[2024_06_14_02]伴英幸さんが遺したバトンとは…「脱原発社会」目指し対話続けた原子力資料情報室共同代表 悼む声が広がる(東京新聞2024年6月14日)
 
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伴英幸さんが遺したバトンとは…「脱原発社会」目指し対話続けた原子力資料情報室共同代表 悼む声が広がる

 12:00
 脱原発の実現を訴える市民団体「原子力資料情報室」(東京)の共同代表、伴英幸(ばん・ひでゆき)さんが10日、亡くなった。72歳だった。チェルノブイリ原発事故をきっかけに、脱原発の運動に参加。経済産業省や国の原子力委員会の会合でも委員を務め、「原発推進」側とも粘り強く議論した。「こちら特報部」の取材にも丁寧に応じてくれた。その人柄と功績に関係者から悼む声が広がっている。
(宮畑譲)

 ◆「政府と折り合いがつかない時も対話を」

 「温和な人だったが、内に熱いものを持っていた。あと5年は一緒に活動してもらえると思っていた」
 情報室事務局長の松久保肇さんが悔やむ。松久保さんによると、伴さんは今年3月に入っても講演活動をこなしていたが、腰痛を訴え、精密検査を受けたところ、がんが進行していることが発覚し、入院した。
 見舞いに訪れた松久保さんに、伴さんは「政府と折り合いがつかない時も対話は大事」「なるべく現場に通うように」と対話と現場の大切さを伝えたという。

 ◆チェルノブイリを契機に市民運動へ

 伴さんは旧ソ連ウクライナで1986年に起きたチェルノブイリ原発事故を契機に、脱原発の市民運動に参加し、90年に情報室のスタッフになった。情報室は75年、物理学者の高木仁三郎さん(故人)らが、市民の側から原子力に関する情報収集や調査・研究をしようと設立。伴さんは95年に事務局長、98年から共同代表に就いた。
 「高木さんが亡くなった2000年から11年3月11日の東京電力福島第1原発の事故まで、脱原発の市民運動や情報室にとっては厳しい時代だった。その時代に、しぶとくしなやかに運動をつないでこられた」
 NPO法人「環境エネルギー政策研究所」の飯田哲也所長は、そう功績を振り返り、伴さんがつないだバトンを受け継ぐ重要性を訴える。「高木さんの後を伴さんが埋めたように、これからみんなで何ができるのか。伴さんをイメージしながら次のステージをつくっていかなくてはいけない」

 ◆福島事故後の混乱に「灯台」の役割

 3.11直後、前例のない事故に日本中が混乱を極めた。東電と経産省原子力安全・保安院(現原子力規制委員会)の説明は難解。楽観的な見立てを語る専門家もいた。そんな中、情報室に取材が殺到した。飯田さんは「あの時、日本中のほとんどの人が何が起きているのか分からなかった。情報室と伴さんは『灯台』の役割を果たした」と評する。
 エネルギー政策を議論する総合資源エネルギー調査会(経産相の諮問機関)の委員も務めた伴さんは、脱原発・反原発の強い思いを持ちながら、原発を推進する政府・国とも粘り強く「対話」をした。

 ◆いろんな人をつなげる人だった

 原子力市民委員会の座長を務める龍谷大の大島堅一教授(環境経済学)は「脱原発を目指す地域の人や研究者など、いろんな人をつなげる人だった。一方で、意見が違う政府とも話ができる。そんな人はなかなかいない。大きな存在を失った」と残念がる。
 ただ、大島さんは「松久保さんら若い世代が育った。これも伴さんがいたからだろう。彼らの個性、やり方で伴さんの意思は引き継がれていくと信じている」と強調する。

 ◆「このままではいけないと思ったはず」

 一方の政府は3.11から10年以上がたち、原発推進に回帰する。岸田文雄首相は昨年2月、原発の60年超運転や次世代型原発への建て替えを柱とする基本方針を閣議決定した。
 原発事故でもたらされた教訓はどこに行ってしまったのか。伴さんは18年、「こちら特報部」の取材にこう答えている。
 「3.11の直後に感じた原発への不安は拭われていない。誰もが、このままではいけないと思ったはずだ。その危機感をあらためて共有することから、脱原発社会は始まる」
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