[2020_10_02_05]「原子力明るい未来のエネルギー」あの看板はどこへ? 標語の生みの親が考える福島第1原発事故「教訓の伝承」(47NEWS2020年10月2日)
 
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「原子力明るい未来のエネルギー」あの看板はどこへ? 標語の生みの親が考える福島第1原発事故「教訓の伝承」

 東京電力福島第1原発事故の記録を伝える福島県のアーカイブ拠点施設「東日本大震災・原子力災害伝承館」が、同原発がある双葉町にオープンした。原発事故の伝承館は、公立の施設としては初めてで、事故直後の混乱と復興の歩みを後世に継承するのが目的だ。双葉町の中心部にはかつて「原子力 明るい未来の エネルギー」との標語が書かれた看板が約四半世紀にわたって掲げられていた。あの看板は伝承館に展示されているのだろうか。小学生時代に標語を考案した男性の視点から「教訓の継承」はどうあるべきかを追った。(共同通信=渡辺学)

 ▽周りはほとんど更地

 伝承館は、震災で津波の被害を受けた双葉町中野地区にぽつんと建っている。周りは新設の工場がいくつかあるものの、ほとんど更地だ。地上3階建てで、総工費53億円は実質全て国が負担した。
 館内は六つのエリアに分かれ、震災や原発事故から復興に至る道のりを時系列でたどる構成だ。収集資料約24万点のうち167点を陳列する。
 来館者は最初に、7面の大型スクリーンを備えたシアターで約4分間の動画を視聴。俳優西田敏行さんのナレーションで、映像やアニメーションを交えて、原発事故の様子や復興の歩みを紹介する。展示物の中には、事故直後に対応拠点となった福島県大熊町の旧オフサイトセンターに残されたホワイトボードもある。
 オープン初日の9月20日、開館時間の午前9時に合わせて茨城県古河市の親子4人が伝承館を訪れた。自営業大沼勇治(おおぬま・ゆうじ)さん(44)、妻せりなさん(45)、小学3年の長男勇誠(ゆうせい)君(9)、小学1年の次男勇勝(ゆうしょう)君(7)の一家だ。

 ▽誇らしい気持ち

 「原子力 明るい未来の エネルギー」は、大沼さんが双葉町の小学6年だった1987年に考案した。当時、双葉町内では第1原発5、6号機が稼働し7、8号機増設の機運も高まっていた。 出稼ぎに町を訪れた原発作業員とサッカーや魚釣りで遊んだ大沼さんにとって、原発は明るい未来をもたらすものだった。
 ある日、学校で先生から「『原子力』を頭に付けて、三つ標語を考えてくるように」と宿題を出された。「原発によって、町がもっとにぎやかになるのかな」。大沼さんが考えた標語のうち一つが、応募数281点の中から優秀賞に選ばれた。
 「当時の町長からも表彰されて誇らしい気持ちだった。授業参観でも褒められたりしてね」。標語は看板となり、町中心部に飾られた。「あの看板近くのバス停から東電社員が出社して、かっこいい大人の象徴みたいだった」

 ▽ふるさとが消える

 だが2011年3月11日、原発事故で一変した。誰もいなくなった町に掲げられた看板は「原子力安全神話」への皮肉としてメディアから注目された。愛知県安城市に避難していた大沼さんは、かつての誇らしさとは裏腹に「早く壊してくれ」と切望するようになったという。
 「あの看板が新聞やテレビで報道されるたび、恥ずかしくなった。小学生の時に考えたとはいえ、原発がもたらしたのは明るい未来ではなく、破滅の未来という真逆の結果だったのだから」
 考えを変えたのは、15年に浮上した看板撤去の町方針だったという。老朽化が進み、住民の一時帰宅の際に強風で部品が落ちて人や車に当たる危険があるというのが理由だった。
 当時、除染作業で出た汚染土などを詰めた「フレコンバッグ」が、町に山積みとなる光景も繰り返し報じられ「このままでは地図と記憶からふるさとが消えてしまう」と危機感を募らせた。
 大沼さんは「看板は町の歴史が視覚的に分かる貴重な資料だ。『負の遺産』として後世に伝えてほしい」と訴えるようになった。賛同する約7千人分の署名を集め、15年3月、いわき市に移転した双葉町仮役場に出向き、看板の現場保存を求める要望書を直接町長と議長に手渡した。
 だが願いは届かず町は16年、撤去を完了し、看板は分解された。本体部分は双葉町の町役場の敷地に、ブルーシートに覆われて置かれている。文字盤は会津若松市の福島県立博物館に収蔵された。

 ▽「スペースが限られている」

 大沼さんが望みをつなぐのが、今回オープンした原子力災害伝承館での展示だった。「復興のPRだけでなく、原発との共存共栄を目指した町民の見果てぬ夢も語り継ぐべきだ」と大沼さん。
 果たして看板は伝承館に展示されたのだろうか。大沼さん一家が伝承館に駆け付けたのは、看板の実物が展示されたかどうかを自分の目で確認するためだった。
 伝承館の「事故前の暮らし」を伝えるコーナー。そこに、看板を写した縦2・7メートル、横3・7メートルのパネルが設置された。県は「スペースが限られている」という理由で、看板の展示を見送った。実物の展示を求めていた大沼さんの願いはかなわなかった。
 大沼さんは、パネルを見てしばらくただずみ「やっぱり実物を飾ってくれたほうがよかった」とつぶやいた。「写真ならどこでも見られる。実物があってこそ心に残る。原発がもたらす明るい未来を信じたのに、ふるさとを奪われた。そのありのままの事実を伝えてほしい」

 ▽2人の息子を連れて

 大沼さんには、勇誠君、勇勝君に双葉町が歩んだ歴史を伝え残したかったという気持ちもある。伝承館開館の前日、初めて双葉町を訪れる2人を連れ、町中を案内する大沼さんの姿があった。
 一家はJR常磐線双葉駅や、双葉町の自宅、そして大沼さんが卒業した双葉北小を訪れた。双葉北小はいわき市に移転したが、建物は残されていた。「11年3月11日、あの日がなければ、君たちもここで友達と過ごしていたかもしれない。それが大きく変わってしまった。そのことを君たちに伝えたくて、ここに来た」
 勇誠君、勇勝君兄弟は、原発事故でふるさとから逃げなければならなかったことを、父親から聞いて初めて知ったという。「学校では原発事故のことを教えてくれなかった」(勇誠君)
 いまだ人が住んでいない町に違和感を覚えつつ、うまく言葉に言い表せない兄弟。だが大沼さんは、決してせかすことなく、町、学校、自宅を見せて「どう感じるか」と繰り返し語りかけた。
 自宅への帰路、大沼さんは取材に、実物の看板を見られなかったことを、こう表現した。「奈良の東大寺に行ったけれど、大仏を見られなかった心境だ」
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