[2015_06_30_01]遺跡からの警告 地震考古学 南海トラフ編 永長東海地震、康和南海地震2 最古の東海地震 津波、太田川さかのぼる(東奥日報2015年6月30日)
 「大地震、駿河国(静岡県)で社寺や民家、百姓四百余流失」。白河上皇が院政を始め、武士が台頭してきた平安時代後期の1096年12月11日、近畿の広い範囲が激しく揺れ、駿河国や伊勢国(三重県)を大津波が襲った。文献に登場する最古の東海地震だ。
 当時は災害や疫病、戦乱、政変を理由にしばしば元号が変更された。この時も地震後に「嘉保」から「永長」へと改元されたため、永長東海地震と呼ばれている。
 十代後半の若き堀河天皇を補佐し、白河上皇の政治関与に批判的だった関白藤原師通の日記「後二条師通記」によると、午前8時ごろに都で大地震が6回あった。「今日の地層はまことに長かった」「興福寺(奈良市)西金堂の本尊の脇侍が倒れ、薬師寺(同)の回廊が倒壊した」という。
 松岡裕美高知大准教授(地質学)は「揺れが長いのは、震源域が広くて地震の規模が大きいから。阪神大震災では十数秒だったが、南海トラフ地震なら1分以上揺れる。揺れが小さくても10秒以上続いたら、どこかで大地震が起きたと思って備えてほしい」と話す。
 駿河国から津波被害を報告する公文書が都に届いたのは、約1カ月後。師通は日記に「国家の大事なり」と書いた。
 鋭い政治批評で知られる右大臣藤原宗忠も、本震のすさまじさや相次ぐ余震に驚いたようだ。日記「中右記」に「(地震は)2時間に及び、家々は今にも倒れそうだ。古今にこのようなことはなかった」と記した。
 宗忠が急ぎ参内すると、堀河天皇は池の舟に避難していた。近江国(滋賀県)の勢多橋が岸の部分を残して壊れ、東大寺(奈良市)の鐘が落下。大津波で阿乃津(津市)の民家が多数壊れた。
 勢多橋は東国と都を結ぶ最短ルート上にあり、阿乃津は太平洋航路の重要な港。この時代は地方の荘園から届く物資や収入が都人の生活を支えており、交通網への影響は最大の関心事だった。
 また近衛家の文書によると、三重県桑名市にあった同家の荘園・益田荘で、耕作地だった揖斐川河口の島々が消滅した。砂州状の島が強い揺れで液状化したり、津波で削られたりしたようだ。
 最新の地質調査で、この津波の痕跡は静岡市や静岡県磐田市などで相次いで見っかっている。
 産業技術総合研究所地質調査総合センターの藤原治研究企画室長は、磐田市の元島遺跡など太田川流域を調査。永長東海地震とみられる11世紀の津波堆積物を追跡し、当時の状況を復元した。
 藤原室長は「津波は太田川をさかのぼり、途中から東側の低地へ向かってあふれ出していた。津波が運んだ海砂が今の海岸線から内陸(北)へ約3キロ、太田川から東へ約2キロの場所にも残っており、実際にはもっと広い範囲が浸水しただろう。海だけでなく、川から襲ってくる津波への警戒も必要だ」と話した。
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