[2021_03_11_06]原発特設サイト 東電福島第一原発事故 日本の原子力政策 東電福島第一原発事故とは <事故の概要>(NHK2021年3月11日)
 
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原発特設サイト 東電福島第一原発事故 日本の原子力政策 東電福島第一原発事故とは <事故の概要>

 東京電力福島第一原子力発電所の事故から10年。3つの原子炉が同時にメルトダウンを起こす世界最悪レベルの事故となりました。改めてどんな事故だったのか、事故の概要を振り返ります。

1971年に運転開始 事故当時は40年目

 福島県大熊町と双葉町にまたがる福島第一原発には、1号機から6号機まであわせて6つの原子炉がありました。
 もっとも古い1号機は、東京電力にとっての初めての原発で、1971年3月に運転を開始、事故当時40年目となる、国内でも古い原発の1つでした。

2011年3月11日

 あの日、稼働していたのは1号機から3号機。
 4号機から6号機は定期検査中でしたが、5号機と6号機の原子炉には核燃料が入っていました。
 1号機から3号機は津波などによる影響で冷却装置が停止。
 核燃料が溶け落ちる「メルトダウン」が起きました。
 さらに、発生した水素が建物の上部にたまり、1号機と3号機、それに水素が3号機から流れ込んだ4号機で水素爆発が起きました。

最初に状況が悪化した「1号機」

 最初に状況が悪化したのは1号機でした。
 地震の揺れを感知し、核分裂反応を止める制御棒が自動的に挿入され、原子炉は緊急停止しました。
 さらに、地震の影響で外から電気を受けるために必要な開閉所と呼ばれる施設も損傷し、外部から電気をもらうことはできなくなりました。
 外部からの電源が失われる事態に備えて用意されている非常用のディーゼル発電機は自動的に立ち上がり、電気を供給し始めます。
 しかし、午後3時半すぎ、津波の第二波が福島第一原発に押し寄せます。
 津波は原子炉建屋など主要な施設のある高さ10メートルの敷地まで遡上しました。
 この津波が海側にあるタービン建屋、さらにその奥側の原子炉建屋にまで入り込みます。
 海に一番近いタービン建屋の1階や地下1階には非常用発電機や電気の配電盤などが設置されていたため、これらが海水につかって使用不能となり、直流を含めてすべての電源が失われました。
 「SBO」「ステーション・ブラック・アウト」外部からの電源のほか非常用の発電機も含めて、使える電源がすべて失われるという世界でも初めて起きる事態でした。
 1号機と2号機、共通の中央制御室は真っ暗となり、原子炉の状態を確認するために必要な計器類の表示も見られなくなりました。
 原子炉の状態を確認するために必要な水位や温度、それに圧力がわからなくなったのです。
 1号機では、地震発生後、非常用復水器、通称、イソコンと呼ばれる電気がなくても機能する冷却装置が自動起動し、原子炉の冷却が順調に進んでいましたが、このイソコンの動作状況もわからなくなります。
 事故後の政府の事故調査・検証委員会の調査によれば、実際には、このときすでに冷却装置はほぼ機能を失っていた可能性が高いとみられていますが、そのことに対策本部がある免震重要棟で事故対応を指揮していた吉田所長をはじめほとんどの人が気づかず、1号機の状態を正確に把握できないまま、事故への対応を進めていきました。
 中央制御室では、イソコンが作動していないのではないかという懸念があり、動作状況の確認を行うなどしていましたが、そのことは吉田所長に伝わっていませんでした。
 このため、1号機は、注水がほぼゼロという状況が続き、核燃料は高温となり、原子炉の中の水位はどんどん下がって、3月11日の夜には燃料はむき出しの状態となり、深夜には大きな炉心損傷を起こしていた可能性が高いとみられています。
 電源が失われてからわずか数時間のうちにメルトダウンが始まっていたのです。
 しかし、1号機の異変に事故対応を指揮していた吉田所長らが気付くのは、12日に日付が変わろうとするころでした。
 11日午後11時50分ごろ。
 小型の発電機を中央制御室に持ち込み、圧力を測定したところ、原子炉を収めている格納容器の圧力が異常に高くなっていることが明らかになったのです。
 このため、格納容器の破損を防ぐため中の空気を抜く、ベントの実施を試みることになりますが、電源が失われ、原子炉建屋の中の放射線量が極めて高くなっているなかでの作業は困難を極めました。
 ベントは、翌日12日の午後2時ごろ、ようやく成功したとみられています。
 しかし、そのおよそ1時間後の午後3時36分、予期しなかった事態に直面します。
 溶けた核燃料のカバーなどから発生した大量の水素が建物の上部にたまり、水素爆発が起きたのです。
 原子炉建屋の最上階が骨組みだけ残して吹き飛びました。
 1号機の爆発は、夜を徹して懸命に続けられていた電源の復旧作業を頓挫させてしまいました。
 実は、原子炉を冷やすためにもっとも重要な電源を復旧させる工事があと一歩のところまで来ていたのです。
 1号機の爆発で電源ケーブルなどが損傷し、電源復旧が遠のいたことがさらなる事故の悪化を招いていきます。

次に事態が悪化した「3号機」

 1号機に続いて、事態が悪化したのは3号機です。
 3号機では1号機、2号機とは異なり、バッテリーが「中地下階」にあったため、水没を免れました。
 そのため、原子炉の圧力などの計器を監視し、RCICやHPCIと呼ばれる冷却装置を動かすことができていました。
 しかし、事故発生の翌日、RCICが自動停止。
 RCICは、交流電源が失われた際、4時間以上動くことが設計条件でこのときは、それを上回って動き続けていましたが、動き始めて20時間近くたったころ、異常を知らせる電気信号を受け、自動的に停止した可能性が高いとみられています。
 中央制御室では再起動を試みましたが動きませんでした。
 RCICが停止し、原子炉水位が低下していくと異常を検知した別の冷却装置であるHPCIが自動起動しました。
 この注水により冷却が進み、原子炉の圧力は低下していきます。
 ただ、このHPCIも止まります。
 本来、HPCIは原子炉が高圧状態にある場合に、原子炉からの蒸気でポンプが動き短時間で大量に注水するためのもので、水位が急上昇すれば停止してしまう仕組みです。
 また、通常、再起動には多くの電気が必要でバッテリーを消耗するため、この時は通常とは異なる方法で注水量を調整しながら作動させていました。
 HPCIによる注水で原子炉の圧力は低下していきましたが、通常とは異なる運転のなかで徐々に機能が失われていきます。
 HPCIの故障などを懸念した運転員は13日午前2時42分に手動で停止させる判断をします。
 HPCIを停止させた上で、原子炉の圧力を抜くための弁を開けて原子炉の圧力を下げ、水を送りだす圧力の低い別の装置で注水をしようと考えていたのです。
 しかし、バッテリーの容量が低下していたため、弁を開くことができませんでした。
 原子炉の圧力は上昇、低圧の注水装置では注水ができなくなります。
 RCICやHPCIの再起動もできず、低圧での注水もできないまま、結果的におよそ7時間にわたって注水が途絶えることになりました。
 13日早朝、午前9時ごろには3号機の原子炉の圧力が一気に急降下しました。
 このことについて、政府事故調は、3号機の原子炉圧力容器が大きく損傷した結果だと分析していますが、東京電力は、のちの解析から、このとき弁が開いた可能性があるとしています。
 いずれにしても高圧となっていた原子炉から圧力が抜け、その分、その外側の格納容器の圧力が上昇し、3号機でもベントが実施されました。
 その後、消防車による注水が続けられましたが、翌14日午前11時1分、1号機に続いて3号機も水素爆発を起こしました。
 このとき建屋の周囲では電源の復旧に向け、電気を供給するケーブルの設置などのため多くの人が外で作業を行っていました。
 3号機の爆発は1号機よりも大きく、大きながれきが降り注ぎ、多数のけが人が出ることになりました。

最大の危機を招いた「2号機」

 2号機では、3号機よりも長く冷却装置のRCICが事故発生から3日後の3月14日まで動いていました。
 しかし、この2号機が吉田所長をして死を覚悟させた最大の危機を招くことになります。
 原発内の免震重要棟 吉田所長らはこの部屋で対応を迫られた(2011年4月撮影)
 RCICは起動時には電源が必要なものの、動き始めれば電源の必要のない冷却装置です。
 ただ、通常であれば、調整をしながら使用するもので、電源がまったくない状態でいつまで動くかはわかっていませんでした。
 そのRCICがついに、事故の発生から3日後の14日午後1時ごろに停止。
 冷却手段を失った2号機は、原子炉圧力容器とその外側の格納容器の圧力が上昇し、翌15日未明に危機的な事態を迎えました。
 2号機では、原子炉圧力容器の圧力を下げるのに手間取り、消防車からの注水ができず、格納容器の圧力を抜くためのベントもうまくいかなかったため、格納容器の圧力が上昇。
 その後、原子炉の圧力を下げることはできましたが、ベントはできず、放射性物質を閉じ込める最後の砦と言われる格納容器が爆発的な損傷を起こしかねない値まで圧力が高まっていたのです。
 こうした危機的な状況が続くなか15日午前6時10分に大きな衝撃音が聞こえたという情報が入ります。
 これを受けて放射線量が急上昇する最悪の事態も想定した吉田所長は、必要最小限の人員を残して、およそ650人を福島第二原子力発電所に退避させました。
 しかし、結果的に、2号機のものではなく格納容器が爆発する事態には至りませんでした。
 ただ、2号機の格納容器圧力は、15日午前11時25分には、大気圧に近い値まで急落していることから、大きな損傷が生じた可能性が高く、2号機の格納容器からは大量の放射性物質が外部に放出されたと考えられています。

衝撃音を発したのは「4号機」

 では、15日午前6時10分の衝撃音は何だったのか。
 これは、地震計のデータから4号機の水素爆発によるものだったことが後にわかりました。
 4号機は、当時、定期検査のため、すべての核燃料が原子炉から取り出され、水を張った燃料プールに移されていました。
 このため1号機から3号機のような原子炉でのメルトダウンは免れました。
 しかし、3号機から配管を通じて水素が流れ込み、原子炉建屋で水素爆発が発生していたのです。
 さらに4号機では、燃料プールの水が抜けたり、蒸発したりして、水が無くなると、多量の燃料が溶けて、高濃度の放射性物質が外に放出される懸念が広がりました。
 このため、自衛隊や消防などによるプールへの放水が試みられました。
 実際にはプールの水が無くなることはなく、核燃料はとけませんでしたが、最悪の場合、首都圏の住民の避難が必要になることなども政府内で一時、検討されました。
 4号機は3月22日からプールの近くまでアームを伸ばすことのできるポンプ車を使ってプールに水を入れる態勢がとられ、核燃料が溶け出す危機は回避されました。
 そして、メルトダウンを起こした1号機から3号機は原子炉に水を入れる取り組みが効果を見せ、徐々に温度は低下、政府はその年の12月、「原子炉が冷温停止状態に達し、安定状態に至った」と発表しました。冷却は今も続いています。
 甚大な被害をもたらした原発事故はこうして少しずつ、収束に向かっていくことになりました。
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