[2021_09_17_01]「きれいな海を残したいだけなんだ」 処理水の放出方針、漁師の憤り(毎日新聞2021年9月17日)
 
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「きれいな海を残したいだけなんだ」 処理水の放出方針、漁師の憤り

 未明の大海原に浮かぶ小さな漁船の甲板で、福島県新地町の漁師、小野春雄さん(69)は引き上げた網に目をこらしていた。2011年3月の東日本大震災の津波で同じ漁師の弟常吉さん(当時56歳)を失い、東京電力福島第1原発事故で生きるよりどころを害された。今も本格操業できない中、政府が約2年後に原発構内にたまる処理水を海に放出しようとしていることに、小野さんは憤りを感じている。「福島の海って無限大の宝庫なんよ」。その思いを知りたくて、漁に同行した。
 秋雨の降る9月2日午前2時。小野さんは3人の乗組員と共に新地町の釣師浜(つるしはま)漁港から船を出した。最高時速25ノットで東に走らせること30分。沖合約5キロの漁場に着くと、前日に仕掛けていた刺し網を引き上げ、勢い良くはねる魚を手際よく網から外した。
 カレイ、ヒラメ、カナガシラ。日焼けした老齢の漁師は、揺れる船体で3時間ほど立ちっぱなしの作業を続けた。「こんな豊かな海は他にねえんだ。スズキ、サワラ、タチウオもすごい量だよ。一年中、季節によって何でも取れんだぞ」。その顔は誇りに満ちていた。
 福島の漁業者はこの10年、海に散乱したがれきの回収や魚類のサンプリング調査を続けた。試験操業は今年3月に終わったが、今も本格操業には至らず、漁は週に2、3回と限られている。
 漁は祖父の代から受け継いできた。震災の津波で、海辺にあった自宅は流された。妻と3人の息子は無事だったものの、弟の常吉さんと親類4人を失った。
 あの日、小野さんは地震の直後、津波に備え、言い伝え通りに沖に船を出して逃げた。常吉さんも続いたけれど、遅かった。「機械が止まって船が動かない」「だめだ。大波が来た」。無線から聞こえた声が最後だった。「人なつこくて、休日には大勢の漁師仲間を集めて楽しそうにしてたな」。津波から約5カ月後、常吉さんの遺体は見つかった。
 原発事故では、風評被害で魚の価格が安くなった。10年かけてようやく元に戻りつつある中、政府は今年4月、原発処理水を海洋放出する方針を発表した。8月には、東電が沖合約1キロの海底から処理水を流す計画を示し、政府は風評被害が生じた水産物を国費で買い取る方針を明らかにした。
 小野さんは憤りを募らせる。「なんぼ希釈したって同じだべ。慌てて放出しなくてもいいべ。魚の餌になるプランクトンは安全なのか。それならデータを示してほしいが、それもない。魚を買い取るだの、口先ばかりでないのか」
 小野さんの3人の息子は漁師を継いでくれた。息子たちが生まれた時、小野さんは毎回、海に入って身を清め、海の神様に感謝した。新地の港町に今も残る風習だ。処理水を海に流すことは、そんな海の民からすれば暴挙に等しいという感覚がある。
 港に戻る頃、東の空が白んできた。海を望む小野さんはつぶやいた。「人の仕事場を汚していいのか。人間はよお、働く場が一番だべ。おれは、きれいな海を残したいだけなんだ」。孫やその先の1000年先まで、この暮らしが永遠に続くように。海と共に生きてきた小野さんの願いだ。【柿沼秀行】
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