会 1983a:8)。
 巻では,69年の計画浮上後,現地に通い続けていた少数の反対派が原発立地点住民から土地を譲り受けた際には「これをもっていることにより私達も運動から逃れないようにと心をひきしめる為の方が大きかった」が,現地の原発反対の意思を持つ住民を広汎に結集した組織をつくるという目的でこの土地を共有地とすることになり,77年,登記簿に記載されている地権者と50数名の土地の権利をもつ共有地主が集まって「巻原発反対共有地主会」が結成された(Ibid:23-25)。土地共有者は巻町在住者か巻町在勤者に限定し,土地に浜茶屋を建設するなどして「反対運動の軸」として活用した。
 地主会は「それぞれ原発反対を訴え,行動して来た人々が合体して出来た唯一の住民組織」であり,浜茶屋を建設からの5年間で3,000人が訪れるなど,共有地は原発反対の多様な立場の人々にとっての目に見える結節点として機能した。最終的には東北電力は建設予定地を書き換え,この土地を除外したが,逆にいえばそうしない限りどうしても原発建設が見込めなかったのである(11)。また巻町ではこの土地とは別に,原発建設予定地の中心に近い部分に未買収の町有地が存在したため,町有地の東北電力への売却をするかどうかを住民投票で決めるという形で事実上,原発建設についての住民の意思を直接的に反映することが可能になった。
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(11)反対派が土地を守ったため電力会社が建設予定地の図面を引き直すに至ったケースとしては他にも,電源開発が青森県大間町に建設中の大間原発とそれに反対して最後まで土地を手放さなかった地権者・熊谷あさ子さん(故人)のケースがある。熊谷さんの長女・小笠原厚子さんが土地を引き継いで守り続けており,福島事故後に特に,地元の反対運動のシンボル的存在として注目され,都会の反原発運動の精神的支柱ともなっている。
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 浪江・小高原発の予定地だった福島県浪江町の棚塩では,67年の計画浮上の約半年後,68年1月に地元の大字棚塩142戸が一丸となって「棚塩原発反対同盟」を結成した。文字通りの「地元住民(地権者)」そのものの人々の組織である。会則は「1.原発に土地は売らない,2.県・町・電力とは話し合わない,3.他党と共闘しない」の3原則で,途中で一部切り崩しに遭いつつ原子炉予定地の半分を81人の共有地として保有し,建設計画を跳ね返し続けた(舛倉 1997)(12)。浪江・小高原発計画には,福島第一原発事故後についに終止符が打たれたが,すぐ近くに2地点10基もの原発が建つ地域で新規立地を止め続けた直接的な抑止力はこの共有地にあったといえる。久美浜では,原発建設計画が浮上した1975年から長年にわたる攻防が続いていたが,2000年11月になって「偶然」から反対派が建設予定地の一部の取得に成功し,これが「トドメの一突き」となった(永井 2013:110)。
 必ず海際に建設される原発の立地は,必ず漁業補償を伴う。補償以前に,海上調査の実施等の段階で,漁協の反対は反対派による土地共有と同じ役割を果たす。芦浜はもっとも初期から話が持ち上がっていた候補地だが,海上デモや政治家訪問の実力阻止等の直接行動をもいとわぬ漁民の激しい反対が30年以上続いた。日高では地元の比井崎漁協が原発建設可否の命運を握り,長時間にわたって紛糾する総会を何年にもわたって繰り返した結果,組合長が海上調査受け入れ議案の廃案を宣言し,事実上原発を拒否した。
 90年代後半に原発問題で揺れた宮崎県串間市では,逆に漁協は一部を除き原発に賛成であり,専業農家を多くかかえて地域の基幹産業であった農業とそれを代表する農協が反対運動の基盤となった。
 たとえば芦浜原発立地点の南東町はハマチの漁業が基幹産業だった町である。漁業が地域の産業として成り立っており,漁業で食べていこうという若手,後継者がしっかり存在しているところでは漁協の反対は強い。後継者がいない状況で「どうせ漁業はあなたの代で終わりなのだから補償金をもらってやめたら」と誘われれば,応じる漁業者が出てくることはむしろ当然である(13)。串間や窪川では,同じ一次産業の農業がこれに似た役割を担ったが,地元でしかできない一次産業が,地域の経済と人口を将来にわたって支えていける基幹産業として確立しているところでは求心力のある強い反対運動が展開される可能性が高いといえよう。

 住民投票

 土地共有が,(巻町の浜茶屋のように運動を可視化する結節点にする努力はありつつも)基本的には原発建設予定地内の土地を共有する数人から数十人に限定された,閉じた,動かない形の「運動」であるのに対し,計画予定自治体の住民全体の反対の意思によって原発建設を止めようというのが原発住民投票である。法的根拠のある,つまり条例に基づく住民投票のためには,住民投票条例の制定から始めなければならない。
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(12)この共有地は代表者により共有者の同意を得ないままに町に売却された。共有者と代表者の間で訴訟が起こされている。
(13)串間市での聞き取りから。
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 これまでに原発建設の可否を問う住民投票条例を制定した自治体としては,窪川町,巻町,南東町・紀勢町(芦浜原発)のほか,90年代以降に計画が判明した2地点すなわち93年に住民投票条例を制定した宮崎県串間市,条例を制定して実際に2001年に投票を実施した三重県海山町(14)がある。海山町は,推進派が推進のお墨付きを得るつもりで住民投票を推進し,推進派の町長からの提案で住民投票条例を制定したという特異なケースだが,2001年に投票を実施したところ,反対票が全体の3分の2を超えるという住民投票推進派の思惑とは異なる結果となった。出口調査で反対票を投じた人の6割近くが「事故などの危険性」を挙げている(朝日新聞)点は,もんじゅ事故,JCO事故等が起きて以降の世論が反映されているといえよう。
 筆者は1997年に,巻・串間の原発をめぐる住民投票運動,および産廃処分場をめぐる住民投票を求める運動が展開されていた岐阜県御嵩町での調査にもとづき,住民運動の戦略としての住民投票が次の4つの特性をもつことを指摘した(平林(田窪)1997b)。第一に,有権者全体の意思表示による決定であることで正当性をもつこと。第二に,匿名性を確保したままで意思表示が可能であること。第三に,有権者が直接意思を表示しているため,その後の地域レベルの政権交代などの政治状況の変化があっても覆しにくいこと。第四に,自治体単位で行われることから,地域性を可視化し,町民・市民としてのアイデンティティに目を向けさせることである。
 さらに,条例制定は議会および首長の同意がなければ実現しない。直接民主主義の制度である直接請求を通して条例制定を目指す運動は串間や御嵩など各地で展開されたが,必要数の署名を集めて直接請求できたとしても,条例制定までには議会の承認を必要とする。したがって条例に基づく住民投票は,制度政治内の与党を味方につける,あるいは自分たちで与党を作り出してしまうことができる勢力によってしか成功しない。住民投票の実現はその意味で,町の主流派政治勢力による意思決定そのものである。町の中心的な政治勢力である保守支持層に属して制度政治内の多数派の協力をとりつけることができない限り,望むイッシューを住民投票にかけることはまず困難である。
 住民投票が実施されることになっても,今度は投票率を低く抑えることによって結果の正当性に疑念を生じさせようと「ボイコット」する動きが出たり,じっさいに投票率が低いため結果の公表さえしないという例もある。さらに,投票率が高くても,その結果は法的拘束力を持たないため,90年代後半に主に廃棄物処分場などの迷惑施設をめぐって行われた住民投票の結果が実際には効力を持たなかったケースが多くあった。
 このように,住民投票は原発という争点そのものをめぐる住民の意思を示す機会として優れているが,実現までのハードルは高く,しかも願った結果が出ても拘束力を持たない弱みがある。原発をめぐる住民投票は,その実施や結果それ自体よりも,原発以外の政治的立場等を超えて広範囲の住民が「同じ町の住民」という集合的アイデンティティのもとに結集させる力をもつ運動であるところに意義がある。これについては後述する。
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(14)海山町は2005年に合併して現在は紀北町となっている。
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 首長選挙

 地域住民の公的意思を代表し実現する制度政治のアリーナは,「原発お断り地点」と原発ができたところとの違いが最も際立つところと言えるかも知れない。原発が早期にできた地点では,前述した美浜の例に典型的にみられるように,地元自治体や県が電力会社と一体となって原発建設に驀進している。それは必ずしも私利私欲にかられてばかりではなく,過疎地の町の発展あるいは存続のためには原発がベストの選択だと信じたからだろう。しかしいずれにせよ,短期間で建設運転を実現した町では原発という町の命運を左右する問題についてきちんと住民の意思確認をすることなく建設にむけてひた走ったのであり,逆にそうでなければ原発建設は難しい。
 「お断り地点」でも,話があった時点で町長や町議会が反対していたわけではなく,むしろ推進に前のめりであったところも少なくない。日高では関西電力による用地確保が当時の町長の名義で行われていたほどである(脱原発わかやま編集委員会編2012:246)。
 しかしお断りに至った地点では,地域政治のアリーナで何らかの形で反対派が原発建設の意思を示し,歯止めをかけてきた。窪川では,推進派の町長リコールに成功し(ただしリコール後の選挙で,リコールされた前町長が返り咲く),定数22の町議会に10人の反対派議員を誕生させた。久美浜では,反原発派町長は実現しなかったが三つ巴の町長選で反原発候補2人の得票が推進派町長のそれを超え,無投票当選が続いた町議会に反原発候補を立てて複数当選させた。巻では,長い間の事実上の凍結状態から原発推進に踏み出そうとした町長のリコールを実現して住民投票派の町長を生み出し,さらに住民投票条例の可決が可能になるだけの議員を当選させた。
 石川県珠洲市では,原発が市長,市議,さらに県議選の争点となり,激しいたたかいが繰り返された。珠洲市では原発をめぐる攻防が表面化したのはチェルノブイリ後の1988年と相対的に遅く,複数の電力会社が立地を計画していた特殊事情もあり,最終的には,電力会社側の「断念」というよりは,電力需要の低迷や電力自由化による厳しい経営環境などを理由とする,いわば自主的な撤退(2003年)という形をとった。しかしそうなるまでの約15年間,原発ができなかった背景には,市長も市議会も推進派という状況は変わらずとも,市民の少なからぬ割合が原発反対であることを度重なる制度政治の舞台で示してきた事実がある。原発問題浮上以前は考えられなかった接戦の市長選挙,反対派市議候補の全員当選,反原発の中心的人物の県議当選などの形で,1989年の40日間にわたる「市役所座り込み」などの直接行動と合わせて,住民の反対の意思が示され続けていたのである。

 4 「原発お断り」の運動

 「原発お断り地点」で長年にわたって続けられた各地の運動に多く共通してみられる点を指摘したい。
 第一に,ローカルに徹していることである。「外の人とは話さない」という浪江・小高の反対派の鉄則にあるように,地元の住民運動としての性格が貫徹されている。一般論としての「反原子力」「反放射能」等ではなく,自分たちの住む町に降ってきた未曾有の大規模計画に地元としての「反対」である。逆に言えば,闘いの場を町に限定する戦略ということもできるかもしれない。
 町長リコール,住民投票条例制定と徹底して「町」の範囲内で運動を展開した窪川の住民は述べる。「我々の闘いの場はあくまで窪川町であり,四電本社あるいは通産省が何をほざこうが知ったことではない。......中央陳情というやつは経済的にもきわめて大きな負担でありかつ勢力を分散させる危険性をも招いてしまうのではないだろうか。......自分の相撲の取れる所で全力を尽くすということこそ反対運動の中で最も重要なこと」「ただ『原発反対』を声高に叫んでみたところで何の得にもならない。要は......一人でも多くの力を結集することである」(谷渕 1983)。
 住民投票はもともと住民しか参加できない仕組みであるため,ローカルに徹する運動とは親和性が高い。窪川でも巻でも串間でも,住民投票を推進した反原発運動は「自分たちの町のことだから自分たちで決めよう」という主張を全面的に展開した。また,原発を争点とする首長選挙も,極めて似通った性格をもつ。言うまでもなく,これは都市圏の反原発運動とは全く異なる立地点の「住民運動としての反原発」ならではの特性といえよう。
 第二に,町の中で誰が動くか,がカギを握ることである。都会の反原発の市民運動においては,原発問題に詳しいとか,人を組織する能力に長けているといった要素があるいは重要だろう。しかし,人口数千人から数万人の町で,互いに顔の見える範囲で生活している人々にとっては,それだけでは不十分である。その町の「代表的な町民」(平林 1997)としての要素を持つ人々が運動の呼びかけ人となることによって初めて,「あの人がやっているなら」と,参加の敷居が下がり,動員力が生まれる。具体的に地方の小さな町の「代表的な町民」といえば,第一次産業や商業等の古くからある地元の産業に従事する保守層ということになる。たとえば窪川の運動の中心人物であった島岡幹夫は元警察官で自民党幹部でもあった人物である(15)。
 再度,窪川の反対派の言葉を引けば,「良心ある保守層こそ最良にして最大の反原発勢力」であり,「これが最も重要な教訓ではないかと思っている」という。「社共あるいは野党勢力だけでは原発を拒みきれないのは,過去20年の原発反対運動の歴史が,そのまま敗北の歴史であったと言い換えても間違いないことを考えてもらえばわかる」(谷渕 1983)とも述べている。
 久美浜のように,共産党など革新系政党が議会で一定の勢力として存在し,首長や町議会多数派をとることはなかったものの町レベルの住民運動でも重要な役割を担った事例もあるが,保守層とも協力して反原発陣営として運動が展開されたとみるべきだろう。窪川でも巻でも,反原発のなかで社共と保守の共闘が行われた。
 第三に,これは運動に内在的な要因とは言い難いが,「原発なしの将来」を具体的に,前向きに構想できるだけの地域の人と産業があるかどうかはやはり極めて重要だろう。芦浜の漁業,窪川の農業のように,地域に根差した第一次産業が活力を持っている町に原発を持ち込むのは難しい。1983年の反原発集会で,隣町の古座町の原発建設計画に対する根強い反対運動を展開していた和歌山県太地町原発反対連絡協議会からの参加者は次のように述べている。「自分たちの町が自分たちで何とか食えるようにできないか,そういう町にするんだ,が原発反対の原動力だ。太地町は700年来,クジラを中心にやってきた漁村。将来も生きる糧はこれだと思っている。」(反原発全国集会1983実行委員会 1983b:70)。往々にして長い歴史をもつ地域の基幹産業は,地域を経済的に支え人口を保つだけでなく,上でも述べた「共通のアイデンティティ」そのもののバックボーンでもある。
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(15)窪川の運動と島岡の役割については,本人の執筆したものをはじめ多くの記録がある。詳しい例として(島岡1989)。
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 述べたように,ローカルに徹し,地元の多数派たる「普通の町民」が主体となって,自分たちの町が受けた大きすぎるオファーをめぐって考え,学び,たたかっていく運動は,まず何より,地域の住民としてのアイデンティティをしっかり自覚させ,その点で共通している他の参加者との間に強いつながりを作り出す。長年にわたる運動の継続にとって決定的に重要な点として共通のアイデンティティとその確認があることが指摘されている(Whittier 1995)が,数十年続く立地点の反対運動においては,ローカルに徹することで自然に「この町の住民」という共通のアイデンティティが絶えず意識され確認されてきたと考えられる。当該問題への注目が減って運動が活発に動かない「休止期間」には,閉じて,互いに信頼できる固定的なメンバーで推移することで運動が持続する(Taylor 1989)。土地共有のようなメンバーが固定的で日常的に動く活動がない戦略は,まさに長い「休止期間」を耐え抜くのに適していたのである。
 さらに,地元に降りかかった大きな大きなオファーとしての原発問題は,地元民にとっては主義主張や政治的スタンスとは別次元の課題である。それにかかわることで,同じ地域に住みながらまったく接点のなかった人々が出会うきっかけは確実に生まれる。もちろんいっぽうでは推進派との間の人間関係が悪化するという大きな犠牲を払ってはいるが,接点のなかった地元住民のなかにネットワークが形成されることは,「原発なしでやっていく道」を考え実現の道を探っていく際の助けになると思われる。

 おわりに 福島第一原発事故後の原発計画地点―いかに「お断り」を実現するか

 本稿では,原発建設が予定されながら着工に至っていない地点をとりあげた。着工できていない「お断り」地点は全国に存在すること,立地プロセスが時代が下るにつれ長期化していること,お断り地点の多くでは30年前後にもわたって反対運動が続いていることをおさえたうえで,お断り地点で具体的にどのような反対運動が展開されてきたのかを検討した。土地取得・漁業補償・地元同意の原発立地の3条件に直接的にかかわる戦略がとられ,それらは徹底してローカルな住民の運動として,地元の多数派住民を巻き込む形で展開され,その基盤には地域の住民という共通アイデンティティがあること,またそれがローカルな運動のなかで常に意識されることで「休止期間」も含めた非常に長期間を耐え抜く運動となっていることを指摘した。今後さらに,運動に外在的な要因も含めた総合的な「なぜ原発ができなかったか」の分析を進めたい。

 さいごに,いま現在進行形の反対運動にかかわる私たちにとっての示唆について触れておきたい。ここに至って,原発計画地点で有効な反対運動とは,原発の危険性を説くことではないだろう。数十年前から言われてきたことだが,原発か町の消滅かという二者択一以外ではない,原発なしでやっていく町の可能性を信じてみる,あるいは少なくともリアルに考えてみるためのきっかけやアイディアの提供,そして一歩踏み出そうとする人々をサポートする用意こそが重要だろう。そしてもしかしたら,「コンビニさえ一軒もない」上関町を何とか「普通に」便利に暮らせる町にしたいという思いの切実さも心に刻みつつ,コンビニができなくても,特に新しい何かが起きなくても,今の暮らしを続ける,という方向も選択肢の一つとして考えても良いのではないか。町の存続が危うくなるリスクはあるだろう。しかし思いがけず,そういう町にこそ住みたいという人が少数であれやってくる可能性もある。存続が危ういというリスクは「だから原発しかない」と思い詰めるほどのものなのか,もう一度考えてみる余地はあるのかもしれない。それはおそらく,数十年の長きにわたって「自分の住むまちと原発」のことを考え続けざるを得なかった原発計画地点の人々が前からやってきていることなのではないか。
(ひらばやし・ゆうこ 都留文科大学教授)

謝辞 本稿執筆にあたり,原子力資料情報室の西尾漠さんから資料の提供を受けるとともに多くの貴重な示唆をいただいた。記して感謝したい。

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