[2019_03_30_03]日本は地震対策を過信していた? 被害広げた「2大神話」の存在〈AERA〉(アエラ2019年3月30日)
 
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日本は地震対策を過信していた? 被害広げた「2大神話」の存在〈AERA〉

 25万棟の家屋をなぎ倒し、6434人が亡くなった阪神・淡路大震災。M9.0を記録し、1万8千人以上の命を奪った東日本大震災。超弩級の災害は日本の社会をどう変えたのか。ジャーナリスト・外岡秀俊氏がリポートする。

【写真】阪神・淡路大震災で倒壊した高速道路

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平成の30年を、私は「災害記者」として生きた。
 初の本格取材は、平成元年の1989年10月、米サンフランシスコ湾岸で起きたロマプリータ地震だ。駐米特派員として2日目に現地に入り、1週間にわたって高速道路倒壊、橋の一部崩落などを目の当たりにした。停電。電話不通。航空券や宿の予約システム崩壊。世界が直面した初の「都市型震災」の混乱に、息をのんだ。

●空から眼下に広がる眺めは、「黙示録」を思わせた

 日本から送られてきた紙面を見て目を疑った。日本の土木・建築の専門家の大半が、「わが国の耐震設計は、関東大震災クラスにも耐えられる。この程度の地震なら大丈夫だ」と断言するコメントを寄せていたからだ。
 詳しい被害調査を待たずに、そう断じる姿勢には、バブル経済の頂点にあって、米国のインフラ老朽化や技術水準を下に見る優越感が、にじんでいた。
 95年1月17日未明、「誇り」は打ち砕かれた。阪神・淡路大震災は、死者6434人、全半壊家屋25万棟というこの時点で戦後最悪の被害をもたらした。150万人都市神戸を直撃する内陸直下型地震だった。
 アエラ編集部にいた私は当日神戸に入り、翌日ヘリコプターで上空から被災地を見た。のちに「震災の帯」と呼ばれる震度7の地域は、巨大な拳が打ち下ろされたように破壊され、煙をあげていた。眼下に広がる眺めは、「黙示録」を思わせた。
 2011年3月で早期退職をする直前の11日、朝日新聞東京本社が震撼した。倒れかけのロッカーを支える仲間とテレビを見て、思わず、うめいた。日本の観測史上最大のM9.0を記録した東日本大震災は、津波で1万8千人以上の命を奪い、3700人もの震災関連死を招いた。
 1週間後、ジェット機で上空から被災地を見て、翌日から車で東北3県を回った。在社最後の日に本誌に長いルポを書いた。陸に取り残された無数の船。巨大な圧力に身をちぎられたビル。一面のガレキの山を前に震える人々。「これほどの無明を、見たことはなかった」。記事にそう書き、明治三陸地震津波の年に生まれ、昭和三陸津波の年に逝った宮沢賢治の「雨ニモマケズ」で締めくくるしかなかった。
 平成末の昨年9月6日、北海道で震度7の地震が起き、札幌の自宅にいた私も日本初の全域停電(ブラックアウト)を経験した。通信・交通・物流が全面停止する「ネットワーク被災」だ。

●予知神話と安全神話に戦後の繁栄は支えられた

「阪神・淡路」と「東日本」を長期取材して感じたのは、戦後の繁栄は二つの「神話」に支えられたということだ。「予知神話」と「安全神話」である。
 日本では1962年に地震学者が「地震予知─現状とその推進計画」を作り、65年から地震予知が国家事業としてスタートした。さらに東海地震が切迫しているという想定で78年には大規模地震対策特別措置法(大震法)が制定された。気象庁が監視し、専門家による「判定会」を経て首相が警戒宣言を出す仕組みだ。
 百年、千年単位の巨大地震に、膨大な防災コストはかけられない。だが、いざ起きてしまうと被害は甚大だ。超低頻度という大地震の特性から、人々は緒についたばかりの予知研究に過大な期待をかけ、「東海地震は予知できる」という前提で法律ができ、世論もそれを受け入れた。
「予知神話」は「東海以外に大地震は起きない」という誤信を生み、阪神・淡路まで、「神戸では大地震は起きない」と多くの人が信じていた。予知研究は観測網の強化とデータ集積で地震学に大きく貢献したが、「予知頼み」という社会の歪みは東日本まで続いた。
 第二の「安全神話」は、「世界一厳しい耐震基準を採る日本で、大きな土木・建築被害は起きない」という確信を指す。日本では1923年の関東大震災の後、当時の「東京の下町」を基準とする厳しい耐震設計法が採用された。戦後の81年にはさらに厳しい「新耐震設計法」も導入された。しかし、ここでも想定する揺れの最大加速度は、関東大震災における「東京区部」の揺れに近かった。
 関東大震災は日本の災害史で最悪の被害になったが、死者10万5千人の死因の87%は火災による。神奈川県中南部の地震動は、東京、横浜よりも大きかった。つまり、比較的揺れの小さい東京を基準にしたことになる。だがその基準が、「関東大震災級にも耐えられる」と一般化され、過信が独り歩きをする。これが「安全神話」だ。

●戦中戦後の災害の記憶に「死角」があった

 注意したいのは、この二つの神話が社会に定着する時期に、超高層ビルと原発の建設が続いたことだ。超高層は63年に解禁され、68年に第1号の霞が関ビルが竣工した。63年に茨城県東海村の動力試験炉で初の発電が行われ、66年東海、70年敦賀・美浜(福井県)、71年に福島第一が商用原発の営業運転を始めた。その後74年の電源三法の後押しで原発建設ラッシュが続いた。
 超高層ビルや原発には、一般よりもはるかに厳しい耐震設計が課せられている。だがここで問題にしたいのは、巨大構築物の建設ラッシュが、二つの「神話」で日本が防災に過大な自信を抱く時期と重なる点だ。それは64年の東京五輪から70年の大阪万博を経て昭和が終わるまで、「奇跡の復興」を遂げた日本がバブルの繁栄に至るまでだ。
 なぜそこまで過信が広がったのか。昭和の災害記憶に「死角」があったからだろう。
『日本災害史』(吉川弘文館)や『日本歴史災害事典』(同)を通読して思うのは、日本が古来、いかに頻繁に災害に襲われたのか、ということだ。
 詳しい記録が残る江戸期から大正まで、日本は繰り返し巨大災害に見舞われた。江戸では1703年の元禄関東地震から富士山噴火まで、さらに幕末にも1853年の小田原地震から江戸地震まで激動が続いた。明治には1891年の濃尾地震、96年に2万2千人の命を奪った明治三陸地震津波があった。大正では、史上最悪の被害となる関東大震災が起きた。
 ではそれ以降平成まで、大地震はなかったのか。そうではない。ただ、記憶されず、忘れさられたのである。
 戦争末期の1944年12月7日、紀伊半島沖でM7.9の地震が起き、愛知・三重・静岡に大きな被害が出た。東南海地震である。しかし、地震調査は極秘とされ、報道は厳しく統制された。前出の『事典』によると、翌8日に各紙は1面に日米開戦3周年の特集を組み、扱いは小さかった。被災地の中部日本新聞ですら、3面隅に「天災に怯まず復旧」の2段見出しで、「一億戦友愛を発揮した頼もしい風景」を報じただけだった。
 45年1月13日にはM6.8の三河地震が起きたが、これも被害の詳細は不明だ。『事典』によれば、翌日各紙は2面片隅にベタ記事の扱いだった。被害を軽微に見せ、人心の安定を優先する戦時下報道の典型だ。
 敗戦をはさんで翌46年12月21日には、和歌山県沖を震源とするM8.0の南海地震が起きた。この場合は詳細な記録も残されたが、新聞は紙幅が限られ、GHQの統制下に置かれていた。空襲で焦土と化した各地で、どれが地震・津波による被害か、特定するのも難しかった。
 つまり、戦時中と占領期に起きた昭和の災害は、十分に報じられず、関東大震災のような集合記憶にはならなかった。いわば災害記憶の「空白域」だ。
 阪神・淡路の前年に出版された『大地動乱の時代』(岩波新書)で、石橋克彦氏は、幕末に始まる関東の「大地動乱の時代」は七十余年続いたのち、関東大震災とその余震活動で幕を閉じ「大地平和の時代」に入った、と指摘した。戦後の首都圏は超過密都市になったが、いずれ「動乱の時代」を迎える、という警告だ。
 列島は百年、千年単位の地震に繰り返し襲われ、明治大正まで、それは民衆の災害記憶に刻まれてきた。だが戦時中は、「戦災」が自然災害よりも前面に押し出され、記憶から欠落した。その後の高度成長期も、たまたま「大地平和の時代」に重なったため、「昭和」は、敗戦を折り返しとする「戦争」と「平和」の時代として記憶された。
 つまり災害に限れば、「平成」とは、昭和期に潜在化した自然災害リスクが顕在化し、この国が差し迫った危機に立ち向かうようになった時期といえる。
 阪神・淡路、東日本という二つの大震災によって、「予知神話」は揺らいだ。17年8月に国の中央防災会議の作業部会は現時点での「予知」は困難と認め、約40年ぶりに予知を前提とした大震法を見直すことを決めた。
 政府の地震調査研究推進本部も海溝型地震について南海トラフ、相模トラフ、千島海溝、日本海溝沿いの地震発生確率を改訂した。ランクは目安に過ぎないが、「予知頼み」ではなく、最悪の事態に備え、「防災・減災」に舵を切った意味は大きい。
 情報収集や救援で遅れが目立った阪神・淡路の教訓を踏まえ、東日本で政府は地元要請を待たずに物資を送る「プッシュ型」救援をした。自衛隊の救助・救援活動も格段に速かった。
 東日本では関西広域連合が府県別に分担し、東北3県を支援する「ペアリング支援」を始めた。中央主導によらず自治体が連携支援を立ち上げる方法は、首都圏震災の場合に欠かせない。
 復旧・復興については阪神・淡路後の98年、議員立法で被災者生活再建支援法ができ、「個人補償はしない」という国の姿勢を転換させた。同じ年には、特定非営利活動促進法(NPO法)もできた。130万人が駆けつけ、「ボランティア元年」と呼ばれた阪神・淡路での救援がもたらした成果だ。とはいえ、巨大災害に向き合う対策は始まったばかりだ。地球温暖化に伴う台風、ゲリラ豪雨などの水害リスクも、今後は高まるばかりだろう。(ジャーナリスト・外岡秀俊)

※AERA 2019年4月1日号より抜粋

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