[2020_03_15_01]初動|東電福島原発事故 総理大臣として考えたこと(幻冬舎plus2020年3月15日)
 
参照元
初動|東電福島原発事故 総理大臣として考えたこと

 「戒厳令に近い強権発動――私は覚悟した」。東日本大震災から丸9年。地震・津波の多大な被害に加え、私たちの暮らしを大きく変えた原発事故。あの危機に政府はどう対応したのか。『東電福島原発事故 総理大臣として考えたこと』(菅直人著、2012年10月刊)から、一部を抜粋してお届けします。
※写真はWEB用で書籍には入っていません

*   *   *

原発事故の悪化

 地震・津波対策には、発災直後から松本龍防災担当大臣が危機管理センターに詰め、北澤俊美防衛大臣や警察を担当する中野寛成国務大臣(国家公安委員長)、消防を担当する片山善博総務大臣たちと連携を取って、直ちに動き出していた。
 他方、原発事故は今後どのような展開を示すのか誰にも予想がつかなかった。震災と原発事故に対応する対策本部の立ち上げなど総理大臣としての役割を果たしながら、同時に私は原発事故の動向に神経をとがらしていた。
 原発事故は悪いほうへ向かった。本来送電線からの電気が途絶えても、緊急用の大型ディーゼル発電機で電気を送ることになっているが、津波で緊急用発電機も停止し、すべての電源が喪失したのだ。
 東電から要請を受け、すぐに緊急冷却装置のため電源車を送る手配をしたが、到着した電源車はプラグが合わないなどの理由で、結局、役に立たなかった。

初動

 私は原発事故対策のがスムーズでないことに苛立っていた。
 原子力事故対応の中心となるべき行政組織は原子力安全・保安院である。その保安院がにおいて、現状の説明や今後の見通しについて何も言ってこないからだった。
 私はこれまで厚生(現・厚生労働)大臣や財務大臣を経験したが、各省の官僚は関係する分野の専門家であった。そして、大臣が指示する前から彼らは方針を検討し、それを大臣に提案するのが通常の姿であった。しかし今回の原発事故では、最初に事故に関する説明に来た原子力安全・保安院の院長は原子力の専門家ではなく、十分な説明ができなかった。その後も、先を見通しての提案は何も上がってこなかった。
 私はやむなく、事故発生後の早い段階から、総理補佐官や総理秘書官を中心に、官邸に情報収集のための体制を作り始めた。

想像した「最悪のシナリオ」|東電福島原発事故 総理大臣として考えたこと

「戒厳令に近い強権発動――私は覚悟した」。地震・津波の多大な被害に加え、私たちの暮らしを大きく変えた原発事故。あの危機に政府はどう対応したのか。『東電福島原発事故 総理大臣として考えたこと』(菅直人著、2012年10月刊)から、一部を抜粋してお届けします。※写真はWEB用で書籍には入っていません*

燃え尽きない原子力発電所

 原発は制御棒を挿入して核分裂反応を停止させても、核燃料の自己崩壊熱が出続けるため冷却を続けないと、原子炉の水が蒸発して空焚きの状態となり、やがてメルトダウンする。そこで、緊急停止した後も冷却しなければならないのだが、福島原発の場合、冷却装置を動かそうにも全電源が喪失し、冷却機能停止という深刻な事態となったのだ。
 火力発電所の火災事故の場合、燃料タンクに引火しても、いつかは燃料が燃え尽き、事故は収束する。もちろん甚大な被害は出るが、地域も時間も限定される。危険であれば、従業員は避難すべきだし、消防隊も、これ以上は無理となれば撤退することもあり得るだろう。
 だが、原子力事故はそれとは根本的に異なる。制御できなくなった原子炉を放置すれば、時間が経過すればするほど事態は悪化していく。燃料は燃え尽きず、放射性物質を放出し続ける。そして、放射性物質は風に乗って拡散していく。さらに厄介なことに、放射能の毒性は長期間にわたり、消えない。プルトニウムの半減期は二万四千年だ。
 いったん、大量の放射性物質が出てしまうと、事故を収束させようとしても、人が近づけなくなり、まったくコントロールできない状態になってしまう。つまり、一時的に撤退して、態勢を立て直した後に、再度、収束に取り組むということは、一層の困難を伴うことになる。
 報じられているように、事故発生から四日目の一四日夜から一五日未明にかけて、東電が事故現場から撤退するという話が持ち上がったが、それが意味するのは、一〇基の原発と十一の使用済み核燃料プールを放棄することであり、それによって日本が壊滅するかどうかという問題だったのだ。

最悪のシナリオ

 原発事故が発生してからの一週間は悪夢であった。事故は次々と拡大していった。
 これは後に分かったことであるが、事故発生初日の三月一一日二〇時頃、すでに一号機ではメルトダウンが起きていた。当時はまだ水が燃料の上にあるという報告もあったが、水位計自体がくるっていたのだ。翌一二日午後には一号機で水素爆発が起きた。一三日には三号機がメルトダウン、一四日にはその三号機で水素爆発。そして一五日、私が東電本店にいた六時頃、二号機で衝撃音があったと報告され、ほぼ同時に四号機で水素爆発が起きた。
 私は最悪の場合、事故がどこまで拡大するか、「」を自ら考え始めた。
 事故発生後、米国は原発の五〇マイル(八〇キロ)の範囲からの退避を米国民に指示していた。多くのヨーロッパ諸国は東京の大使館を閉め、関西への移転を始めていた。
 すべての原発の制御が不可能になれば、数週間から数か月の間に全原発と使用済み核燃料プールがメルトダウンし、膨大な放射性物質が放出される。そうなれば、東京を含む広範囲の地域からの避難は避けられない。そうなった時に整然と避難するにはどうしたらよいか。
 一般の人々の避難とともに、皇居を含む国家機関の移転も考えなくてはならない。
 私は事故発生から数日間、夜ひとりになると頭の中で避難のシミュレーションを繰り返していたが、三月一五日未明、東電撤退問題が起きるまでは、誰とも相談はしていない。あまりにも事が重大であるため、言葉にするのも慎重でなくてはならないと考えたからである。

原子力委員長のシナリオ

 私自身が「最悪のシナリオ」を頭の中で考えていた頃から一週間ほど後、現地の作業員、自衛隊、消防などの命懸けの注水作業のおかげで最悪の危機を脱しつつあると思われた二二日頃だったと思うが、細野豪志補佐官を通して、原子力委員会の委員長、近藤駿介氏に、事故が拡大した場合の科学的検討として、最悪の事態が重なった場合に、どの程度の範囲が避難区域になるかを計算して欲しいと依頼した。
 これが「官邸が作っていた『最悪のシナリオ』」とマスコミが呼んでいるもので、三月二五日に近藤氏から届いた「福島第一原子力発電所の不測事態シナリオの素描」という文書のことだ。
 これは最悪の仮説を置いての極めて技術的な予測であり、「水素爆発で一号機の原子炉格納容器が壊れ、放射線量が上昇して作業員全員が撤退したとの想定で、注水による冷却ができなくなった二号機、三号機の原子炉や、一号機から四号機の使用済み核燃料プールから放射性物質が放出されると、強制移転区域は半径一七〇キロ以上、希望者の移転を認める区域が東京都を含む半径二五〇キロに及ぶ可能性がある」と書かれていた。
 私が個人的に考えていたことが、専門家によって科学的に裏付けられたことになり、やはりそうであったかと、背筋が凍りつく思いだった。
 誤解のないように記すと、この「最悪のシナリオ」の数字、半径二五〇キロまでの避難とは、すぐに避難しなければならなかった区域という意味ではない。たとえ、最悪の事態となったとしても、東京からの避難が必要となるまでには、数週間は余裕があるという予測でもある。

*   *   *

『日本沈没』が現実に

 それにしても、半径二五〇キロとなると、青森県を除く東北地方のほぼすべてと、新潟県のほぼすべて、長野県の一部、そして首都圏を含む関東の大部分となり、約五千万人が居住している。つまり、五千万人の避難が必要ということになる。近藤氏の「最悪のシナリオ」では放射線の年間線量が人間が暮らせるようになるまでの避難期間は、自然減衰にのみ任せた場合で、数十年を要するとも予測された。
 「五千万人の数十年にわたる避難」となると、SF小説でも小松左京氏の『日本沈没』くらいしかないであろう想定だ。過去に参考になる事例など外国にもないだろう。
 この「最悪のシナリオ」は、たしかに非公式に作成されたが、政治家にも官僚にも、この想定に基づいた避難計画の立案は指示していない。どのように避難するかというシナリオまでは作っていなかった。
 つまり、「五千万人の避難計画」というシナリオは、私の頭の中のみのシミュレーションだった。
 私の頭の中の「避難シミュレーション」は大きく二つあった。一つは、数週間以内に五千万人を避難させるためのオペレーションだ。「避難してくれ」との指示を出すと同時に計画を提示し、これに従ってくれと言わない限り、大パニックは必至だ。
 現在の日本には戒厳令(*)は存在しないが、戒厳令に近い強権を発動する以外、整然とした避難は無理であろう。
 だが、そのような大規模な避難計画を準備しようとすれば、準備段階で情報が漏れるのも確実だ。メディアが発達し、マスコミだけでなくインターネットもある今日、情報管理は非常に難しい。これは隠すのが難しいという意味ではなく、パニックを引き起こさないように正確に伝えることが難しくなっているという意味である。そういう状況下、首都圏からの避難をどう進めたらいいのか。想像を絶するオペレーションだ。
 鉄道と道路、空港は政府の完全管理下に置く必要があるだろう。そうしなければ計画的な移動は不可能だ。自分では動けない、入院している人や介護施設にいる高齢者にはどこへどのように移動してもらうか。妊婦や子どもたちだけでも先に疎開させたほうがいいのか。考えなければならない問題は数限りなくある。
 どの段階で皇室に避難していただくかも慎重に判断しなければならない。
 国民の避難と並行して、政府としては、国の機関の避難のことも考えなければならない。これは事実上の遷都となる。中央省庁、国会、最高裁の移転が必要だ。その他多くの行政機関も二五〇キロ圏内から外へ出なければならない。平時であれば、計画を作成するだけで二年、いや、もっとかかるかもしれない。それを数週間で計画から実施までやり遂げなければならない。
 大震災における日本人の冷静な行動は国際的に評価されたが、数週間で五千万人の避難となれば、それこそ地獄絵だ。五千万人の人生が破壊されてしまうのだ。『日本沈没』が現実のものとなるのだ。
 どうか想像して欲しい。自分が避難するよう指示された際にどうしたか。
 引越しではないので、家財道具はそのままにして逃げることになる。何を持って行けるのか。家族は一緒に行動できるのか。どこへ避難するのか。西日本に親戚のある方は一時的にそこへ身を寄せられるかもしれない。しかし、どうにか避難したとして、仕事はどうする。家はどうする。子どもの学校はどうなる。
 実際、福島第一原発の近くに住んでいた人々は、今、この過酷な現実に直面している。避難した約一六万人の人々は不安な思いで一日一日をおくっている。仕事、子どもの学校など将来の見通しが立たず、時間とともに不安が大きくなっていると思う。福島の人には、大変な苦労をおかけしている。もし五千万人の人々の避難ということになった時には、想像を絶する困難と混乱が待ち受けていたであろう。そしてこれは空想の話ではない。紙一重で現実となった話なのだ。

*現在の法律には戒厳令は規定されていないが、総理大臣がかなり強い権限を持つ法律としては、国民保護法(武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律)がある。しかし、これは武力攻撃あるいは大規模テロに対処するための法律なので、原発事故には適合しにくい。総理大臣が布告できる緊急事態宣言としては、警察法第七十一条に「内閣総理大臣は、大規模な災害又は騒乱その他の緊急事態に際して、治安の維持のため特に必要があると認めるときは、国家公安委員会の勧告に基き、全国又は一部の区域について緊急事態の布告を発することができる。」とあり、災害対策基本法第百五条にも「非常災害が発生し、かつ、当該災害が国の経済及び公共の福祉に重大な影響を及ぼすべき異常かつ激甚なものである場合において、当該災害に係る災害応急対策を推進するため特別の必要があると認めるときは、内閣総理大臣は、閣議にかけて、関係地域の全部又は一部について災害緊急事態の布告を発することができる。」とある。しかし、総理大臣が国民に対し、どこまでの強制力を持つのかは具体的ではない。大規模地震対策特別措置法は、地震予知を受けて警戒宣言を出し、避難指示などをするもので、原発事故の放射能からの避難を定めたものではない。大規模な自然災害、外国からの侵略やテロ、騒乱などの有事を想定した緊急事態基本法を作ろうという動きは以前からあり、二〇〇四年には、民主党、自民党、公明党の三党合意もなされたが、憲法で保障されている基本的人権が、財産権も含め大きく制限される可能性があるため、反対の声も多い。*   *   *

さらに続く最悪のシナリオ

 仮に、どうにか五千万人が避難できたとしても、「最悪のシナリオ」は終わらない。
 二五〇キロ圏内に数十年にわたり、人が住めなくなるという事態を想像して欲しい。
 その地域で農業、牧畜、漁業に従事していた人々は、住むところだけでなく職も失う。工場で働いていた人々も、大企業の工場であれば、国外を含めた他の工場へ配置転換されるかもしれないが、町工場はそのまま倒産、失業だろう。個人商店も同様だ。デパート、スーパーなどの流通業も全国規模の会社であれば倒産は免れるかもしれないが、人員整理は必至だ。鉄道、電力、ガス、通信といった地域サービスを提供する会社も東日本では仕事がなくなる。
 安定している職のはずの公務員はどうだろう。国家公務員は国家再建という大仕事があるので、忙しくなるだろう。失業対策の意味からも、公務員の雇用を増やせということになるかもしれない。だが、二五〇キロ圏内にあった地方自治体の職員はどうなるのか。概念として、◯◯県とか◯◯村は存続しても、住民も散り散りとなってしまえば、もはや自治体としての機能は失う。圏外の役所に間借りして、帰れる日のために最低限の職員が残ることになるのか。
 避難した人たちの住宅の手当も必要だ。一千万戸以上の仮設住宅など、不可能である。ホテル、旅館、空き家、空き室を国が借りて提供するとしても限度がある。
 そして、一千万人以上になるであろう失業者をどうするか。地震、津波被害の復旧という仕事も、その地域そのものが避難区域になるわけだから、もはや存在しない。
 学校はどうなるのだろう。避難区域内にあった私立の学校は経営が成り立たなくなる。大学も同じだ。学生や教授は避難できても、実験施設などはそのまま残していくしかない。病人や高齢者を受け入れられるだけの病院や施設はあるのか。
 避難区域外の企業としても、取引先が東京であれば、売掛金の回収が不可能になるし、今後の得意先を失うことになる。直接・間接を問わず、全業種・全企業に影響が出る。
 経済の混乱は必至である。そうなれば、株の取引も停止するしかない。円も大きく下落するだろう。日本経済全体が奈落の底に落ちていくことになる。
 東京の地価は暴落どころではないかもしれない。一方で大阪や名古屋は地価が高騰するかもしれない。土地の売買の停止も必要になる。こうなると、資本主義、私有財産という概念も否定せざるを得ない。
 海外に移住する人も出てくるだろう。まさに、『日本沈没』に描かれている状況だ。
 いったい、国はいくら支出しなければならないのか。その財源はどこにあるのだ。
 さらに、二五〇キロ圏内が避難という事態とは、同時に大気と海によって世界中に放射能をまき散らしている状況になっていることも意味する。そのことへの国際的非難と賠償を求める声に、日本は国としてどう対応できるのか。東電という民間企業に責任をなすりつけることは許されないだろうし、だいたい東電が対応できる次元のことではなくなっている。
 とても、ひとりでは考えられない規模のシミュレーションだった。
 私の頭の中には、危機的状況が何度も浮かび上がった。
 原発の重大事故は起きない。その前提に立って日本の社会はできていた。原発を五四基も作ったのもその前提があったからだ。法律も制度も、政治も経済も、あるいは文化すら、原発事故は起きないという前提で動いていた。何も備えがなかったと言っていい。だから、現実に事故が起きた際に対応できなかった。
 政治家も電力会社も監督官庁も「想定していなかった」と言うのは、ある意味では事実なのだ。自戒を込めて、そう断言する。
 だが、私は事故が起きてからは、想定外だろうがなんだろうが、すでに起きてしまった現実からは逃れられないと覚悟を決めた。

見えない敵|東電福島原発事故 総理大臣として考えたこと

最高責任者としての悩み

 二〇一一年三月一一日からの数週間、東日本は放射能という見えない敵によって占領されようとしていた。その敵は、外国からの侵略者ではない。多くの人にとって、そのような意識はないだろうが、日本が自分自身で生み出した敵なのだ。であればこそ、日本が自分の力で収束させなければならなかった。そのためには、犠牲者が出るのも覚悟しなければならない。そこまで事態は深刻化していった。
 ソ連ではチェルノブイリ原発事故を収束させるために、軍が出動してヘリコプターから総計五千トンの砂や鉛(なまり)を投下して消火し、さらに半年ほどかけて「石棺(せっかん)」を作った。
 最初の一〇日ほどの消火作業だけで兵士を中心とした作業員二〇〇名以上が入院し、約三〇名が急性被曝が原因で死亡したと伝えられるが、その後も含めて相当数の兵士が死亡したと言われている。何人の犠牲者が出たかは、ソ連という国柄もあり、よく分からない。決死の作業であったことは間違いない。しかし、日本においてソ連と同じような対応ができるのか。また、やっていいのか。
 日本では、あの太平洋戦争までは「国のために死ぬ」のは当然のこととされ、戦争指導者は、沖縄戦などでは軍人だけなく民間人に対してもそれを強制してきた。戦後は、その反省から日本は「国のために死ぬ」ことを国民に求めない国として生まれ変わった。そして「人の命は地球より重い」とされてきた。
 しかし実際に起きた福島原発事故を前にして、果たしてその考えだけで対応できるのか。原発事故の収束に失敗し、大量の放射性物質が東日本全体に、さらには世界中に放出されることになった時、日本はそして世界はどうなるのか。多くの日本人が命を失い、社会は大混乱し、日本は国家としての存亡の危機に陥ることは間違いない。命が危ないからといって、逃げ出すことが許されるのか。
 私は政治信条として「最小不幸社会」の実現と言ってきた。不幸の原因の最大のものは戦争であり、そして重大原発事故も多くの人を不幸にする。これを阻止するのは政治の責任である。そして実行するためには国民はそれぞれの立場で責任を果たすことが重要である。もちろん、政治家や公務員にはより大きな責任がある。そして原発事故においては、当事者である東電社員にもそれぞれの立場で責任を果たしてもらわなくてはならない。
 内閣総理大臣である私は、最悪の場合死ぬ恐れがあると知りながら、「行ってくれ」と命令しなければならない立場(*)にあった。
 しかし「行ってくれ」と命令された人にとってはどうか。
 妻や子どもといった家族もあり、仕事としての責任と、夫として、親としての責任を果たすため危ない所に行きたくないという思いの板ばさみになるだろう。
 三月一一日からの数日間は、次々と制御できなくなっていく原子炉、放射能という目に見えない敵と、どう戦ったらいいのか、どこまで戦えるのかを自問自答する日々であった。このような切羽詰まった問題が、現実として目の前に存在していた。

*当時の私の置かれた立場について、作家・評論家の佐藤優氏は、三月一三日のブログで次のように述べている(佐藤優著『3・11クライシス!』(マガジンハウス刊)にも収録されている)。「マスメディアの抑制された報道からでも、福島第一原発が危機的状況にあることを国民は察知している。首相は超法規的措置を恐れずに、必要な措置をとらなくてはならない。この場合、国家的危機を救うために生命の危険にさらされる任務があることをわれわれ国民はよく自覚しておく必要がある。戦後日本の国家体制は、近代主義によって構築されている。その核となるのが生命至上主義と個人主義だ。個人の命は何よりもたいせつなので、国家は生命を捨てることを国民に求めてはならないという考え方である。しかし、国際基準で考えれば明らかなように、どの国家にも無限責任が求められる職種がある。無限責任とは、職務遂行の方が生命よりも重要な場合のことだ。日本の場合、自衛官、警察官、海上保安官、消防吏員(消防士)、外交官などがその本性において、無限責任を負う。通常の場合、東京電力関係者に無限責任は想定されていない。しかし、福島第一原発の非常事態に鑑み、専門知識をもつ者が自己の生命を賭して、危機を救うための努力をすることが求められる。マスメディアは詳しく報道していないが、現場では日本の原子力専門家が危機から脱出するために、文字通り命がけで働いている。菅首相は、危機を回避するため無限責任を要求する超法規的命令を発することを躊躇してはならない。菅首相は民主的手続きによって選ばれた日本の指導者として、職業的良心に基づいて日本国家と日本人が生き残るために必要とされる全てのことを行うべきだ。」

東電撤退と統合本部

 原発事故発生から数日間、事故の収束が見通せず、原子炉の制御不能状態が拡大する中で、私は、この原発事故を収束させるためには、自分自身を含め、たとえ命の危険があっても、逃げ出すわけにはいかないという覚悟を決めていた。しかし、原発事故対応の要となるべき行政組織、原子力安全・保安院からは何の提案も上がってこず、院長は二日目以降、ほとんど姿を見せなくなった。そうした時に東電撤退問題が起きた。
 三月一五日午前三時、私が官邸で仮眠をとっていた時に秘書官から「経産大臣が相談したいことがあると言って来ています」と起こされた。そして海江田万里経産大臣がやって来て、東電の清水正孝社長から撤退したいという申し出があったと告げられた。
 東電との詳しい経緯は次章で述べるが、「撤退すれば日本は崩壊する。撤退はあり得ない」と思っていた。それは東電だけでなく、自衛隊や消防、警察についても同じ気持ちだった。民間企業である東電職員にそこまで要求するのは通常であれば行き過ぎであろう。しかし、東電は事故を起こした当事者であり、事故を起こした東電福島原発の原子炉を操作できるのは東電の技術者以外にはいない。事故を収束させることは、東電関係者抜きでは不可能だ。それだけに、たとえ生命の危険があろうとも、東電に撤退してもらうわけにはいかないのだ。
 私は同時に、政府と東電の統合対策本部を東電本店内に設けることが必要と判断し、細野豪志総理補佐官を私の代わりに事務局長として常駐させることを決断した。事故発生後、この原発事故収束には、東電と政府が一体であたらなくてはならないのに、撤退問題といった重要問題でさえ意思疎通が十分でなかった。これは事故の収束作戦を進める上で、致命傷になりかねないと考えたのだ。そして、清水社長を官邸に呼び、「撤退はない」と言い渡し、また「統合対策本部を東電本店内に置く」ことを提案し、了解を取り付けた。
 私は、統合対策本部を立ち上げるため、三月一五日午前五時三五分、東電本店に乗り込んだ。「撤退」は清水社長だけの考えではなく、会長など他の幹部の判断も当然入っていたと考えたので、私は、会長、社長など東電幹部を前に、撤退を思いとどまるように説得するつもりで、渾身の力を気持ちに込めて次のように話した。
 「今回の事故の重大性は皆さんが一番分かっていると思う。政府と東電がリアルタイムで対策を打つ必要がある。私が本部長、海江田大臣と清水社長が副本部長ということになった。これは二号機だけの話ではない。二号機を放棄すれば、一号機、三号機、四号機から六号機、さらには福島第二のサイト、これらはどうなってしまうのか。これらを放棄した場合、何か月後かには、すべての原発、核廃棄物が崩壊して放射能を発することになる。チェルノブイリの二倍から三倍のものが一〇基、二〇基と合わさる。日本の国が成立しなくなる。
 何としても、命懸けで、この状況を抑え込まない限りは、撤退して黙って見過ごすことはできない。そんなことをすれば、外国が『自分たちがやる』と言い出しかねない。皆さんは当事者です。命を懸けてください。逃げても逃げ切れない。情報伝達は遅いし、不正確だ。しかも間違っている。皆さん、萎縮しないでくれ。必要な情報を上げてくれ。目の前のこととともに、一〇時間先、一日先、一週間先を読み、行動することが大切だ。
 金がいくらかかっても構わない。東電がやるしかない。日本がつぶれるかもしれない時に撤退はあり得ない。会長、社長も覚悟を決めてくれ。六〇歳以上が現地へ行けばいい。自分はその覚悟でやる。撤退はあり得ない。撤退したら、東電は必ずつぶれる。」
 これは同行した官邸の若いスタッフの聞き取りのメモを起こしたものである。

※試し読みは今回で終了です。続きは本書でご高覧ください。
東電福島原発事故 総理大臣として考えたこと

■目次
はじめに
序章  覚悟
第一章  回想 ――深淵をのぞいた日々
三月一一日・金曜日/三月一二日・土曜日/三月一三日・日曜日/三月一四日・月曜日/三月一五日・火曜日/三月一六日・水曜日/三月一七日・木曜日/三月一八日・金曜日/三月一九日以降
第二章  脱原発と退陣
第三章  脱原発での政治と市民

■菅直人
1946年山口県宇部市生まれ。衆議院議員、立憲民主党最高顧問。弁理士。70年東京工業大学理学部応用物理学科卒。社会民主連合結成に参加し、80年衆議院議員選挙に初当選。96年「自社さ政権」での第1次橋本内閣で厚生大臣に就任。同年、鳩山由紀夫氏らと民主党を結成し、党代表に。2010年6月第94代内閣総理大臣に就任。
KEY_WORD:汚染水_:FUKU1_:FUKU2_:HIGASHINIHON_:TSUNAMI_: