[2023_09_14_06]関東大震災100年 朝鮮人虐殺「後世に伝える」 八千代で慰霊祭(東京新聞2023年9月14日)
 
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関東大震災100年 朝鮮人虐殺「後世に伝える」 八千代で慰霊祭

 07時39分
 1923年9月の関東大震災直後、混乱の中で朝鮮人に関する偽情報が飛び交い、関東各地で起きた虐殺。千葉県内でも300人以上が犠牲になったとされる。その慰霊祭が八千代市で、追悼式が船橋市で営まれた。軍人だけでなく住民でつくる自警団らも手を染めた惨劇から100年。国は「事実関係が把握できる記録が見当たらない」との国会答弁を繰り返し、調査も行われていないためその全容はいまだ不明のままだ。参列者たちは「何が起きたかを、これからも後世に伝えていく」と誓っていた。 (保母哲)

 「こんなことが二度とあってはならない」。八千代市高津の観音寺で9日にあった慰霊祭。有志でつくる「千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会」代表の吉川清さん(90)は、同市内など各地で起きた虐殺の背景には、朝鮮人への差別意識もあったとしながら、「あらゆる差別をなくす必要がある」と語った。

 慰霊祭は同委員会と高津区特別委員会、観音寺が共催し、毎年9月に営んでいる。市内では大震災後、軍部から引き渡された朝鮮人を住民が殺害する事件が何件か起きた。うち6人の遺骨が25年前に見つかったため、3者共同で翌年、寺境内に「関東大震災朝鮮人犠牲者慰霊の碑」(台座を含め高さ約2・1メートル)を建立した。

 100人余が参列した慰霊祭では献花や読経、吉川さんの追悼文の朗読などが行われた。同委員会の活動などを著書「地域に学ぶ関東大震災」で紹介した田中正敬・専修大教授は、追悼の辞の中で「『虐殺の記録がない』と言っているのは政府だけ。多くの朝鮮人の命が奪われたという事実は、否定しようがない」と政府の姿勢を批判した。

 慰霊祭に先立ち寺の本堂では学習会が開かれ、同委員会のメンバー3人が八千代市や船橋市、習志野市で起きた虐殺の様子や原因を、スライドを交えながら説明。慰霊祭を開くのは「当時の出来事を想起する『記憶の場』であり、なぜ殺されたのかを考える場」と話した。

 同委員会によると、八千代市では保護名目で陸軍習志野収容所に入れられていた朝鮮人を、軍部が地元住民に渡し、殺害させていた。遺体は現場近くに埋められた。住民の日記などをもとに、1998年に殺害現場を掘り起こし、6人の遺体を発見。翌年に慰霊碑を建立し、遺骨も埋葬した。

 ◆船橋で追悼式 「怨恨は千秋不滅」と慰霊碑に

 船橋市の市営馬込霊園では3日、追悼式が営まれた。実行委員会が主催し、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)県西部支部常任委員会が主管した。霊園内の一画には「関東大震災犠牲同胞慰霊碑」(台座を含め高さ約4メートル)などが建立されている。

 追悼式では参列者200人余が黙とう、献花、焼香などを行った。一枚岩の慰霊碑の裏面には、虐殺の経緯とともに「犠牲同胞の怨恨(えんこん)は実に千秋不滅」などと刻まれている。

 追悼の辞などで西部支部の呉学成(オハクソン)委員長は、慰霊碑の文言を紹介しながら、「100年前に何があったかが全て書かれており、二度とこんなことを起こしてはいけない。碑文の精神を次の世代に引き継いでいきたい」と述べた。

 この慰霊碑の隣には、犠牲者を悼むため船橋町仏教連合会が大震災の翌24年に建て、「法界無縁塔」と刻まれた碑(同約1・6メートル)や納骨堂がある。一枚岩の慰霊碑は47年、在日本朝鮮人連盟県本部建立と記されている。
 二つの碑は当初、虐殺された人たちが焼かれた火葬場近くに建立されたが、火葬場の移転に伴い63年、現在地に移設された。西部支部によると、移設作業時、碑の下には遺骨がなく、探したものの見つからなかった。その後、遺骨は秘密裏に田んぼに埋められていたことが判明。遺骨は推定で100体分もあり、現在の慰霊碑区画内に埋葬した。

 また、納骨堂は大谷石で作られ、身寄りのない遺骨9体が骨つぼに納められている。70年代に建てられ、雨漏りなどの老朽化が進んだため、100年追悼事業として区画内の石畳、囲いなどとともにこのほど改修作業が行われた。

 大震災発生時、船橋市から鎌ケ谷市にかけては鉄道敷設工事が行われていた。多くの朝鮮人が働いていたことが、犠牲者増につながった。
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