[2020_08_21_11]青森県からの満州国移民 実数2万2100人/林業1万3123人 下北が9割/青森中央学院大教授調査(東奥日報2020年8月21日)
 
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青森県からの満州国移民 実数2万2100人/林業1万3123人 下北が9割/青森中央学院大教授調査

 1932(昭和7)年に建国された満州国(現中国東北部)には、45年の終戦までに多くの日本人移民が入植した。日本政府が主導して全国から募った農業移民と満蒙開拓青少年義勇軍は、青森県では8365人、全国では約27万人に上るとされる。一方、満州移民史を研究する青森中央学院大学の藤巻啓森(けいしん)教授(58)は、県内からの林業移民が1万3123人いたことを確認。その他の移民を含めた実数は2万2100人と、全国トップクラスの“移民輩出県”だったと指摘している。
 藤巻教授によると、農業移民、青少年義勇軍は、拓務省と財団法人満州移住協会が募集したのに対し、林業移民は関東軍が主導した。
 林業移民は、33(昭和8)年から計16回にわたって派遣。岩手、秋田、長野、山梨などの出身者もいたが人数は多くなく、青森県出身者が中心だった。中でも下北地方からの移民が約9割を占めていた。佐井村、旧川内町、旧大畑町などでは、一定数がまとまって満州に渡る「分村」もあった。この理由を藤巻教授は「下北地方の林業従事者が、当時世界トップクラスの森林伐採・管理の技術を持っていたため」と説明する。
 満州には「大興安嶺」「小興安嶺」の両山脈をはじめとした原生林が広がっていた。当時日本は銃などの軍需品やパルプを生産するための木材をオーストラリアやカナダから輸入していたが、外貨が乏しくなっていたこともあり、日本が実質的に支配していた満州の森林資源を活用する狙いがあった。
 林業移民の存在は広く知られていなかったが、藤巻教授は、県内各地の満州移民の資料を調べる過程で確認。現存する関東軍の資料などから人数を把握した。
 林業移民や農業移民などを含め、満州国には少なくとも56の青森県移民団が入植していた。皇帝・愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)の侍衛長を務めた工藤忠(板柳出身)や、奉天農業大学副学長で、終戦後に県副知事となった松野伝(弘前出身)ら青森県出身の要人がいたことも、青森県からの移民が多かった背景にあると考察。それぞれの人脈から移民を募ったケースもあるとみている。
 藤巻教授は「本意ではなかった移民も多くいたと思う。もはや移民だった人に直接話を聞くことはできないという難しさはあるが悲しい歴史の事実を次世代に伝えていきたい」と語った。
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