[2017_04_09_03]<原発事故>オフサイトセンター無施錠で放置(河北新報2017年4月9日)
 
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<原発事故>オフサイトセンター無施錠で放置

 東京電力福島第1原発事故の対策拠点でありながら、事故発生直後に閉鎖された福島県大熊町のオフサイトセンターは、無人のまま施錠されずに2カ月半も放置されていた。証言したのは当時、県議だった小沢隆さん(76)=会津坂下町=。「状況を確かめて冷静に行動できなかった今回の原発事故を象徴する。歴史的な教訓にしなければいけない」と戒める。

◎施設機能せず 行政の責任感問う

 小沢さんは同僚議員らと2011年5月29日、自主調査で福島第1、第2原発のオフサイトセンターである県原子力災害対策センターを訪れた。第1原発の20キロ圏内には通行許可証を取得して入った。一時帰宅は始まっておらず、第1原発から約4キロ離れた大熊町中心部のオフサイトセンター周辺に人影はなかった。
 玄関は施錠されていたが、通用口は開いていた。机に書き込みのある書類が重なり、飲みかけのミネラルウオーターや非常食があった。黒板には10分刻みで風向や放射線量が記されていた。「慌ただしく退去したさまが生々しく残っていた」と振り返る。
 同じ敷地には、モニタリングの拠点となる県原子力センター、被ばく医療を行う県環境医学研究所が立つが、ともに中に入れる状態だった。緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)の機材や内部被ばくを検査するホールボディーカウンターが残されていた。
 「信じられなかった。無人のまま2カ月半、無施錠に気付いていない」
 オフサイトセンターには大きな揺れがあった3月11日夜から国や県などの職員が詰め、現地対策本部を設置した。しかし、放射線量の上昇に加え、停電や通信機能の障害もあり、同15日までに全員が退避した。
 「原発事故のために設置した施設が機能しなかったのはなぜか」。小沢さんは県議会でたびたびただしたが、納得できる答えは得られなかった。「現地の状況が分からない。報道もない。自分で確かめるしかない」と自主調査を断行した。
 調査後は県に施錠の確認を何度も求めた。県は退避時に施錠したとの回答を繰り返した。6月11日に再び現地を訪れ、全て施錠されたことを確認した。
 現地の対策本部がなくなり、原発20キロ圏内の状況を把握できなくなった。「新聞やテレビも同じ。原発周辺から記者が消え、情報が途絶えた。不安や混乱を招いた一因ではないか」と報道機関にも苦言を呈する。
 原発事故前、県は原子力災害に備え施設や機材、マニュアルを整えたが十分活用できなかった。
 小沢さんは「最も頼りになる施設が機能せず、退避後2カ月半も無施錠のまま放置した。巨大噴火やテロ、将来どんな国難に遭うか分からない。行政は責任感、使命感を磨いてほしい」と願う。

[オフサイトセンター]
 茨城県東海村で1999年にあった臨界事故を受け、原発や使用済み核燃料再処理工場、研究炉などの事故に備え設置された緊急事態応急対策拠点施設。情報を迅速に集め、関係者が連携して対応に当たる。福島県は原発事故後、新しいオフサイトセンターを建設。第1原発対応は約24キロ北の南相馬市、第2原発対応は約8.5キロ南の楢葉町にそれぞれ設置した。

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