[2023_06_02_01]志賀原子力発電所(Wikipedia2023年6月2日)
 
参照元
志賀原子力発電所

 志賀原子力発電所(しかげんしりょくはつでんしょ)は、石川県羽咋郡志賀町にある北陸電力の原子力発電所。

 施設概要
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 北陸電力が唯一保有する原子力発電所で、能登半島中部の西側、志賀町の赤住(あかすみ)地区に位置している。発電所の山側には、発電所で使用する工業用水用のロックフィルダム「大坪川ダム」が設置されている(北陸電力が管理)。
 志賀原子力発電所には施設周辺の環境を配慮する形で、海底トンネル方式の放水路・取水路、一文字方式の防波堤(潮流への影響を少なくするため)が採用されている[1][2]。この取り組みが評価され、1995年に原子力発電所としては初めてグッドデザイン賞を受賞している[3]。

 歴史
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 北陸電力の原子力発電計画は、1957年4月1日に組織改正により社長室に原子力課を設置したことに端を発する[4]。その後、1965年の長期計画の中で、将来の電源構想として原子力発電を盛り込み[5]、原子力発電所の用地選定を進めた。その中で、能登半島の4か所を候補地として選び、発電所建設の地盤・地質に適した志賀町の赤住地区と富来町の福浦(ふくら)地区を選定した(1967年11月13日)[6]。
 赤住地区は当初から発電所建設を受け入れる方針であったため、1967年11月13日に調査用地の買収が行われた。反面、福浦地区は建設に反対し、北陸電力は福浦地区での建設を断念。1970年に赤住地区のみで建設計画を進めることになる[7]。だが、建設に同意した赤住地区でも反対意見があったことや、買収予定用地に土地改良事業区域が一部含まれていたことによる手続き上の関連もあり、建設計画は長期間停滞する[8]。
 1980年代後半になると、地質調査が行われてからは発電所建設の流れが進み、1988年に発電所が着工。1993年に原子力発電所を保有しない沖縄電力を除く電力会社9社では後発の原子力発電所が開設された。
 全面海域の4漁協とは1986年12月から1987年3月まで漁業補償、隣接海域の4漁協とは1988年3月から7月までにかけて発電所建設への協力などに関する契約を締結した。[9]

 沿革
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  1967年(昭和42年)11月13日 - 能登原子力発電所の建設計画を発表。
  1973年(昭和48年)6月1日 - 能登原子力建設準備事務所を設置[10]。
  1977年(昭和52年)6月7日 - 国の要対策重要電源の指定を受ける。
  1980年(昭和55年)
    1月4日 - 炉型を沸騰水型(BWR)に決定[11]。
    12月18日 - 志賀町議会で建設促進を決議。
  1984年(昭和59年)11月27日 - 地質調査に着手。
  1986年(昭和61年)
    4月 - 追加買収の窓口を設置[12]。
    6月16日 - 環境影響調査書提出。
    9月3日 - 通商産業省による第1次公開ヒアリング開催が開催される。
  1987年(昭和62年)
    1月24日 - 能登原子力発電所の電源開発基本計画組入れを告示。
    1月26日 - 通商産業省に原子炉設置許可申請を提出。
    11月25日 - 建設準備工事に着手[13]。
  1988年(昭和63年)
    2月24日 - 原子力安全委員会による第2次公開ヒアリングが開催される。
    8月22日 - 原子炉設置許可。
    11月2日 - 工事計画認可。
    12月1日 - 石川県、志賀町および富来町と安全協定および建設協定を締結し、着工(同時に建設所も設置)。同日、能登原子力発電所の名称を志賀原子力発電所に変更[14]。
  1991年(平成3年)8月7日 - 1号機について、原子炉圧力容器が据付される。
  1993年(平成5年)
    5月24日 - 2号機について建設及び環境調査を申入れ。
    7月30日 - 1号機が営業運転を開始[15]。
  1995年(平成7年)11月27日 - 2号機について環境影響調査書・環境影響評価準備書を提出。
  1996年(平成8年)11月21日 - 2号機に関する通商産業省による第1次公開ヒアリングが開催される。
  1997年(平成9年)
    3月27日 - 電源開発調整審議会が志賀原子力発電所2号機計画を承認。
    4月10日 - 2号機について電源開発基本計画組入れを告示。
    5月20日 - 2号機について原子炉設置変更許可申請書を提出。
  1998年(平成10年)
    9月1日 - 2号機について建設準備工事を開始[16]。
    10月16日 - 2号機に関する原子力安全委員会による第2次公開ヒアリングが開催される。
  1999年(平成11年)
    3月27日 - 2号機について着手決定[17]。
    8月27日 - 2号機について工事計画認可、同日着工。
  2006年(平成18年)3月15日 - 2号機が営業運転を開始[18]。

 発電設備
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 原子炉形式  主契約者  定格電気出力  定格熱出力  運転開始日  設備利用率(2009年度)  現況
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1号機  沸騰水型軽水炉(BWR) 日立GE  54万kW  159.3万kW  1993年7月30日  98.5%  定期点検中
2号機  改良型沸騰水型軽水炉(ABWR) 135.8万kW[19]  392.6万kW  2006年3月15日[18]  90.6%
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 1号機および2号機とも、想定される地震の強さは600ガル、津波の高さは5m[20]。

 プルサーマル計画
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 志賀原子力発電所の1号機では、プルサーマルの導入を計画しており、2010年6月28日に石川県に対し、実施申し入れを行っている[21]。
 2011年現在、2015年度を目途に1号機でのプルサーマル導入を目指しているが、北陸電力会長の永原功は「震災もあったし、九州や北海道でもやらせ問題もあったので、当面は無理」と発言し、志賀原子力発電所での導入の凍結を示唆した[22]。
 この発言に対し、北陸電力はプルサーマル計画を凍結していないと公表。ウラン資源の有効利用やエネルギーの安定供給などの観点から「ウラン燃料のリサイクルは必要」としている[23]

 福島第一原子力発電所事故後の対応
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 2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震によって発生した東京電力福島第一原子力発電所の事故に対し、北陸電力が3月18日に発表した対応では当初、想定される津波の高さが5mで発電所敷地(原子炉建屋)の標高が11m確保されているとして防潮堤の設置は行わないとしていた[24]。
 翌月の4月8日に公表した追加の対策として、非常用電源車の配備の他に新たに発電所敷地前と海水ポンプ前に4mの防潮堤を追加で設置する[25][26]など、今後150億円を掛けて対策することを決定した[27]。
 なお、2011年4月現在、1号機は同年2月28日にポンプ部品の不具合で運転を停止中、2号機は地震当日の3月11日から定期検査で運転を中止しており、現在は両機とも運転再開の目途が立っていない[28]。

 臨界事故
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 志賀原子力発電所における事故としては、1999年6月18日に1号機で発生した臨界事故がある。国際原子力事象評価尺度(INES)はレベル2。国への臨界事故の報告は直ちには行われておらず、2007年3月15日になりこの事故の存在が明るみに出たため、事故を隠蔽したとの批判を受けた。
 当日は定期検査のため停止中で、制御棒は挿入状態であり原子炉の蓋は開放状態にあった。制御棒の制御装置は水圧式のピストン構造になっており、手動で行う場合は挿入ラインのバルブ及び引き抜きラインのバルブの開閉による水圧調節で行われる。本来は「水圧逃がしバルブを開いて水圧を下げた後に」挿入ラインのバルブを閉じるべきであったが、人為ミスにより水圧逃がしバルブを閉じたまま挿入ラインのバルブを閉じたため、相対的に引き抜きラインの水圧が上昇し、制御棒が引き抜かれはじめた。3本の制御棒で同様の誤操作があったために予期しない臨界が始まった。直ちに制御室で緊急停止ボタンを押したが、点検中だったために「水圧制御ユニットアキュムレータ(緊急的に制御棒を挿入する安全装置)」が無効化されていたために作動しなかった。そのために作業員が閉じられた挿入ラインのバルブを手動で開いて制御棒を挿入して臨界の停止に成功した。外部への放射能漏れはなく、臨界していた時間は15分間だったとされている[29][30]。
 人為ミスの要因としては、初めてバルブを操作する操作員が配置されていたという点、及び手順書に「水圧逃がしバルブを開く」という手順が記載されていなかったことの複合が原因だったとされている[30]。
 2007年3月15日、経済産業省はこの事故を重大事故と見て、事故の発覚時に北陸電力の社長であった永原功を同日16時に呼び出し、志賀原発1号機の運転停止を命令した。北陸電力は同日18時から運転停止作業に入った[31]。臨界事故の隠蔽が発覚後、北陸電力は、信頼回復の一環として、これまで富山県富山市の本店にあった組織の一つ「原子力部」を発電所のある志賀町に移転させて「原子力本部」を新たに設置。同時に、石川県金沢市に「地域共生本部」を設ける機構改正を2007年6月27日付で実施した[32]。

 活断層
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 志賀原子力発電所周辺の過去1年間の地震の震源分布と地殻変動(防災科学技術研究所 Hi-net 高感度地震観測網の地震データと国土地理院の電子基準点の位置データより作成)
 2012年7月、原子力安全・保安院の専門家会議において、発電所敷地内のシーム(亀裂)が活断層である疑いが指摘され敷地内破砕帯の追加調査の指示を受ける[33]。
 2016年3月3日、原子力規制委員会の有識者調査団は、2015年7月の調査報告書で「活動性は否定できない」としたが、別の専門家から意見をも踏まえ「活動したと解釈するのが合理的」とする新たな報告書案をまとめた。[34]。
 2016年4月27日、原子力規制委員会は有識者会合の1号機原子炉建屋直下の断層について「活断層と解釈するのが合理的」とした報告を受理した。この報告書がくつがえらなければ1号機は再稼働できず、2号機も大幅な耐震工事が必要となる[35]。

 過去の主な対応など
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 ・1989年11月9日、基礎工事で納入した鉄筋の中に、試験データが捏造されたJIS規格違反のものがあったことが、北陸電力により発表された(詳しくは原子力発電の事故隠し・データ改ざん一覧を参照)。
 ・1999年6月18日、定期検査中に制御棒1本の緊急挿入試験を行っていたが、操作手順を誤った事から3本の制御棒において15分間臨界起こした。しかし北陸電力はこれを直ちに国に報告せず、検査記録を改竄するなどして隠蔽を計り、2007年3月15日になってこの事故の存在が明るみに出た。このため、経済産業省の要請によって1号機を停止した。
 ・2004年6月10日、1号機で廃棄物処理建屋内における水漏れ。
 ・2005年4月1日、石川県羽咋市で高さ90メートルの北陸電力能登幹線の鉄塔が、大規模な地滑りの影響を受け倒壊し、送電できなくなったため1号機を4時30分に手動停止。6月に運用開始予定であった能越幹線の運用を早め、4月26日、運転再開。その後、能登幹線は2006年6月に復旧したが、倒壊現場を避けるためにルートが変更され、それに伴い鉄塔が2本減らされた。
 ・2006年1月26日、2号機 営業運転に向け試験中、原子炉隔離時冷却系の蒸気供給隔離弁の試験をおこなったところ、2つあるうちの1つが全閉できなかった。その後、全閉することを確認したが、詳細に点検するために原子炉を停止する。
 ・2006年3月24日、耐震性の疑問に対し金沢地方裁判所より2号機に対し運転差し止め命令が命じられる(ただし2009年3月名古屋高裁で取消判決、2010年10月最高裁で確定)。北陸電力側はただちに控訴、運転を止める予定はない表明。しかし後に、タービン関連のトラブルで停止している間に耐震強度を高めるための工事を行う。
 ・2006年7月18日、2号機のタービンにひびが入っていることが確認される。6月15日にトラブルを起こした中部電力の浜岡原子力発電所5号機とタービンが同型であったため、7月5日以降、点検が行われていた。応急処置として、問題箇所の羽根を整流板に付け替えた上で2007年4月に運転を再開するという。羽根がなくなった分だけ出力が落ちるため、新しいタービンに入れ替えるまでは120.6万kWで送電することとなる。
 ・2006年11月6日、1号機の発電機コレクタリング冷却ファンに記録用紙が吸い込まれ、周囲の音や振動が変化した為に原子炉を停止する。1週間程で点検を終える予定だったが、中性子計測器の接続ミスが見つかったので運転再開が延期され、点検は同月22日までかかった。このトラブルが原因で、点検時に現場周辺へ記録用紙を持ち込む事が禁止される。
 ・2007年3月25日、前述の臨界事故隠蔽による運転停止中、能登半島地震により使用済み燃料貯蔵プール周辺に約45リットル(放射能量約750万ベクレル)の放射能を帯びた冷却水が飛散した。その内約8リットル(放射能量130万ベクレル)が飛散したのは養生シートのない部分だった。
 ・2009年4月13日、2号機の気体廃棄物処理系で通常の約300倍の放射性物質(キセノン133)が検出されたと発表した。同機の出力を約70万キロワットに落とし、放射性物質の漏洩場所の特定作業を行う。外部への放射能の影響はないとしている。
 ・2013年5月、定期検査中の1号機・低圧タービンにおいて、動翼の付け根、植え込み部にひびが発見された。ひび割れは4か所、長さ0.4mmから1.5mmのものであった。
 ・2021年8月10日、2号機の安全装置に不具合が生じていたと発表した[36]。不具合が生じたのは安全装置である主蒸気隔離弁で、基盤の故障が原因[36]。7月6日に異常を知らせる警報が鳴ったことで判明したという[36]。
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