[2023_08_31_11]【動画】関東大震災100年 被災直後の東京 写真で見る被害状況(NHK2023年8月31日)
 
参照元
【動画】関東大震災100年 被災直後の東京 写真で見る被害状況

 2023年8月31日 17時13分
 9月1日で関東大震災の発生から100年となります。
 NHKのアーカイブスには、関東大震災の発生直後に東京の都心部を撮影した写真や映像が数多く残っています。
 どの写真も巨大災害の大変貴重な記録です。
 今回、その写真が撮影されたのとほぼ同じ場所を訪ねました。
 私たちもよく知っているあの場所が100年前の被災直後はどうだったのか、動画で紹介します。

目次

【動画】皇居外苑 二重橋前 〜 被災者がバラックで避難生活
【動画】日本橋 三越 〜 建物火災も“ライオン像”は被害免れる

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【動画】 皇居外苑 二重橋前 〜 被災者がバラックで避難生活

 皇居外苑の二重橋前信号付近から皇居の方向を撮影しました。
 100年前と現在の写真を動画で比較しています。
 皇居は、明治21年から昭和23年まで宮城(きゅうじょう)と言われていました。
 発災時は多くの被災者が宮城外苑の二重橋前広場に避難し、そこにバラックと言われる仮設の建築物を建てて避難生活を送っていたことが見てとれます。
 写真の上部に木が生い茂っていることから、その奥に宮城があることがわかります。
 警視庁の「大正大震火災誌」によりますと、地震が発生した9月1日に、外苑に避難した人は約21万人いたということです。
 その後、月末には4162名にまで減り、翌大正13年1月初旬には1890人いた避難者が芝離宮内に移転したということです。

【動画】 日本橋 三越 〜 建物火災も“ライオン像”は被害免れる

 関東大震災発生直後の三越呉服店(現在の日本橋三越本店)とその周辺です。
 100年前と現在の写真を比較した動画です。
 内閣府の資料によると、三越呉服店は地震の影響により屋上の貯水タンクの配管が破損して漏水し、消防設備が無力となって延焼したということです。

ライオン像写真
 当時の写真からは、火災で焦げたような跡が建物に残っていることや、入り口にあるシンボルのライオン像は被害を免れたことが見て取れます。
 発災時の様子が記録された『大正大震大火之記念』には、当日の百貨店の様子などについて、月の初めの土曜日ということで商売に携わっている人の中には休みの人も多く、浅草方面や活動写真劇場などの歓楽街は朝からずっと大いににぎわっていて、三越をはじめとする百貨店も非常に多くの人で混み合っていた、と書かれています。

【動画】 日本橋 〜 路面電車が焼けて台車部分のみに
 関東大震災が発生した直後の日本橋と、現在の日本橋を比べた動画です。

 装飾柱には今も残存する麒麟(きりん)像がうつっています。左側の白い壁の建物は当時あった村井銀行です。
 粉じんなどを避けるためか、マスクをしている人がいます。
 画面右では路面電車の上が焼けてしまい、台車部分のみが残っている様子がわかります。
 内閣府の資料によると、地震発生翌日の9月2日の未明には日本橋のほとんどの地域が焼失したということです。

【動画】 隅田川 吾妻橋 〜 火災で路面抜けるなどの甚大な被害
 関東大震災直後の吾妻橋の写真と、現在の様子を比べた動画です。
 内閣府の資料によると、隅田川には当時、北から吾妻橋、厩橋、両国橋、新大橋、永代橋の5つの橋が架かっていて、このうち吾妻橋、厩橋、永代橋の3つの橋が火災で甚大な損傷を受けたということです。
 画面の左奥に見えるのは大日本麦酒の工場でビールを製造していました。
 路面が抜けるなどの被害を受けた橋を鉄道第二連隊が補修している様子が撮影されています。全国から復旧の応援が来ていました。

【動画】浅 草寺 〜 境内は支援拠点や避難所に “尋ね人”の紙も

 関東大震災の後、浅草寺本堂周辺で撮影された写真です。
 同じ位置から撮影した現在の様子と動画で比較しています。
 写真からは激しい揺れで灯籠が崩れている様子や尋ね人の紙も確認できます。
 当時、浅草寺は支援の拠点や避難所になっていて、炊き出しなどが行われていました。
 『浅草寺社会事業概要 大正13年10月現在』の記録によりますと、被災者約1万5000人の収容、食料その他の配給、尋ね人受付、はがきの代書、巡回回向(供養)、慰安会開催などその活動は多岐にわたりました。
 浅草寺に属する60余りの僧侶や婦人会、学生僧侶はこれらの臨時救済事業に全力を費やしていたということです。

【動画】 浅草 仲見世 〜 炊き出しや給付に向かう人々の列

 浅草寺の仲見世商店街の関東大震災直後の写真と、現在を比較した動画です。
 本堂のあるほうに向かって歩く人々の姿が見えます。
 当時、浅草寺は支援物資拠点や避難所の一つになっていて、炊き出しや給付が行われていました。
 浅草寺のホームページによりますと、仲見世は関東大震災から2年後の1925年(大正14年)に鉄筋コンクリート造り、朱塗りの商店街に生まれ変わったということです。

【動画】 上野公園 〜 西郷隆盛像が“伝言板” 約50万人が避難

 上野公園にある西郷隆盛の銅像とその周辺の様子です。
 100年前の写真と現在を動画で比べてみました。
 体や立っている台のあたりに多くの張り紙が貼ってあるのが確認できます。
 当時の東京市の『東京震災録 前輯』など複数の資料によりますと、銅像や柱や壁は行方不明者を尋ねたり避難者の無事を知らせたりするといった伝言板代わりとなっていました。
 上野公園は火事から免れ、内閣府の資料によると、都内で最も多いおよそ50万人が避難したということです。
 当時の内務省の「大正震災志」によりますと、広大な公園がわずかな隙間もない状態で、避難者は一時お互いの体を枕にして夜を明かしたということです。
 その後はそれぞれの故郷に帰ったり、被害が軽微な場所に移ったりし、9月下旬には大部分が退去して、わずかに残った避難者が現在の東京国立博物館の敷地内や池之端に建設された公営のバラックに収容されたということです。

【動画】上野駅 〜 多くの避難者がホームや線路にあふれる

 関東大震災直後の上野駅周辺の写真と、現在の様子を比較した動画です。
 避難した大勢の人たちが写っています。
 内閣府の資料によると、上野駅は地震当日、屋根が落ちるなどの被害にとどまったため、多くの避難者が駅周辺に押し寄せ、ホームや線路にまで人があふれたということです。
 しかし翌日の2日には上野駅周辺にも火災が広がり、避難者は西側の上野公園に逃げ込みました。
 鉄道省の「国有鉄道震災誌」によりますと、関東大震災で駅舎は焼け落ちましたが、復旧に向けて動き、9月23日には運輸営業を再開したということです。
 ※写真が撮影された場所の特定作業には都市史・災害史が専門の田中傑博士(工学)に協力をいただきました。
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