[2019_11_04_04]菅直人氏 自身が首相の時に原発ゼロを実現できなかった理由(デイリースポーツ2019年11月4日)
 
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菅直人氏 自身が首相の時に原発ゼロを実現できなかった理由

 元首相の菅直人氏が3日に更新したブログで、「なぜ、菅政権の時に原発ゼロを実現できなかった」とのテーマで自身の考えを示した。主に、当時野党だった自民党による批判と民主党内で対立していた小沢一郎氏の揺さぶりのためだったとし、「政局の混乱のために実現できなかった」とている。
 菅氏は「最近、『今菅さんが原発ゼロの実現に努力しているのは知っているけれど、それなら何故2011年の菅政権の時に原発ゼロを実現しなかったのか』という問いを受けました」と周囲からの疑問に答えるためにブログに自身の考えを示した。
 菅氏は「私は福島原発事故が起こるまでは日本の原子力技術は高いレベルにあるので、スリーマイルやチェルノブイリのような人為ミスによる原発事故は日本では起こさないでやっていけると考えていました。しかし、2011年3月11日に発生した福島原発事故は、私のそれまでの考えを根底から覆し、それまでの私の考えが全く間違っていたことをいやというほど思い知らされました」と原発事故前と後で考えが大きく変わらざるを得なかったと記した。
 菅氏は「福島原発が発生して以降、私は総理として原発ゼロにかじを切り始めました」と事故を機に原発への方針を決めたとつづった。具体的には「まずエネルギー基本計画で2030年までに原発の発電比率50%を目標にしていたのを白紙に戻しました。また海外へ原発輸出を進めていたのをやめました。そしてそれまで、原発推進の経産省にあった原発の規制部門の根本的な改革に着手しました」と首相として取り組んだことを示した。
 続けて菅氏は同時期の自民党の動きについて、「その一方で、野党自民党の安倍元総理は2011年5月に、『菅総理が原発への海水注入を停止させて福島原発事故を拡大させた』というウソの情報をネット上で流し、私に対し責任を取って総理を辞任するように要求し始めました」と記した。「最終的には、福島原発事故から3か月もたたない6月2日に自民党は私に対する不信任案を提出しました」と振り返った。
 菅氏は当時の与党民主党について、「当時民主党は衆院で過半数を超えていましたが、私と民主党内で対立していた小沢議員が自民党の不信任案に同調しようとしました」と小沢氏の動きを察知したと記した。そのため、「こうした民主党内の小沢さんを中心とした造反の動きを抑えるため、私は直前の総理であった鳩山さんと話し合い、一定のめどがついたら私は総理を辞任すると約束して、党内の造反を最小限に抑え、不信任案を否決しました」と小沢氏の動きを封じるために「辞任」を決断したとつづった。
 菅氏は「そして、固定価格買い取り制度(FIT)の導入など、一定の改革が進んだ2011年9月2日に私は総理を辞任し、同じ民主党の野田佳彦さんが総理に選出されました」と記した。
 菅氏は「私はもちろん、総理を続けて原発ゼロを実現したいと考えていました」と辞任は本意ではなかったとし、「しかし、安倍元総理の虚偽情報」が報じられたことで自身への批判が強まり、さらには「党内で対立していた小沢一郎氏の揺さぶりのために、政権が維持できなくなり、やむをえず退任したのです。政局の混乱のために私が総理の間に原発ゼロが実現ができなかったのは今考えても返す返す残念です」と、つづった。

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