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[2025_10_02_05]試論「廃原発事始め」 第9回 「日米<核>同盟」を維持、発展させることが原発導入の目的 原発は再生可能エネルギーよりもたくさん「お金」が廻る 藤岡彰弘(廃原発watchers 能登・富山)(たんぽぽ2025年10月2日) | ![]() |
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04:00 1 「存原発」の根拠−なぜ原発に固執するのか、固執できるのか? 【リ】「日米<核>同盟」を維持、発展させることが原発導入の目的。 それを巧みに隠してきたのが「原子力の平和利用」という マジックワードだった。−その1 ・「実態としてのベースロード」を駆動させるもの 前回から少し間が空いてしまいました。 前回までを、推進側が使う「原子力はベースロード発電」という言葉を使って、ざっと振り返ってみたいと思います。 この「原子力はベースロード電源」という文言は、常套句のように使われ、原発抜きでは日本社会が立ちいかなくなるかのようなイメージを与えてきました。 それはいわば「まやかしのベースロード」です。 2011年の福島第一原発事故以来、原発は安全でないばかりか、安定しているわけでも、経済的なわけでもないことはすでに誰の眼にも明らかになりつつあります。 それでも原発に固執するのは、一つには原発が電力送電網の中枢に位置づけられ、大電力会社にとって原発抜きの送配電体制にはもう後戻りできないということ。 二つには、原発が大量生産、大量消費、大量流通、大量廃棄の大構造の中にあって、とりわけお金の流通=金融資本に都合のいい商品であること、要するに原発は再生可能エネルギーよりもたくさん「お金」が廻るということです。 これらはいわば「実態のベースロード」だといえます。 私は、この「実態のベースロード」を駆動させているもう一つのベースロード、日米間の国家戦略に基づく、いわば「本質としてのベースロード」とでもいうべきものが、原発を存続させ続ける根拠になってきたと思うのです。 ・「日米<核>同盟」の維持、発展こそ原発存続の使命 この見出しは、岩波新書『日米<核>同盟』太田昌克著(2014年)からとりました。 1952年に日米安全保障条約が調印され、その直後から戦後日本の原子力開発がアメリカとの深い関係をもとに始まっていきます。 太田さんは、この日米の関係を、まさに「日米<核>同盟」であると喝破しました。 私も、この「日米<核>同盟」という枠組みこそ、日本の原発が発展、存続してきた根拠であり、この同盟関係がたどってきた道筋こそ、原発をめぐる「本質のベースロード」だったと思うのです。 日本の原子力研究や原子力発電事業には必ず「平和利用」という枕詞が付されます。 今なら、軍事的にもどんどん使われているドローンやAIの商業利用を、誰も平和利用などと言いません。 なぜ原子力発電にだけこの言葉が使われてきたのか、次回はその始まりのところから考えていきたいと思います。 なお、この後6回ぐらいに分けて「日米<核>同盟」の経過をたどっていきたいと思いますが、この先の文章は、先ほどの太田昌克さん、山崎正勝さん、有馬哲夫さん、山本義隆さんといった方々の著作を参考にさせていただきました。 私自身、まだまだ理解が足りていないと思います。 いわば私の雑駁な「おさらい」にお付き合い願いたいのですが、できれば上記の皆さんの著作を直接手にされることをお勧めいたします。 1 「存原発」の根拠−なぜ原発に固執するのか、固執できるのか? 【ヌ】「日米<核>同盟」を維持、発展させることが原発導入の目的。 それを巧みに隠してきたのが「原子力の平和利用」というマジックワードだった。 −その2 ・「Atoms for Peace」はアメリカ側の焦りのことば 「原子力の平和利用」という文言は、1953年12月に、米大統領アイゼンハワーが国連総会で行った演説に由来していると一般的には解されていますが、そうではありません。 1949年にソ連は核実験に成功し、同年にソ連代表が、国連総会で原爆を土木工事等に利用する「原爆の平和利用」を訴えています。 さらにソ連は、東側陣営以外の諸国に向けても、平和利用目的の原子力研究への支援を提示し、東西冷戦における米国側の優位性を脅かしていたのです。 対する米国側の戦略は二つ。 核開発で米を急追するソ連との差を広げるため、水素爆弾の実験を加速すること、そして原子力の商業利用を自国で定着させ、友好国のみならず、西ドイツや日本など旧敵国にも広げること。 この二つを同時進行させることで、核の支配体制の強化を図ったのです。 そういう中での「原子力の平和利用」宣言だったのです。 1955年11月、日本とアメリカは「日米原子力協力協定」(「原子力の非軍事的利用に関する協力のための両国政府間の協定」)を結びます。 これによって、日本は戦争中ついに果たせなかった濃縮ウランを一定量確保でき、原子力研究開発へと一歩踏み出していきます。 しかし協定の締結は、アメリカの核戦略の傘下に入ることを自ら認めたということでした。 ・「広島に原発を」という提案があった! 1953年12月のアイゼンハワー演説以後の動きをまとめてみましょう。 1954年3月、米がビキニ環礁で水爆実験、第五福竜丸が「死の灰」を浴びる。同月「日米相互防衛協定」調印。米からの兵器供与が具体化。 4月、日本学術会議総会、原子力平和利用のための「公開、民主、自主」の三原則を採択。 12月、第五福竜丸事件後の原水爆禁止署名運動の署名者数が2000万人に達する。 1955年1月、日米両政府、第五福竜丸事件の見舞金額を200万ドルで妥結。 5月、米の原子力関連企業代表らの原子力平和利用使節団が来日。 11月、東京で原子力平和利用博覧会開催。そして同月に「日米原子力協力協定」が締結され、日本原子力研究所が発足します。 このような、原水爆禁止を求める運動と原子力平和利用キャンペーンとが交錯する事態を象徴するものとして、「広島に原発を」という提案が米議会でおこなわれたのです。 1955年1月28日、イエーツ下院議員は「広島が世界最初の原爆の洗礼を受けた土地であることに鑑み、アメリカ政府は同地を原子力平和利用の中心とするよう助力を与えるべきである」という提案を行いました。 しかしアイゼンハワー大統領は、これではアメリカの原爆投下の加害責任を認めてしまうと却下します。 この提案の欺瞞性こそ、「原子力の平和利用」という言葉がまさに「マジックワード」だということをみごとに表しているのです。 1 「存原発」の根拠−なぜ原発に固執するのか、固執できるのか? 【ル】.「日米<核>同盟」という歪んだ同盟、盟主アメリカの傘下であがき続けた日本、ついに獲得した「潜在的核保有大国」の地位がもたらしたもの−その1 ・原爆を落とした国と、落とされた国による「核同盟」 1955年の「日米原子力協力協定」締結後、紆余曲折を経ながらも、日本の原子力開発は進展していきます。 1957年8月には、茨城県東海村で日本初の研究用原子炉が初臨界。 1958年6月、「日米動力協定」により動力試験炉用にプルトニウムも受け取れるようになり、1959年3月には原子燃料公社東海精錬所が開所。 1966年1月にはプルトニウムが初入荷。 1967年10月には、東海精錬所が動力炉・核燃料開発事業団東海事業所に改組されます。 そして1968年7月、改定版「日米原子力協定」が結ばれ、商業用原発に向けた大量の濃縮ウランと核燃用プルトニウムが確保できることになったのです。 この「原子力協定」は、核燃料の提供とそれに伴う供給国側の規制権を定めたものです。 核物質の貯蔵や移動についても提供側の同意が必要とされ、特に再処理に関しては厳しくチェックを受けます。 逆に言えば、あからさまな軍事転用さえしなければ、この協定によって日本は、堂々とプルトニウムを保持できるというアメリカからのお墨付きを得たわけです。 「潜在的核保有」という言い方をしますが、実際には潜在的などと言うより、準核保有とでも言うべき状態なのだと思います。 肝心なことは、日本の準核保有状態をアメリカ側も望んでいたということです。 「原子力協定」締結の2年後、1970年3月に、日本初の商業用原発日本原電敦賀1号機が稼働します。 ・核をめぐる世界の状況が変遷していく中で 敦賀1号機の稼働以後の「日米<核>同盟」と世界情勢の動きは、1972年9月に日米首脳会議で、日本が濃縮ウラン1万トンを輸入決定。 1973年1月、アメリカ軍がベトナムから撤退。 1973年10月、第4次中東戦争が勃発、第1次石油ショック。 1974年5月、インドが核実験。 1976年6月、日本が核拡散防止条約(NPT)を批准。 1977年9月、東海村再処理施設が運転開始。 1979年3月、米スリーマイル島原発事故。 1982年5月、高速増殖炉もんじゅ建設を閣議決定。 1983年10月、米の高速増殖炉の計画中止。 1984年7月、電気事業連合会が核燃料サイクル施設の立地協力を青森県六ケ所村などに要請、と続いていきました。 ベトナム戦争が終わり、インドが核保有国となり、中東での紛争が激しくなって、東西冷戦だけでは<世界>は語れなくなっていきます。 日米関係も、東海村再処理施設が本格的に稼働を始める1970年代後半以降に、大きく揺らぎだします。それは、当時のカーター大統領が、核不拡散政策の徹底を日本にも適用させようとするところから 始まりました。 私は、戦後日本の歴代内閣の「悲願」は、「日米<核>同盟」に拠って「潜在的核保有大国」に成り上がることだったのではないかと考えています。 そのためには、自前の核燃料サイクルを使って大量のプルトニウムを獲得すること、それが何より重要だったのです。 1 「存原発」の根拠−なぜ原発に固執するのか、固執できるのか? 【ヲ】.「日米<核>同盟」という歪んだ同盟、盟主アメリカの傘下であがき続けた日本、ついに獲得した「潜在的核保有大国」の地位がもたらしたもの−その2 ・「核不拡散」を名目にコントロールを強めるアメリカ VS 粘る日本 1976年に、日本はNPT(核不拡散条約)を批准します。 世界に向かって核兵器の不保持を約束すると同時に、米国による核燃料再処理へのより強いコントロールを受け入れるという姿勢を示したものでした。 当時のカーター政権は、国内政策として再処理事業からの撤退を決断しており、各国にも同様の方向を取るよう求めていたのです。 日本に対しては、再処理事業を認めたものの二つの難題を押し付けてきました。 一つは再処理過程に関わる細かな変更まで含めた、日米の「共同決定」という縛りです。 「共同決定」とは、つまりアメリカが同意しないと何もできないということです。 二つ目は、核不拡散を名目とした「第三国への再移転の禁止」です。 要するに再処理事業で儲けてはならない、生じたプルトニウムは全て自国消費せよというのです。 日本政府としては、すでに東海村の施設を完成させ、次の商業的工場を構想しており、「潜在的核保有大国」をめざすため、ここで折れることはできないとアメリカ相手に粘り続けます。 1977年からの日米再処理交渉は延々と続き、ようやく新たな「日米原子力協定」が、1988年7月に発効されました。 交渉の結果、再処理過程に対する米側の要求をほぼ受け入れる代わりに、「包括同意」方式を導入し、双方がいったん同意すれば、以後10年間協議不要とし、最長30年間継続できることになったのです。 東海再処理工場の本格運転も、商業施設ではないものの、世界的な規模となる第二再処理施設の設置も認められました。まさに絶頂期でしたが、同時にそれは、現在に至る「底なし沼」に足を取られていくその始まりでもあったのです。 ・核がダブつく中で、さらに「潜在的核保有大国」への道にのめり込む 日米の交渉が続いたこの10年の間に、核をめぐる状況は大きく変わっていきます。 ウランやプルトニウムが、いわば闇の市場で扱われるようになっていったのです。 1970年代に各国で原発の導入が一気に増えていくと、アメリカが製造する濃縮ウランが欠乏し始めます。それを埋め合わせていたのが、ソ連で濃縮されたものだったことが明らかになっています(有馬哲夫著『原発と原爆』文春新書)。 1975年、GE社がアメリカ産の天然ウランをソ連に提供し、代わりにソ連製の濃縮ウランを各国の自社製原発に納めたというのです。 これは、核兵器用の濃縮ウランやプルトニウムとその製造施設に、ダブつきや偏りが生まれてきたためではないかと、私は考えています。 というのも1982年には「START1(第一次戦略核兵器削減交渉)」が米ソ間で始まっていくからです。 NPTの進展で核兵器保有競争は一段落し、核テロや核ジャックといったことが取りざたされていきます。 そういった中で日本政府は、単なる「核の潜在保有国」ではなく、どうしても「潜在的核保有大国」でなければ、という強迫観念に捉われていったのだと思います。 (第13回に続く) |
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