[2008_05_03_01]揺らぐ安全神話 柏崎刈羽原発 断層からの異議 1号機訴訟30年 「私自身も結審したい」 現実との落差 募る苦悩 追加された争点(新潟日報2008年5月3日)
 「結局、原発は全部できた。もう一緒に反対してくれる人なんて増えっこない」
 中越沖地震の被災者たちが暮らす刈羽村井岡の仮設住宅。柏崎刈羽原発建設前から反対運動に参加してきた藤田勇美宅(78)は、腕を組んで、こうつぶやいた。
 家族には心配を掛けたくないため原告入りは控えたが、応援したい気持ちから裁判の傍聴にできるだけ通った。
 しかし、裁判が長期化し、先が見通せない一方、同原発の建設は進み、全七基が営業運転を開始。年を追うごとに存在感を増してきた。藤田も、法廷と現実との落差に悩んできた一人だ。
 住民側が、作業員2人が死亡した東海村のJCO臨界事故(1999年)、中越地震(2004年)など数多くの事例を基に行った問題提起。法廷に振出した準備書面は控訴審だけで40通を超す。
 だが、それは同時に論争の難解さと複雑さをも増幅させた。原発に関心がある藤岡でさえ「詰め込みすぎではないか」と戸惑うほどだった。
 柏崎市職労組合員として一、二審で原告に名を連ねた市福祉課長渡部智史(53)も言う。「裁判の議論があまりにも専門的で分からなくなった」
 市職労は原発建設の着工前は、組合員総出で実力阻止行動に参加していた。だが、建設が進むにつれ、渡部は「何のための闘いか。この間いは有意義なのか」と自問を繰り.返すようになったという。
 市職労時代に原告に加わり、その後、市幹部を務めた人は少なくない。財政的にも原発に大きく依存する柏崎市。渡部は今、「原発との共存を探ることが、市職員として取り組むべき大きな課題だ」と考える。
 提訴から今年で30年目。国内ではこの間、原発がエネルギー需給の中で確たる地位を築いてきた。その発電電力量は今や全体の三割以上を占め。基幹電力となっている。
 原子力施設をめぐる主な訴訟は18件に上ったが、うち十一件は判決が確定。いずれも国、電力会社が勝訴した。国を被告とする商業原発の裁判で、継続中なのは柏崎刈羽原発訴訟ただ一つ。経済産業省原子力安全・保安院訟務室長の畑野浩朗(45)は「今後も絶好に負けるはずはない」と自信をのぞかせる。
 藤田は裁判の審理終結を意味する結審という言葉を使って今の心境を語る。「反対の思いは貫く。だが、私も年を取った。裁判の結論が出るなら、それをもって私自身の原発への気持ちも『結審』としたい」
 その裁判。上告後にチェルノブイリ原発事故以上の衝撃が、控訴審も認めた国の安全審査の妥当性を揺さぶる。それが中越沖地震だつた。
    (文中敬称略)

追加された争点
 柏崎刈羽原発1号機訴訟で、住民側は原発にかかわる問題に限らず、海外で発生した地震やテロ事件も争点として加えてきた。1986年のチェルノブイリ原発事故では、その教訓を柏崎刈羽原発の安全審査に反映させるべきだと主張。2001年の9・11同時多発テロを受け、航空機墜落に対する防護設計をしていない審査には過誤があると訴えた。このほか阪神大震災(1995年)、東京電力のトラブル隠し(2002年)、スマトラ沖地震による大津波(04年)も取り上げた。
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