[1996_04_22_01]原発事故を問う_奥能登の土地攻防戦_国策破綻のつけ(p207-218)_七沢潔(岩波書店1996年4月22日)
 
参照元
原発事故を問う_奥能登の土地攻防戦_国策破綻のつけ(p207-218)_七沢潔

 
 奥能登の土地攻防戦

 1989年12月から90年5月までの半年間、私は能登半島の先端の町、殊洲市を取材した。ここは、新たな原発の立地が進められていた全国十三カ所のひとつだった。当時、能登半島の中間に位置する志賀町には、北陸電力の志賀原子力発電所が建設中(93年に運転開始)で、奥能登の珠洲市では、寺家地区に中部電力が百万キロワット級原子炉二基の建設を計画、高屋地区で関西電力が、計画をつくるための立地可能性調査を行おうとしていた。
 能登半島といえば、中部圏の電力需要の中心、名古屋からも、関西圏の中心、京阪地区からも百キロ以上離れた遠隔地のため、送電による電力の損失も大きく、初期の原発立地計画では、光のあたらない地域だった。静岡県の浜岡に原発を持つ中部電力も、福井県を原発立地のベースとしてきた関西電力も、次の新規立地の本命は南の紀伊半島と考え、地元との交渉を進めていた。しかし、20年来、立地工作してきた三重県南島町も和歌山県の日置川町も日高町も、地方選挙で反原発側の勝利が続くなど、計画は住民に受け入れられず、頓挫していた。
 そこで白羽の矢が立てられたのが、遠方ではあるが、原発を推進してきた自民党の支持者が多く、なおかつ農業、漁業以外にこれといった産業もないため、深刻な過疎化に悩んでいた能登半島だった。
 だがここでも、原発の新規立地は思わぬ苦戦を強いられることになった。89年五月、珠洲市高屋地区で立地可能性調査に入ろうとした関西電力の調査班が、住民の阻止行動により立往生し、調査は初日で中断されたのである。住民はその後、市役所で40日間のすわり込みを続け、調査を受け入れていた珠洲市の市長に連日激しい抗議を続けた。住民たちは同時に、寺家地区の立地計画の白紙撤回も要求した。おだやかな気風で知られる珠洲の町では前例のない事態だった。
 私はこの間、調査に反対する住民たちが発する言葉を聞いていて、そのなかに明らかに(チェルノブイリ)がもたらした影響を認めることができた。「日本ではチェルノブイリのような事故は絶対起こりませんから」と説明する関西電力の技術者の説明に対し、調査阻止行動の先頭に立つ住民は「あんたらはそう思ってるかもしれないが、わたしらは起こると思う。だけどもし事故が起こったら、あんたらだけでなく、わたしらも死ぬんだよ」と切り返している。「安全だから」を繰り返す電力会社と住民の主張は平行線を辿るのだが、住民たちが次々と発する声のなかには「事故が現実に起こりうること」そして、その場合の運命は発電所の職員も、地域の人々も「一蓮托生」であるという強い確信に満ちた不安が宿っていた。
 能登半島の西隣の福井県には、20年ほど前から原発がつくられ始めたが、その間、百キロ離れた奥能登の住民が声らしき声を上げることは少なかった。だが(チェルノブイリ)は、日本の行政がいかに過小評価して伝えようとも、あるいは、「日本では起こらない」と説明しても、くつがえすことのできない原発への不信感となって、住民のなかに広がっていたのである。
 高屋地区は、日本海に面し、港を中心に家々が寄り添うように集まる小さな村である。山が海に迫っているためわずかな田畑しかなく、あとは漁業で暮らすこの村の戸数は七十五戸、人口は250人。海が荒れ、田畑が雪に閉ざされる冬場には、村人の多くは大阪や名古屋、金沢方面に出稼ぎに出る。この村の人々は、昔から厳しい自然環境のなかで助け合って暮らしてきた。村人の多くはなんらかの形で親族関係にあり、結びつきは固かった。
 だが、村の集落部分で行われる立地可能性調査の結果、原発建設に不可欠な強固な岩盤の存在が確認され、計画が建てられ、実際に建設されることになれば、村の全戸が移転対象となる。移転先は岬ひとつ隔てて集落のとなりの田畑の広がる地区が予定されている。そこに新しい住民居住区と栽培漁業の施設や観光のための施設もつくることができるーこれが、電力会社が後ろ盾となり、県や市、そして高屋地区の一部の住民が加わってつくられた「町づくり推進会」の構想であった。つまり、原発立地に伴い国から入る巨額な交付金を使って進める新しい町づくりの構想が、原発の立地とセットにされて高屋の人々には説明されてきたのである。
 こうした原発立地の構想が進み、電力会社による立地可能調査が始められるようになると、それまで一つにまとまっていた村は次第にきしみはじめた。町づくりの構想に魅力を感じ、立地可能性調査を受け入れようという村人と、原発の安全性に不安を感じ、反対する人々とに分裂したのである。反対する村人たちの行動によって、立地可能性調査が中断されてからは、村では恒例の秋祭りも運動会も行われなくなった。反対派の村人から見れば、賛成派の人々は足しげく尋ねてくる電力会社の職員が配る金の力にだまされていると見えた。賛成派の村人からは、反対派の人々は、金沢や大阪から来る反原発運動の活動家に煽られているように見えた。両者は次第に互いの動きを観察し、探り合うようになった。
 集落の外れの村の出人口には反対派が見張小屋を建てた。外部から通じるたった一本の県道の往来がつぶさに見えるその小さな小屋では、四、五人の老人たちが毎日手弁当で交代で見張りを続けていた。その日、村に出入りした電力会社の乗用車のナンバーを双眼鏡で確認し、ノートに記録する。珠洲市の中心部にある事務所から、毎日、山を越えて村にやってくる電力会社の車の数は五、六台。その車種とナンバーを、反対派はすベてマークしていた。
 「電気というものは、こんな田舎のちっぽけな村や町では使う量は知れてますわね。ここに原発つくったって大阪のほうへみんな送ってしまうんでしょう。そんなに安全だというんならこんなに遠くに建てないで、大阪や東京に原発建てたらいいじゃないですか。でもそうしないのは、もし何かあった時に困るからでしょ。だから人の少ない田舎につくるわけでしょ。一生懸命金まいてだまそうと思っているんですよ。そう思うと情けないです」
 一人の老人が毅然とした口調で語った。村人の生活実感とはおよそかけ離れた国の原発建設計画のために、静かだった村の暮らしがかき回されている状況に対する怒りが感じられた。
 一方、賛成派のリーダー格の高屋区長は、いつも村の監視をしているという自宅の二階の窓の穴の開いたカーテンの前でこう語った。
 「国の長である内閣総理大臣も、県知事閣下も、みんな原発をつくろうといっているんですから、高屋の行政の長としては、賛成するのがあたりまえでしょう。住民はそれに従うのがあたりまえです。それに、このままじゃ村はどんどん過疎が進んで人がいなくなってしまう。魚も獲れなくなってきたし」
 立地可能性調査の中断後、反対する村人の声の強さを前に関西電力は、より柔軟な戦術で、調査受け入れのコンセンサスづくりをする方向に転じた。説明会や個別面談を通じて、高屋の内外の珠洲市民を対象に原発の安全性と調査への理解を5000人に訴え続けていたのである。そして高屋の住民に対しては「まだ調査段階だから、あくまでも借りるだけ」という点を強調しながら、発電所の立地と新しい町づくりに必要な土地の賃貸借契約に応じるよう説得していた。
 ところが、その契約書を入手してみると、借地の契約期間は十年。この契約期間中、地主は電力会社の許可なく土地を第三者に売ることを禁じられている。また第三者がこの土地に侵入した場合、電力会社は地主に代わって退去を請求できる。さらに契約の解除に関しては、「電力会社の側から請求できる」とのみ記され、地主の側からの解除については触れられていない。第三者の弁護士に見せると、権利関係が電力会社側に偏った契約内容だという。「調査段階である」と説明している手前、土地を買うわけにはいかないが、将来の立地を確保するために、とりあえず土地の所有権を固定させるーーそれが電力会社の狙いだった。
 電力会社は、「黒子」と自称する現地交渉班を組織し、村人の家を個別訪問して、この契約書に押印するよう説得を重ねていた。
 「われわれの仕事は土地を買うんでなく、人の心を買う仕事だと班員には常々教育しています。人の心を手にすれば、土地はあとからついてきますから」
 「黒子」部隊の班長は、私のインタビューのなかでこう語っている。
 借地料は五年分まとめて払われる。公共事業に関して国が定めた基準に従い、一年分は土地単価の五パーセントから六パーセントに設定されていた。だが、土地単価そのものは高屋地区の実勢価格に比べて高く設定されていた。たとえば山林の場合、実勢価格が坪201円のところを五倍の1056円とされていた。契約する村人には、100万円、200万円という一時金が手に入る仕組みである。こうして関西電力は、すでに90年1月の時点で、必要な土地の八割を確保したと明らかにしている。
 この動きに危機感を抱いた反対派は、村で一軒の寺の住職を中心に団結を強め、共有地づくりを始めた。五人、十人で土地を持ちあって土地登記上の共有名義者になり、その結束力で、電力会社の誘いを拒否することが一番だと考えたのである。
 反対派は、賛成と反対のあいだで態度を決めかねていた中間派の人々の家もまわって共有地づくりを進めた。そしてその一方で、夜間、人目を忍んで村を訪れる電力会社の動きを、車によるパトロールで警戒し、電力会社の車を見つけたら、村の外に出るまで追いかけ回した。村人との借地交渉の接触をできるだけ妨害するためだった。

 国策破綻のつけ

 電力会社と原発に反対する住民とのあいだで攻防が続いていた珠洲市高屋地区の土地の状況を知るために、私たちは法務局で二千通を越える土地の登記謄本を取り、コンピューターに入力した。そしてそのデータベースをもとに、土地の所有状況、借地状況の見取図を作成した。
 立地可能性調査が行われる高屋地区の広さは百万平方メートル。関西電力がすでに借地権を設定した土地に混じって、反対派がつくった共有地が虫喰い状に存在していることは、すぐに確認できた。それは、冷却水の取入れと排水が不可欠の原発にとってとりわけ重要な海岸部に多く、電力会社が仮にその土地を避けて調査をしても、その共有地を買収できないかぎり、原発を実際に建設することがほとんど困難になることが理解できた。事実、高屋ではそれから六年たった今も、立地可能性調査は行われていない。すでに15年近く、大阪から単身赴任して立地交渉を続ける電力会社職員も、内心「立地は絶望的」と考えているに違いない。これもまた(チェルノブイリ)のもたらしたひとつの結果であったといえる。
 しかし、この高屋の土地の所有状況の地図を見ていて、気になることがあった。原発の立地候補地百万平方メートルの四分の一以上の面積を石川県農業開発公社が所有する土地が占めていることだった。この土地は国営農地開発事業、いわゆるパイロット事業の用地である。
 山林や原野を切り拓き、広大な農地をつくり出し、そこに農家を入植させて農業の規模拡大と地域の振興を計る。それが1970年代に農林水産省を中心に国が進めた国営パイロット事業である。珠洲市でも73年から高屋の後背地の山林をはじめ、九百ヘクタールもの農地が造成されて、過疎から抜け出すための「夢のプロジェクト」が始まっていた。Uターン青年もふくめて二百戸が入植し、葉タバコや養蚕、畜産、そして果樹づくりなどに励んだ。成功の暁には、農家が公社から土地を買いとる予定になっていた。
 しかし、入植から15年たったその土地を訪ねると、開墾された農地は荒れ果て、養蚕や畜産のため建てられた施設には人影もなく、雑草のみが生い茂っていた。作付の条件が合わず、また市場から遠いため運送料が嵩み、販路も開けず、営農に失敗する農家が続出したのである。借金の山を築いて離農する農家も出始めていた。そのなかには高屋で原発の立地に賛成する農家も数軒ふくまれていた。聞けばトラククーを動かす石油代、肥料代などを借金してつぎ込んで栗やブドウを栽培してみたものの、冬の潮風が強い北向きの斜面では育たず、借金だけが残った。多額の借金を返すためには、土地をあきらめて原発に差し出すのが一番早道だという。

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