[2011_08_16_01]3.11大震災 青森考 フクシマの教訓 第2部 東電元幹部らの悔恨1 米国の輸入技術過信 津波対策抜け落ちる(東奥日報2011年8月16日)
 「地元(福島)の人たちには非常に良くしてもらった。あの地域は住み良く、生活しやすい。そういうところに長年住んでいた人たちが一晩にして避難しなければならなくなり、今も分散して一時的な住まいを余儀なくされている。本当に申し訳ない。それをまずお伝えしたい」−。
 東京電力元常務で、1999年から2000年まで福島第1原発所長を務めた二見常夫氏(68)=東京工業大学特任教授=はこう言って頭を下げた。二見氏は東京電力勤務時代、むつ市への使用済み核燃料中間貯蔵施設の立地にも関わった。


 二見氏が東京電力に入社したのは1967年。同社が大学院修士課程修了生を本格的に採用し始めた年だ。配属先は東電の原子力開発研究所で、研究テーマは高速増殖炉の開発。軽水炉(通常の原発)は既に完成された技術で、もはや研究開発の対象とは見なされていなかったという。
 東京電力が初めて手掛けた原発、福島第1原発1号機は二見氏が入社した67年に着工。米国ゼネラル・エレクトリック(GE)社の輸入技術だった。
 「GEの軽水炉は『デモンストレーテド・リアクター』(実証済み原子炉)で改善の余地はばとんどないと思われていたし、われわれもそう信じていた」と二見氏は回想する。
 GE社との契約は、原発一式が完成品として引き渡される「フルターンキー」(一括発注)方式。発注者は、鍵を回しさえすれば発電できるという意味だ。設計図はGE社のコピー。機器配置は米国のコンサルタント会社エバスコが担当、工事も米国企業が仕切った。東芝、日立など国内メーカーの役割が増した2号機以降の設計もほぼ1号機を踏襲した。津波など日米の自然災害の違いを踏まえて設計を見直すことはなかった。
 「最初は口を挟む余地はあまりなかったと言っていい。基本設計は。GE社のデッドコピ−(そっくりな製品)の形で造られた。基本的な部分については日本は学ぶという立場だったから、そこまで(津波対策)考えが及ばなかった」と二見氏。
 ところが1970年代半ば以降、福島第1原発でステンレス鋼配管の応力腐食割れ、燃料損傷などのトラブルが頻発。GEの技術も決して完全ではないことを東京電力は思い知らされることになる。
 二見氏は当時、視察で訪れたフランス、ドイツとも最初の原発技術ば米国から導入しながらも、国情に合わせ次々と改良を重ねているのを知り、衝撃を受けたことを覚えている。


 「東京電力は当時の米国技術を過信し、日本の技術を信じなかった。1、2、6号機はGE社の設計に右に倣え″で『日本メーカーはネジ一本変えるな』『そのまま造れ』と東京電力から言われたものだ」と福島第l原発の設計建設に携わった東芝の元原子力技術者は証言する。
 この結果、同原発1〜6号機の非常用ディーゼル発電機計13台のうち8台が、原子炉建屋より海側に位置する夕ービン建屋地下1階に集中。津波で大半の発電機が冠水し、原子炉を冷却するための電源が失われるという事態を招いた。輸入技術への過信が津波対策の不備へとつながった。
 連載第2部は、青森ともゆかりのある東京電力元幹部3人の証言を中心に、福島第1原発が過酷事故を引き起こした要因を考える。
 (福田悟)
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