[2018_01_12_02]【秘録 今明かす「あの時」】福島第二原発の過酷事故を止めた懸命の30時間作業 通常なら機械を使い1カ月かかる難業 (ZAKZAK2018年1月12日)
 
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【秘録 今明かす「あの時」】福島第二原発の過酷事故を止めた懸命の30時間作業 通常なら機械を使い1カ月かかる難業

福島第二原発の奇跡(1)
写真:福島第二原発の構内をさかのぼる津波(東京電力提供、一部加工)
 2011年3月11日の東日本大震災で、東京電力福島第一原子力発電所で大事故が起こった。そのとき、直線距離で12キロしか離れていない同社の福島第二原発も危機に直面したが、過酷事故は避けられた。知られざる人々の奮闘を紹介したい。
 「全電源を失った福島第一と状況が違い、電源が残った。その点で運が良かった」
 第二原発の当時の所長、増田尚宏氏は事故を免れた理由を振り返った。
 第一原発では、津波で非常用電源設備が壊れ、地震で外部電源も切れ全電源が喪失した。そして、冷却不能になって原子炉が加熱し、核燃料が破損した。
 第二でも似た状況に陥った。震災時点で4つの原子炉すべてが稼働していたが津波が襲った。事前に想定した津波の高さは5メートル前後。ところが、最高9メートルに達し、防波堤を壊して乗り越えた。
 「津波の恐ろしさを深刻に認識すべきでした」と、増田氏は悔やむ。
 昨年10月、第二原発を訪ねると、海辺の冷却装置の置かれた建物内に水の跡があった。鉄扉が壊されて水が流れ込んだという。さらに波は敷地をさかのぼり、海面から15メートルのところまで一部浸水した。目の前にある海は穏やかで、荒れ狂う津波の巨大なエネルギーを想像するのは難しかった。
 第二原発は、4系統あった外部電源のうち1つが残った。さらに中央制御室が使え、監視と操作が行えた。4つのプラントには外部電源に加え、3台ずつ非常用発電機が備えられていた。1、2号機では地形の関係で水没個所が多く、それらがすべて壊れた。3号機は2つ、4号機は1つ残り、冷却は可能だった。

 増田氏は的確な臨機の指示を出した。
 直線距離で800メートル離れて残った外部電源から海辺の建屋まで、約200人もの社員と関連会社の社員の人力でケーブルを担ぎつなげた。ケーブルは太さ5センチほどで大変重い。建物を迂回(うかい)したり、上下があったりして、総延長は9キロメートルにもなった。通常なら機械を使って1カ月かかる作業を、13日深夜まで30時間で成し遂げた。その電力を使って注水し冷却ができた。
 1号機は加熱して圧力が高まっており、あと数時間遅れれば原子炉内にたまった蒸気を外部に放出する「ベント」を決断せねばならないほど、切羽詰まった状況だった。
 増田氏は今、東京電力ホールディングスの常務執行役で、福島第一廃炉推進カンパニーのプレジデント(最高責任者)だ。
 「原発の安全で想定外は許されない。昨日よりも今日、今日よりも明日、より安全にするよう日々改善を進める。安全追求に終わりはない。私も社員も、以前にもましてそう意識するようになりました」
 福島第二原発が過酷事故を免れた理由は、電源が残った幸運が影響したかもしれない。しかし、それは理由の一部にすぎない。状況をより強く安全に結びつけた、責任者の的確な判断と人々の頑張りがあったのだ。

 ■石井孝明(いしい・たかあき) 経済・環境ジャーナリスト。1971年、東京都生まれ。慶応大学経済学部卒。時事通信記者、経済誌記者を経て、フリーに。著書に『京都議定書は実現できるのか』(平凡社)、『気分のエコでは救えない』(日刊工業新聞)など。

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