[2021_03_02_07]無視された大津波の警告、福島第1原発事故 「砂上の楼閣―原発と地震―」第1回〜第7回(47NEWS2021年3月2日)
 
参照元
無視された大津波の警告、福島第1原発事故 「砂上の楼閣―原発と地震―」第1回〜第6回

 今から10年前の2011年3月11日、マグニチュード9の東日本大震災が起き、東京電力福島第1原発が大津波に襲われた。停電となり原子炉の冷却ができず、3基がメルトダウン。大量の放射性物質をまき散らす大惨事となった。絶対安全を掲げて誕生したはずの原発。それは、もろく危うい、「砂の上に立つ城」だった。事故前に大津波を警告する声はあった。だが東電や監督する国が迅速に動くことはなかった。なぜか―。原発と地震の歴史をひもといて謎解き≠ノ挑みたい。(共同通信=鎮目宰司)

 ▽乏しい知識

 太平洋に面する東日本沿岸部は過去に何度も大きな津波に襲われた。平安時代の貞観地震(869年)、江戸時代の慶長三陸地震(1611年)、延宝房総沖地震(1677年)、そして明治三陸地震(1896年)、昭和三陸地震(1933年)などによる津波だ。
 政府機関の地震調査委員会は2002年、地球を覆う巨大なプレートの境界「日本海溝」で起きた1611年、1677年、1896年の3地震に注目し「日本海溝のどこででも大きな津波を伴う地震が起こりうる」との予測をまとめた。「長期評価」と呼ばれるこの予測を重視すれば、福島第1原発でも大津波への備えを固めなければならないはずだった。
 福島第1原発の建設計画は地震や津波の知識が乏しかった1960年代に決まった。1号機の建設で高さ約35mの台地を約25m削って海抜10mの敷地を造り、敷地を14m掘り下げた海抜マイナス4mの地下に原子炉を置いた。
 地下の頑丈な岩盤に基礎を造り、原子炉の冷却用の海水をくみ上げることなどを考えた結果だったが、敷地が低いほど津波には弱くなる。
 東北電力女川原発(宮城県)が建設時に敷地を約15mへとかさ上げしたのとは対照的だ。江戸時代以降に再三、大津波が来た宮城や岩手に比べて、来なかった福島では津波への危機感は少なかったからだ。

 ▽津波に弱い設計に

 福島第1原発では、1960年のチリ地震津波を考慮して津波の高さを約3・1mと想定した。
 港湾からのアクセスを考えて海沿いの敷地は一段低い4mの高さとし、海水を取り込むポンプを置いた。高さ10mの敷地には原子炉建屋が造られ、その海側に隣接して発電機を格納する「タービン建屋」を置いた。外部からの送電が止まった停電時に用いる非常用発電機はタービン建屋の地下に設置した。発電機は重く、その方が構造上安定するからだった。
 こうして、皮肉にも津波に弱くなる方向に1号機は設計、建設された。その後、同じような設計で次々と原子炉が増設されていった。

 ▽黙っていた方がいい?

 1号機の運転開始は1971年。40年後に襲来する大津波のことは考えていなかっただろう。だが、過去の巨大地震の研究が進むにつれて福島だけが安全なはずはないことが次第に明らかにされていった。
 原子炉が6基もある発電所に大津波が来るかもしれないと指摘されたら、責任者はどう考えるだろうか。「まさか、そんなことが」「確証はあるのか」。実際、東電はそう考えたようだ。
 政府が3・1mの津波を想定する1号機の建設を許可したのは1966年だった。いったん政府が出した許可は基本的には覆らないので、同じ敷地の2〜6号機も同じ想定を踏襲することになる。「もっと高い津波が来るかもしれないので想定を変えます」と申請することはできるが、それは「今のままでは十分な安全を確保できない」と表明するようなものだ。
 地元の自治体は、もっと高い津波が来ても耐えられるよう対策が終わるまで原発を運転するなと求めるだろう。全面停止だ。ここからは想像になるが、対策工事が終わるまで黙っている方がいい。大津波のリスクは検討するが、運転を止めてすぐに対応する必要はない―。そう考えたのではないだろうか。
 東電原子力部門のトップとして業務上過失致死傷の罪に問われた武藤栄・元副社長は2018年に東京地裁で発言した。「安全は維持できていた。(事故は)いかんともしがたかった」。

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津波想定の見直し、渋る東電に及び腰の国
「砂上の楼閣―原発と地震―」第2回

 東京電力福島第1原発事故の刑事責任を問われたのは勝俣恒久・元会長、武黒一郎・元副社長、武藤栄・元副社長の3人だった。2012年に福島県民らが業務上過失致死傷容疑で告訴し、東京地検は不起訴としたが、検察審査会が「起訴するべきだ」と議決したことから、検察官役の指定弁護士が3人を強制起訴した。16年のことだ。19年9月の東京地裁判決は3人を無罪とした。指定弁護士は直ちに控訴し、舞台は東京高裁に移っている。(共同通信=鎮目宰司)

 ▽「40分ぐらい抵抗した」

 東京地裁の審理で焦点となったのは、津波想定を巡る東電社内の動きだ。02年7月末、地震学者らがメンバーとなる政府の地震調査委員会が「長期評価」で巨大地震を警告した。直後の8月上旬、当時、原発の安全規制を担当していた経済産業省原子力安全・保安院の川原修司耐震班長らは、東電の担当者だった高尾誠氏を呼び出した。
 保安院が知りたかったのは、長期評価を踏まえて津波の想定を見直すと、原発にどう影響するか。福島では歴史上、大津波は確認されていないが、宮城や岩手のように大津波が来るという前提を取り入れて、津波の高さを計算してみてはどうか。高尾氏にそう要求したのだった。
 社内でも生真面目な性格で知られる高尾氏はその時、保安院の要求を何とか免れようと粘りに粘った。彼は「40分ぐらい抵抗した」と社内関係者らに報告している。ぐっと高くなるであろう津波の水位を具体的な数値で示してしまえば、引っ込みが付かなくなる。だから、今はやらない―。こう考えたのではないだろうか。

 ▽「泣きつけば聞いてくれる人」

 東電に見直しを渋られた川原班長は戸惑った。しかし、福島第1原発は政府の許可を受けて運転している。法律の枠内で波風を立てずに進めようとすれば、津波の想定を変えろと命令はできず、自主的に見直すよう「お願い」するしかない。電力会社は監督官庁の顔を立ててやってくれるはずではないのか…。
 川原班長は、こわもてで知られる上司の高島賢二・統括安全審査官よりは与しやすいと電力側から思われていたようだ。「泣きつけば割と聞いてくれる人だった」。ある電力マンはこう証言する。この時、東電が津波の高さを計算し直していたら、事故は起きなかったかもしれない。だが見直されなかった。
 経産省を退いた川原氏は取材に「法治国家なので無理強いはできなかった。電力がきちんと取り組んでくれないと、見直しはできない。役人側が情けなかったこともあるが…」と振り返った。

 ▽勉強会

 04年12月にインドネシア・スマトラ島沖地震の大津波が起こり、保安院は原発の浸水対策に改めて注意を向けた。佐藤均・原子力発電安全審査課長は部下の小野祐二・審査班長に「勉強会」の設置を指示する。津波に弱いとみられていた福島第1原発などで、電力が自主的に対策を強化するよう仕向けるのが目的だった。
 福島第1原発海側の冷却用ポンプがある場所の海抜は、当時想定していた津波の高さとほとんど変わらない。「余裕は10cmもない」と知っていた小野班長は06年6月、勉強会で行った福島第1原発の現地調査で、東電にそのことを指摘する。「事業者の判断だが、改造に着手するという視点も(必要ではないか)」。遠慮がちにこう言うと東電の担当者は、機器が海水をかぶってショートを起こすであろう水位までは「10〜20cmある」と譲らなかった。

 ▽無意味な「余裕」

 津波の高さの予測は、地震で海底がどのようにずれるかを推定した上で、海底の地形などを考慮する細かい計算から求められる。だが、計算の基礎となるさまざまな条件が変われば答えも変わってしまう。実際の津波は計算結果の2倍の高さとなるかもしれないし、半分にとどまるかもしれないとされていた。想定高さに対して10cmの余裕なんて、全く無意味なのだ。
 言うとおりにならない東電にしびれを切らした保安院は、もう少し強い対応を取ることに決めた。保安院をチェックする、より上位の存在だった原子力安全委員会の権威を借りるのだ。
 原子力安全委員会は約30年ぶりに、原発の耐震指針を改定しようとしていた。従来ははっきりと書かれていなかった、地震に伴う津波への対策を求めるとの一文が入る。新しい原発に適用されるルールだが、古い原発も指針を満たしていることを保安院がチェックすることになっていた。
 法的強制力はないが、このチェックで津波対策が十分だと認められなければ福島第1は運転できなくなるだろう。保安院は、指針改定から2年でチェックを終えることを東電などに求めた。だが、5年後の11年3月になっても福島第1原発の津波対策は全く進んでいなかった。

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津波対策が取られないまま起きた大惨事、「源流」にあの訴訟
「砂上の楼閣―原発と地震―」第3回

 東京電力福島第1原発事故が起きる5年前。原発の耐震指針が改定され、電力会社に津波対策を求める一文が初めて入った。耐震指針は原発の審査に用いるルールだ。この時盛り込まれた津波対策は、既に運転している原発に対しては安全性に問題がないことを電力会社が自主的に確かめるよう国が指導する―という仕組みとなっていた。指導はあくまで「お願い」であり、強制力はない。津波対策が取られないまま福島第1原発事故は起きた。新たな指針や知見が既存の原発にうまく反映されないことはなぜ起きたのだろうか。原子力業界では有名なあの訴訟にその「源流」がある。(共同通信=鎮目宰司)

 ▽「相場観」で審査

 1973年。原発建設の許可を巡る全国初の本格的な訴訟が提起された。四国電力が愛媛県伊方町に建設した伊方原発の地元住民らが政府を訴えた「伊方原発訴訟」だ。
 原発そばを走る巨大活断層の評価が大きな争点となったが、原告の住民側が突いたのは、活断層や地震の客観的な審査指針がないことだった。では、電力会社の申請をどうやって審査していたのだろうか。
 審査するのは通商産業省(通産省、現在の経済産業省)と原子力委員会だった。ちなみに原子力委からはその後、原子力安全委員会が分かれて独立し、安全委は福島第1原発事故後に消滅した。
 役所の審査官を助けていたのは科学者たちだった。原子力委の事務局だった科学技術庁(現・文部科学省)にも、通産省にもそれぞれをサポートする科学者集団がいて、審査の委員会メンバーとなっていた。耐震指針はなかったが、地震学や地質学、耐震工学の専門家たちの「相場観」で決めていたようだ。
 伊方訴訟の提訴当時、日本で運転をしていた原発は5基だった。国内初の建設のように「1点もの」の審査で、あらかじめ指針類を完備しておくことはまずない。手探りで初めて、徐々にルールが固まっていくのだ。

 ▽「お手盛り」

 訴えを起こされた政府側の内情はバタバタだった。当時、法務省で裁判を担当していた山内喜明弁護士は、通産省、科技庁のメンバーと霞が関そばの旅館に泊まり込み「原発の設置許可とは何か」を研究した。「カンヅメ」で、役人が2〜3人倒れたとうわさされるほどの「突貫工事」だった。
 松山地裁の法廷には審査で用いた資料が示され、専門家委員らが証言台に立った。住民側弁護団長の藤田一良弁護士は、審査で何を検討したのかを、法廷という公開の場で明らかにすることを狙っていたという。
 例えば1977年2月25日の証人尋問だ。活断層「中央構造線断層帯」を問題視する住民側の新谷勇人弁護士は、原発すぐそばの海域を調査するべきだったのではないかと、耐震関係の審査を担っていた東京大の大崎順彦教授を追及した。ルールなき、お手盛り審査ではないかと―。
 「どの範囲まで調べろとお決めになっていませんか」(新谷弁護士)
 「基準としては決めておりません」(大崎教授)
 「物差しはないということですね」(新谷弁護士)
 「専門家一般の頭の中にあることです」(大崎教授)

 ▽「安全」のお墨付き

 審理の中で当時の原発耐震審査にルールが無いことを明らかにできたものの、1978年4月の地裁判決、84年12月の高松高裁判決、92年10月の最高裁判決と住民側は全て負けた。一方で、勝った当事者、政府側代理人の山内弁護士は後年、こう振り返った。「真正面から安全は確保されていると判決してしまった」
 一体どういう意味だろうか。審査して建設が許可されれば原発は安全だ、と判決がお墨付きを示してしまったということのようだ。「許可」イコール「安全」なら、その後に判明した知見や、それを基に作られた新たな指針に向き合って安全対策や設計の見直しをしていくことに電力会社は真剣に取り組まないかもしれない―。
 これは、大津波を警告する新たな見解を真正面から受け止めずに起きた、2011年の福島第1原発事故の背景そのものだ。
 全面的に主張が認められて勝訴したものの、政府はこの後、原発の安全性を巡る訴訟を次々と抱えることになる。それは、国民の原子力に対する不信感の高まりとも言えた。耐震問題で信頼を回復しようとするかのように、政府は指針作りに着手することになる。

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「安全性アピール」の指針作り、古い原発には適用されず
「砂上の楼閣―原発と地震―」第4回

 原発建設の許可を巡る全国初の本格的な訴訟となった伊方原発訴訟で、原発の耐震指針は存在しないと批判された。審査用の指針が初めて作られたのは1978年。伊方訴訟が提訴された翌年の74年に原子力委員会が検討を始め、その4年後にまとまった。国内最初の商用原発、日本原子力発電東海発電所が営業運転を始めてから既に12年がたっていた。(共同通信=鎮目宰司)

 ▽通産省が作った原案

 国内の商用原発が生まれる前の1956年1月、原子力政策の「元締め」として原子力委が誕生し、同年5月に発足した科学技術庁(現・文部科学省)が事務局となった。その後に登場する、発電を目的とした商用原発の安全規制は通商産業省(通産省、現在の経済産業省)が担当することになった。
 通産省と原子力委は効率化のため、慣例として合同で審査していた。それぞれに科学者がメンバーとなる審査組織を備えており、科学者たちはケース・バイ・ケースで判断を下していた。
 政府と電力会社の関係は今とはだいぶ異なるが、地震想定の考え方などをまとめる耐震指針自体は、審査を受ける側の電力会社が70年に「耐震設計技術指針」としてまとめていた。これとは別に、審査する側が用いる「耐震設計審査指針」を作るべきだと言い出したのは、通産省などで原発の耐震担当を務めた大野徳衛氏だったとされる。
 審査用指針は、原子力委が自前でまとめるべきものだったが、まず通産省が74年10月7日に指針案をまとめ、これを受けて原子力委は10月30日に指針策定を目指す「耐震設計検討会」の初会合を開いた。
 検討会の主査は、伊方原発訴訟で証人となった東京大の大崎順彦教授。通産省の案は「1次案」として配られ、大崎教授は「一応の案をみたので、これについて検討したいくこととしたい」と切り出した。

 ▽消えた「3〜5年を目安に見直し」

 各省庁の寄り合い所帯として発足した科技庁は当初から通産省の影響が色濃い組織で、その後もこの関係は続いた。通産省が用意した指針案に基づいて進めることには、検討会メンバーも疑問を投げかけた。
 京都大の小堀鐸二教授は「パッシブ(受け身)にしか受け取れないのか。根本的な部分まで問題にしうるのか」と指摘し、通産省案に縛られずに検討するべきだとの考えを表明した。小堀教授はその後も、「継ぎはぎだらけの衣を急いで縫い合わせる作業」だと拙速を戒め、指針をまとめてからも、内容を見直すとルールで決めておく方がいいと提案している。
耐震指針策定に携わった小堀鐸二氏(小堀鐸二研究所提供)
 小堀教授の意見を反映した形で、策定してから「3〜5年」を目安に指針を見直すとの案も一時的に登場したが、間もなく姿を消した。理由は次のようなことだと推測される。
 耐震関係の知見が増えていくのにあわせてルールを見直すのは合理的ではあるが、見直し期限を明記してしまえば、将来的に政府や電力会社の行動を制約して、面倒なことになりかねない。指針を見直して、もし原発の改造工事が必要となったら、発電量の不足や、安全性を巡る地元への説明など、さまざまに波及しかねない―。

 ▽新しい指針と古い原発

 74年9月に起きた原子力船むつ放射線漏れ事故などで、原子力の安全性への不信感が高まっていた。安全強化をアピールするため、政府は78年10月4日、原子力委の安全規制部門を原子力安全委員会として独立させた。耐震指針策定は、直前の9月29日。安全委発足とほぼ同時に、耐震をはじめとした各種指針類もこの頃に多くが整備されたのだった。
 問題は、新しい指針と古い原発の関係だ。指針をまとめる前に造った原発は、安全性能に問題はないとしても、必ずしも指針の要求を満たしているとは限らない。この古い原発の運転を認めるかどうか。
 ルールを適用できるのは、その後に造った原発だという原則から、政府は古い原発の運転を認めた。とはいえ、安全性は必要なので内々にチェックをしたと当時の関係者は証言する。
 審査指針策定を提唱した大野氏の後輩で、通産省などの審査官を務めた伊部幸美氏だ。指針に基づいて想定した大地震でも原発が壊れず、周辺に被害が及ばないことを電力会社に確認させたという。「(古い原発は)相当な余裕を見込んで造られていたので大丈夫だった」

 ▽「ぼろ」を懸念

 このように、運転を認めたまま新しいルールへの適合を確認するやり方は「バックチェック」と呼ばれる。これに対し、適合を確かめるまでは運転も認めない方式を「バックフィット」という。2011年の福島第1原発事故まで、主流はバックチェックだった。仮に、福島第1の津波対策をバックフィットさせていれば事故は起きなかったかもしれなかった。
 バックフィットしなかった理由はもう一つ考えられる。米国のメーカーが製造した福島第1原発1号機などの黎明期の原発だ。購入すればカギを回してすぐに運転できるという意味で「ターンキー契約」と呼ばれたように、建設は一から十までを米国側が担った。米国は原発先進国であり、日本側として安全性を否定しづらい部分もある。
 科技庁で大野氏の上司だった高嶋進氏は回顧録で「バックフィットを義務付けると逆に基準、指針類の制定が困難になる」と、78年の耐震指針策定などでバックフィットを見送った理由を説明している。
 黎明期の原発に「ぼろ」が次々と見つかるかもしれない。そうすると、指針類が作りにくくなるのではないか―。こう懸念したというのだ。

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阪神大震災の衝撃、原発耐震性への不安
「砂上の楼閣―原発と地震―」第5回

 1978年に初めて原発耐震指針が策定されてから20年の間に、日本は3度の大地震を経験した。83年の日本海中部地震、93年の北海道南西沖地震、そして95年の阪神大震災だ。都市部を直撃した阪神大震災では高速道路が倒壊するなど強い揺れの脅威が明らかとなり、国民に原発の耐震性への不信感が芽生えた。「指針による揺れの想定は十分か」「改定の必要があるのではないか」。政府は火消しに走った。(共同通信=鎮目宰司)

 ▽「原発は大丈夫か」

 震災翌日の1月18日、原子力安全委員会の都甲泰正委員長は、科学技術庁の片山正一郎・原子力安全調査室長に「原発は大丈夫か」と尋ねた。
 最大震度7の強い揺れが直撃した神戸市では、鉄筋コンクリートのビルが崩れ、高速道路の橋脚が折れ曲がった。大都市の真下を走る活断層が起こす「直下地震」は、人々の想像を上回る被害をもたらした。
 94年12月に愛媛県の四国電力伊方原発3号機が運転を開始し、国内の商用原発は48基を数えていた。伊方原発訴訟で争点となった中央構造線断層帯のように、活断層が原発の近くを走る例は珍しくない。
 約20年前にまとめた指針などが示す地震想定の手法は、70年代の地震や活断層の研究をベースにしている。もっと新しい研究成果を取り入れて、原発の耐震性をチェックするべきか。耐震指針を見直す必要があるのかと、都甲委員長は片山室長に問いかけたのだった。

 ▽阪神大震災より小さい

 政府は国会で原発耐震問題を追及された。自民党、社会党、新党さきがけによる連立政権の首相は社会党の村山富市委員長だった。
 震災半月後の2月1日、衆院予算委員会で共産党の吉井英勝議員が村山首相を問い詰める。耐震指針は原発の真下でマグニチュード(M)6・5の地震を想定しているが、阪神大震災のM7・3より小さいではないか。 「(政府が)安全神話に立ったら無責任になる」(吉井議員)
 「これまでの考え方に安住せず、確認は徹底する」(村山首相)
 首相と同じ社民党の今村修議員は、自民党議員の田中真紀子科技庁長官に「安全審査のやり直しが必要だ」と迫り、耐震指針について「妥当性を点検しています」との答弁を引き出した。

 ▽指針を見直しは時期尚早

 震災当時、商用原発は通産省資源エネルギー庁が所管していた。エネ庁の審査をチェックする2次審査を担っていたのが安全委で、「ダブルチェック体制」とも呼ばれていた。
 エネ庁の藤富正晴・原子力発電安全企画審査課長は、原発の耐震安全性へ向けられた世間の不信を払拭する必要を感じていた。震源から最も近い原発は福井県の関西電力高浜原発だが、直線で約110qと離れていて、揺れは弱かった。
 エネ庁の審査に加わる専門家の現地調査でも、見直しに直結する情報や発見はなかった。原発で強い揺れを観測していない状況で指針を見直すのは難しく、時期尚早ではないか―。藤富課長はそう考えたという。

 ▽失われた10年

 都甲委員長の意を受けた片山室長が動いて、安全委は指針見直しを巡る検討会を設置した。会長の小島圭二・東京大教授をはじめとする専門家たちは6月に現地を調査し、9月に報告書をまとめた。もし、神戸に原発があったら震災に耐えられたかとの観点で調査し「指針にも原発の安全性にも問題はない」との結論を出した。
 「スッと結論を出さないと社会も不安になる。専念してほしいと片山室長から言われた」。小島氏は当時の事情をそう振り返った。
 指針をすぐに見直さないが、将来の見直しまでは否定しない。そんなメッセージを込めて、報告書は末尾に「これに安住することなく引き続き努力していく」と書いた。村山首相の答弁を引用することで、事実上の改定先送りを正当化しようとしたのかもしれない。
 藤富課長は、電力会社が94年ごろに提出した点検報告を持っていた。エネ庁の内々の指示を受けて、78年の耐震指針策定前に造られた原発の耐震安全性をチェックし「問題なし」としていた。
 点検報告は小島教授らの報告書と共に安全委に報告された。阪神大震災で強い揺れの脅威が明らかになったにもかかわらず、古い指針も古い原発も温存された。そして、この頃はまだ、原発を襲う津波の恐ろしさを真剣に考える人はごく少数に限られていた。

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原子力安全に必要な「哲学」とは 動きだす耐震指針改定
「砂上の楼閣―原発と地震―」第6回

 1995年1月17日、都市部を襲った直下型地震、阪神大震災は日本中に衝撃を与えた。だが政府は、策定から約20年たっていた原発の耐震指針については「時期尚早」と改定を先送りする。指針の策定段階では「3〜5年」で見直す案があったものの、大地震を経験してもなお、本格的に見直しに取り組もうとする動きは見られなかった。だが、そこに「原子力安全には哲学が必要」と考える一人の男が現れる。政府内に指針改定に向けた動きが始まった。(共同通信=鎮目宰司)

 ▽決断

 指針改定にかじを切ったとされるのが、98年4月に原子力安全委員会の委員長に就任した佐藤一男氏だ。96年に行われた東北電力東通原発1号機(青森県)と中部電力浜岡原発5号機(静岡県)の建設を前にしたパブリックコメント(意見公募)や公開ヒアリングで指針の妥当性が問われ、改定を求める意見や質問が相次いだことがきっかけだったようだ。
 佐藤氏は日本原子力研究所(現・日本原子力研究開発機構)出身で、米スリーマイルアイランド原発事故(79年)や旧ソ連・チェルノブイリ原発事故(86年)も調査した、原子力安全研究の第一人者だ。80歳を超えた佐藤氏は取材にこう語った。「指針は簡単に変えられるものじゃない。だから、阪神大震災後の改定は見送ったんでしょう」
 佐藤氏は当時、安全委事務局の科学技術庁(現・文部科学省)には荷が重いと考えたのか、通商産業省(現・経済産業省)の資源エネルギー庁に協力を要請した。エネ庁は電力会社でつくる電気事業連合会のバックアップを受けて指針改定の検討を内々で始めた。

 ▽リスク

 佐藤氏は「原子力安全には哲学が必要だ」との持論があり、指針に反映することを望んでいた。「論理体系のないまま、思い付いたところだけ直すような改定では駄目だ」と言い切る佐藤氏。安全とは何かを深く掘り下げて議論することなく、それまでの安全審査が行われてきたことに「憤懣やる方ない思い」を抱いていたという。
 佐藤氏の「哲学」とは何なのか。地震などの災害リスクは考えればきりがないし、ゼロにすることもできない。原子力エネルギーを利用するには、ある程度のリスクを受け入れる覚悟がいると語った。「百点満点はあり得ない」と、腹を据えて掛からなければならないということのようだ。
 十数年後に経験することになる東京電力福島第1原発事故を招いた地震、津波は佐藤氏の言う「受け入れられるリスク」だったのか。このリスクの存在は事故が起きるまで国民に広く知らされることはなく、受け入れられるかどうかが議論されることもなかった。

 ▽対立

 99年7月、原子力発電安全企画審査課長に本部和彦氏が就任するとエネ庁は本格的に動きだした。本部課長は佐藤委員長と面会して改定の意思を確かめると、2000年1月に非公式の検討会を立ち上げた。
 原発耐震審査の実務に詳しい高島賢二氏を自らの右腕として、省内の別の局から連れ戻し、審査課の統括安全審査官に据えた。本部課長と高島統括の両輪で強力に推進しようとした。だが、2人は原子力安全に対する哲学が大きく異なっており、非公式の検討会で対立が表面化してしまう。
 対立点は、原発を設計する際に用いる想定地震を超える大地震を考慮するかどうかだった。想定を超える超巨大地震の可能性はゼロではない。高島氏は、安全の余裕を持たせることでゼロにならない危険性に対応しようとする伝統的な耐震審査の考え方を支持していたが、本部氏は想定超えであっても可能性の高い低いに応じて対策をとっておくという考え方に変えるべきだと思っていた。
 通産省内でも本部氏の考え方への懸念は強かった。「急進的すぎるので、審査実務に反映できないのではないか」「想定を超える地震が起きる可能性を政府が認めたことになり、運転停止を求められた裁判で不利になるのではないか」。こうしたものだったようだ。
 従来手法を合理化、改良することを目指していた高島氏との折り合いは付かず、非公式の検討会は1年程度で終わる。指針改定は仕切り直しとなり、公開で行われる原子力安全委員会の耐震指針検討分科会に委ねられた。各分野の専門家らを集めた分科会の議論はなかなか収束せず、改定が実現したのはさらに5年がたった2006年のことだった。

 ▽津波

 失敗した非公式検討会だが、高島氏によって重要な項目が指針に追加される流れがつくられた。津波対策の明記だ。電力会社は、指針に明記されていないと積極的に対策に取り組まない。豊富な審査経験から、高島氏はそう感じ取ったという。
 高島氏の問題意識が発端となって、06年の改定指針には津波対策が明記された。だが、想定を超える大津波も考えて対策しなければならないとまでは書かれず、東電に福島第1原発の津波想定見直しを強く迫ることはできなかった。もしも、高島氏と本部氏の哲学をうまく融合する形で改定が実現していたら―。あるいは、11年の福島第1原発事故は起こらなかったかもしれない。

原発耐震指針の改正、運転継続認める「骨抜き」運用 「砂上の楼閣―原発と地震―」第7回

 国の原子力安全委員会は5年かけて有識者らによる公開での議論を重ねた末、2006年9月に原発の耐震指針の改定を実現させた。最も重要な点は、原発に影響を及ぼす地震の想定を厳しくすることにあったが、大津波への備えが必要だということも改めて明記した。しかし、既に運転していた50基超の原発が新指針に適合しているかを調査する作業(バックチェック)は骨抜きにされ、法的な義務のない自主的取り組みとなった。東京電力はこれに乗じて福島第1原発の大津波想定を先送りする。なぜ、そんなことが起きたのか―。(共同通信=鎮目宰司)

 ▽力関係

 東電など電力会社でつくる電気事業連合会が06年2月21日に作成したとされる「耐震指針改定に当たっての原子炉施設における対応について」という文書が経済産業省原子力安全・保安院に保管されていた。指針改定後のバックチェックを、原発の運転を停止せず計画的に行うため、次のような方針で対応するので検討してほしいと求めている。
 ・新指針を既存原発に直ちに適用する必要はない
 ・既存原発のバックチェックは安全性、信頼性向上のため
 ・バックチェック中でも原発は運転を継続する
 この約1カ月後の3月17日、保安院の原子力発電安全審査課は、上位組織の原子力安全委員会への要請文書をまとめる。安全委に以下を表明することを求めた。
 ・旧指針で合格した原発の安全性を否定しない
 ・新指針に照らすバックチェックは法律上の義務ではない
 電力から保安院、保安院から安全委へと「新指針での審査やり直しはしない」という要請が行われた。安全委は保安院を監督し、保安院は電力を監督していたはずだったが、実際の力関係は逆だった。

 ▽「重大な問題」

 その直後の3月24日、北陸電力志賀原発2号機(石川県)を巡る訴訟で金沢地裁は運転差し止めを認める判決を下した。北陸電の敗訴だが、合格を出した政府の安全審査と、30年近く改定されていない耐震指針にも疑問を投げ掛けた。
 そして4月、保安院の檜木俊秀訟務室長と鶴園孝夫訟務班長が安全委事務局を訪れた。改めて安全委への要請文書を手渡しに来たのだ。
 文書は厳しい言葉で書かれていた。新指針ができても、旧指針で合格が出ている原発の安全性に問題はないと表明してほしい。そうしなければ「以下の重大な問題が発生する」。
 ・自治体やマスコミに批判されて原発が停止する
 ・国会が安全委の見解、責任を厳しく追及する
 ・原発を巡る行政訴訟で敗訴する
 バックチェックは、新指針に古い原発が適合しているかどうかを確かめるために行うものだ。だが、これでは、その前に「安全宣言」を出さなければならなくなる。
 そんなばかなことがあるか―。対応した安全委の加藤孝男総務課長は、ぶぜんとして「まずはチェックしてみないと」と押し戻そうとした。
 だが檜木室長は畳みかける。「訴訟で負けたら、責任を取れるのですか」。話は全くかみ合わなかった。

 ▽委員長室

 東電はこの頃、原子力安全委員会の鈴木篤之委員長に福島第1原発の津波想定について説明している。「こういう作業をしているとの説明で、これで大丈夫だということではなかった」。鈴木氏は複数回、5〜6人から東電社内の検討状況を聞いたと証言している。委員長室で説明を受けたこともあったようだ。東京大教授だった鈴木氏にとって、東電原子力部門の有力者だった武藤栄氏は大学の後輩。同じく武黒一郎氏も知人だった。
 その委員長室に緊張が走ったのは06年9月。耐震指針が改定される直前のことだった。鈴木委員長はこの日、そろって現れた原子力安全・保安院の広瀬研吉院長と保安院幹部らを部屋に迎え入れた。「新指針による審査のやり直しはやらない」という、この春から繰り返してきた要請の念押しだったようだ。
 口を開いたのは広瀬院長。安全委が新指針に照らしたバックチェック作業の要請文書を出す際には、法的義務を伴わない自主的取り組みであることを明記してほしいということだった。
 9月19日、安全委が出した要請文書は、広瀬院長が念押ししたとおりの内容だった。格上≠フはずの安全委員長が、圧力に屈したような形になった。
 鈴木氏は当時の保安院との関係について、こう説明する。「余計な世話を焼く組織として、安全委を厄介者扱いする空気が(原子力)関係者の中にあった。保安院にとって煙たい存在以外の何物でもなかっただろう」
 こうして新指針に照らしたバックチェックは、電力会社の自主的な取り組みで行うことが決まった。さらに、チェックが完了しなくても、原発の運転はそのまま継続していいと認められた。
 新指針は大津波への備えもうたわれている。だが、その運用は骨抜きにされた。津波対策に大きな「穴」があいたまま、福島第1原発は4年半後、未曽有の大津波に遭遇する。(つづく)

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