[2018_04_06_01]複雑極まる震度判定(島村英紀2018年4月6日)
 
参照元
複雑極まる震度判定

 阪神淡路大震災の翌年、1996年4月から震度計による機械観測で判定することになった。「計測震度」という。
 それまでは、気象庁の職員が震度を判定していた。
 大分前のことだが1964年、東京・大手町の気象庁が木造の古い建物から、すぐ脇に建った鉄筋の新しいビルに移った。8階建てのビルの2階が地震課だった。
 しかし事件が起きた。新しいビルでは木造のときよりずっと地震の揺れが小さかったのだ。以後9カ月の間に、木造のほうでは震度1が15回もあったのに、ビルではたった1回。震度3も木造で7回なのにビルでは1回だった。
 しかも階によって揺れかたが違った。茨城で地震が起きたときには、5階で会議をしていた地震課の人々は震度3の地震を感じて、びっくりして2階の地震課まで駆けおりてきた。気象庁の職員は職業がら、震度3でも、かなりびっくりする。
 ところが、2階の職員はキョトンとしていたのだった。2階の地震課での震度は0だった。
 気象庁が発表する東京の震度が小さすぎる、とマスコミも騒ぎだした。震度は誰にでもわかる数字のせいか、マスコミのいい餌食になる。マスコミは役所の失敗を記事にするのは大好きなのだ。
 こうして気象庁では、震度を測るための職員を、わざわざビルの最上階に張り付けることになった。大きく感じたほうを気象庁の震度にしよう、というわけだ。
 それでも、都内で地震を感じても気象庁では震度0のことが多く、マスコミの批判は止まなかった。
 このため気象庁は、さらにすぐ近くの北の丸公園にある気象庁の職員宿舎で誰かが地震を感じたら、3つのうちのいちばん大きな震度を発表する仕組みにした。そのうえ「正式の震度」と「一般人のための地震情報の震度」と使い分けまですることになった。
 「正式の震度」は、一般人の眼に触れないまま、気象庁の内部で、津波警報などのために使われる。「これで震度について苦言は聞かれなくなった」と当時の気象庁の技術レポートにある。お役人は、ようやく安心したに違いない。
 ところが、批判はその後も続いた。体感で決めるのは非科学的だとか、速報しないのは困るとか、気象庁の職員がいないところでは震度が決まらないのも困るという批判だ。
 じつは、人間が大きな地震だと感じたり、被害が大きくなるほど、素直に数字が大きくなる目盛りを科学的に決めることは、簡単ではない。
 このため、震度計を導入するときには、職員が感じた「震度」と機械観測が同じになるように、研究者や気象庁の職員が何度も検討を重ねることになった。
 結局、こうして決まったものは複雑なものになった。「地震計が記録した加速度の時間変化をスペクトル分析し、それに日本家屋向け周波数フィルターを掛け算したうえで、もう一度、周波数積分して平均の被害規模に合う数字にして、さらに規格化した」というものだ。
 震度を機械で決めるのも、いろいろ大変なのである。

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