[2008_06_21_02]揺らぐ安全神話 柏崎刈羽原発 閉ざされた扉 原子力産業の実相 「会社は保身に走った」 トラブル続き口つぐむ 1970年代の主な原発事故(新潟日報2008年6月21日)
 
 原子力業界はなぜ、うちに閉じこもり、社会との間で溝を深めていったのか。
 それを考える上で、日本原子力産業協会参事の北村俊郎(63)には、忘れられない出来事がある。
 1980年代初め、日本原子力発電(原電)に勤めていたころのこと。「原発事故の説明で前面に立った原電敦賀発電所幹部が社内で孤立無援となった」という。
 81年4月に発覚した原電敦賀発電所の放射性物質漏えい事故が発端だった。漏れた量は周辺の環境や人体に影響を及ぼすものではなかった。しかし、同じ年の1月に起きた冷却水漏れ事故の隠ぺいがその後に表面化。これに続く事故となったことから、地元の不信と怒りが一気に高まった。
 そんな中で開かれた記者会見。技術系トップの発電所次長が、漏れた放射性物質の量について「影響はない」と説明を続けたが、世論の反発は収まらなかった。

KEY_WORD:KASHIWA_:日本原子力産業協会参事の北村俊郎:スリーマイル島原発:原子力船「むつ」の放射線漏れ:TSURUGA_:九州電力原子力最高顧問の松下清彦_: