[2022_04_10_02]【避難指示解除3年】福島・大熊/古里再生へ橋渡し 元東電社員の覚悟(福島民友2022年4月10日)
 
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【避難指示解除3年】福島・大熊/古里再生へ橋渡し 元東電社員の覚悟

 東京電力福島第1原発事故で大熊町に出された避難指示が大川原、中屋敷の両地区で解除されてから10日で3年となる。古里の復興を願う町民の姿を追った。
 「もしかしてキイ子さん? 久しぶりじゃない」。大熊町大川原地区に昨年10月開所した交流施設「リンクる大熊」の窓口を訪れた町民のうれしそうな声が響く。「そう私! 元気にしてた?」。返事をするのは町出身の施設スタッフ、渡部キイ子さん(62)。マスクを外して懐かしい素顔を見せ合うと、笑みがこぼれた。
 渡部さんは元東京電力社員。町沿岸部の熊川地区出身で高校を卒業後、地元に立地する福島第1原発で40年以上、事務の仕事を担当してきた。「首都圏に電力を安定供給する電力マンの一員として仕事に誇りを感じていた」。しかし、11年前、職場で事故が起きた。
 震災当時も原発構内にいた。普段はバスで通う国道6号沿いの道を徒歩で1時間以上かけて自宅に戻り、同居していた母と新潟県柏崎市の親族方に避難した。テレビからは建屋が爆発する映像が流れてくる。同僚の安否に気をもんでいると、職場から「人が足りない」と要請があった。母を残し、単身でいわき市の拠点に向かい、事故対応に当たった。
 震災から半年後、母と一緒に一時帰宅すると、海沿いにあった生家は津波で跡形もなかった。原発の状況は好転せず、母は「もう大熊には戻れない」とつぶやいた。渡部さんは原発事故の「被害者」でありながら「加害者」でもあった。「私はどんな感情を持つことが許されるのか」。声もなく、浜辺で泣いた。元気だった母は孤独な避難生活で精神的に追い詰められ、震災から1年足らずで病に倒れた。震災関連死と認定された。
 2019年の夏、渡部さんは東電を定年退職した。避難先のいわき市小名浜で、しがらみのない新しい生活を送る選択肢もあったが、「近くで廃炉を見守りたい。仲間や町民のそばで生きたいと思った」。大熊の自宅は除染土を一時保管する中間貯蔵施設となり、もう帰れない。20年の夏、大川原地区に住宅を借りた。
 渡部さんが開設時から勤めるリンクる大熊、隣接する商業施設と宿泊温浴施設の3施設は、公共施設の運営管理業を手掛けるサンアメニティ(東京都)が指定管理者を担う。スタッフの多くは大熊の復興に思いを寄せる県外出身者ら「町の新しい顔」が占める中、渡部さんは数少ない地元出身者だ。避難先から訪れた町民は「知ってる顔がいた」と安堵(あんど)の表情を浮かべる。
 3施設が昨年に全面開所したことで、古里の夜に、にぎやかな明かりがともった。飲食店で酒を酌み交わし、ジムで汗を流し、大浴場で一日の疲れを癒やす町民の姿がある。渡部さんは新しい町と町民をつなぐ橋渡し役として、3施設の総合案内を担う窓口に立つ。
 私は被害者であり加害者―。母を失い、古里を失い、誇りを失った。変えることのできない運命を静かに受け止め、古里に生きている。「体が動く限り、ここで働くつもり。私だって、大熊の復興を願う一人だから」(渡辺晃平)

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 大熊町 町内に立地する東京電力福島第1原発の事故で全町避難した。2019年4月10日に大川原、中屋敷両地区で避難指示が解除された。震災前、町内には約1万1500人が住んでいた。4月1日現在の居住者数は推計929人で、このうち約370人は帰還者や移住者、残る約560人は廃炉作業に取り組む東電社員。かつての町中心部だった下野上地区などを含む特定復興再生拠点区域は今年春ごろの避難指示解除を目指している。
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