[2022_09_11_01]福島第一原発廃炉作業「汚染ガレキ」撤去との闘い(日テレNEWS2022年9月11日)
 
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福島第一原発廃炉作業「汚染ガレキ」撤去との闘い

 福島第一原発で進められている「廃炉作業」。溶け落ちた燃料(=デブリ)の取り出しが最大の難関ですが、今の状況に至るまでには一進一退の様々な攻防がありました。
 水素爆発の直後、大量に発生したのが高い放射線を放つ「汚染ガレキ」、立ち向かったのは建設会社の技術者たちでした。

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 11年前の2011年3月、相次ぐ爆発事故を起こした福島第一原発・通称1F。その様子を都内で見ていた鹿島建設の領木紀夫さん。
 鹿島建設 機械部・領木紀夫担当部長「見ました。大変なことになったなという印象だけだった」原子力への知識はほとんどなかったという領木さん。2か月後、復旧作業の業務を命じられ、1Fへ。
 領木紀夫さん「Jヴィレッジからバスで移動していく中でも非常に悲惨な状況が見られた。怖さは、分かんなかった。何が怖いのか理解していなかった」鹿島建設が担当したのが3号機。爆発で周囲に大量の汚染ガレキが散乱。燃料を保管するプールにもガレキがのしかかり、危険な状態でした。
 そして、放射線による被ばくとの闘い。初めて現場を目の当たりにした領木さんは頭を抱えます。
 領木紀夫さん「どこから手を付けるべきものなのか、何をしていいのか、何をしちゃいけないのか。本当にゼロからの構築だった」とにかく被ばくを抑える。そこで、採用したのが「重機の遠隔操作」。当時は実績がほとんどないやり方でした。
 領木紀夫さん「初めてです。その5か月間で品物を作り出して、開発して、設計して、持ち込むのはゼネコンだけではできなくて、いろんなメーカーさんにご協力いただいた。寝ずに協力してくれた」投入した重機は10台、しかし次々とトラブルが発生します。
 領木紀夫さん「一番難しかったのが(遠隔操作の)通信。通信を確立させる。途切れることなくつなぎっぱなしにするのが難しかった」1F構内は、様々な通信が飛び交い、常に混信状態。原因不明の遮断が相次ぎます。
 領木紀夫さん「通信遮断がなぜ起きたかというのが、原因追及が難しくて、何度も何度も通信が途絶えながら、それを再構築しながらという作業でした」さらに、遠隔操作となると、運転員にも様々な制限が…。
 領木紀夫さん「音とか振動とか傾きとかは体感できるが、重機のカメラだけでは自分がどういう方向を向いて、どういう姿勢で傾いているのか、あおっているのか分からない」領木さんは現場に16台の固定カメラを設置。さらに重機1台あたり3台のカメラも付けました。時間をかけながら少しずつ少しずつガレキを撤去していきました。

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 しかし、2012年9月、巨大な鉄骨をプールに落としてしまいます。
 領木紀夫さん「起きないようにはする。最大限の努力はしていた。その中でこういう事象も考えられなくはない」全ての作業が停止に。落としてしまったのは領木さんの同僚でした。しかし、3か月後、その同僚が「俺がとる」と自ら手を挙げてプールに沈んでいた鉄骨を見事、救いあげたのです。
 領木紀夫さん「『俺がしでかしたのは、俺がちゃんとやる』と。責任感もあったのかなと思います。私たち管理者と作業してもらう方がずっと一緒にペアを組んで仕事をしていたので、一体感は非常にあったと思います」

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 現場を支えたのが巨大なクローラークレーンです。重機を建屋の上部に持ち上げたり、撤去したガレキを降ろしたりと様々な場面で活躍しました。
 しかし、2013年9月、原子炉建屋のすぐそばで、クレーンの軸が折れるという、前代未聞の事態が発生します。
 領木紀夫さん「現場はもう大変です。大変でした。サイトに向かう途中のバスの中で『大変だ!』という携帯がなりまして、想定外の事象で、傾倒してしまった。幸い、周辺の建屋にぶつかることなく、大事故にはつながりませんでした」2013年10月、ようやく大型ガレキの撤去が完了したのです。その後、除染などの作業が進み、被ばくを極力抑える環境が整ったことで、使用済み燃料プールからの取り出し作業が一気に進みました。
 領木紀夫さん「やりがいがあったところはある。やりがいというのは私の使命というか、やらなきゃいけないと思い仕事に携わっていた」そして、領木さんたちは今、新たなミッションに挑んでいます。それは、今も最上階に大量の汚染ガレキが残る1号機。ここも3号機と同じように、きれいに片付ける業務にあたります。
 領木紀夫さん「誰かがやらなきゃいけないんだったら、僕がやろうかなって認識で仕事に携わってます」原発事故から11年あまり。廃炉の現場では今も困難に立ち向かい続ける人たちがいます。
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