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(1) 岩波書店 1996/4/22 原発事故を問う_七沢潔
 だがここでも、原発の新規立地は思わぬ苦戦を強いられることになった。89年五月、珠洲市高屋地区で立地可能性調査に入ろうとした関西電力の調査班が、住民の阻止行動により立往生し、調査は初日で中断されたのである。住民はその後、市役所で40日間のすわり込みを続け、調査を受け入れていた珠洲市の市長に連日激しい抗議を続けた。
 村で一軒の寺の住職を中心に団結を強め、共有地づくりを始めた。五人、十人で土地を持ちあって土地登記上の共有名義者になり、その結束力で、電力会社の誘いを拒否することが一番だと考えたのである。
 立地可能性調査が行われる高屋地区の広さは百万平方メートル。関西電力がすでに借地権を設定した土地に混じって、反対派がつくった共有地が虫喰い状に存在していることは、すぐに確認できた。それは、冷却水の取入れと排水が不可欠の原発にとってとりわけ重要な海岸部に多く、電力会社が仮にその土地を避けて調査をしても、その共有地を買収できないかぎり、原発を実際に建設することがほとんど困難になることが理解できた。

(2) 緑風出版 1997/10/13 反原発運動マップ_石川県珠洲市_p122〜125
 日本海に突き出た能登半島の先端に位置する石川県珠洲市は、40年余り前に九町村が合併し、人口四万弱で発足した市である。しかし、市制施行後も着実に人口の流出が続き、40年間でついに人口2万3000人、高齢化率25%に至っている。「過疎脱却には原発しかない」という発想は20年余り前の1975年10月、珠洲市講会の全員協議会で「原子力発電所、原子力船基地等の調査に関する要望書」を国に提出することで表面化した。
 翌年1月には関西電力・中部電力・北陸電力の三社が相次いで珠洲原発構想を発表した。なかでも関西電力の芦原義重会長(当時)は「1000万キロワット級の大原発基地を作りたい」と発言した。さっそく関西・中部電力職員の常駐体制が始まる。

(3) 東奥 2003/12/5 珠洲原発(石川)を凍結 3電力 市長に報告 事実上断念、初の自主撤回
 関西電力、中部電力、北陸電力の三社長は5日午前、石川県珠洲(すず)市役所を訪れ、三社共同で進めてきた珠洲原発の建設計画を「凍結」すると貝蔵治市長に伝えた。電力需要の低迷に加え、計画を遂行すれば巨額な費用負担などから電力自由化への対応が困難になるため、事実上の断念を意味する申し入れとなった。
 電力会社側の経営判断に基づく自主的な計画撤回は初めて。
 推進派住民に配慮し計画を「凍結」すると伝えたが、三電力は2004年度の電力供給計画に珠洲を盛りこまないと正式に表明。計画は実質的に中止される。
 申し入れ後の記者会見で北陸電の新木富士雄社長は、計画断念の理由について電力需要の低迷、電力自由化の進展、用地取得が困難な地元の情勢−の三点を指摘した。

(4) 国民連合 2004/1/1 珠洲原発28年の闘い_前石川県議会議員_北野進
(5) 中国 2004/5/2 逆風 進まぬ立地 稼働延期や凍結も
 珠洲原発は、1975年に地元の珠洲市が誘致表明。国の要対策重要電源にも指定され、二基を建設する計画だった。
 ところが、計画発表から間もない79年に米スリーマイルアイランド原発事故、1986年には旧ソ連のチェルノブイリ原発事故が発生。地元の反対運動が高まる中で、1989年には関西電力が進めようとした立地可能性調査が阻止されるなど電力三社は身動きが取れず、28年たって地元に計画凍結を申し入れた。

(6) 中国 2004/5/9 原子力を問う 日本からの報告 原発の立地 半島の2計画 正反対の結果
 電力三社が計画凍結を珠洲市に申し入れた日の夕方、徳間さんに経済産業省から一本の電話がかかった。「今日から交付金は使わないでもらいたい」。国の要対策重要電源地点の指定が取り消されることが決まり、交付金の使用を差し止める通告だった。徳間さんは「われわれは国策に長年協力してきた。電力会社は冷たいが、国もさらに冷たい。これでは国策に協力する自治体などなくなる」と語気を荒げた。

(7) 日本科学者会議 2005/9/11 原子力の研究・開発50年にあたり、政策の全面的再検討と転換を求める
(8) 生・労働・運動ネット富山 2012/6/11 能登(・珠洲)原発をめぐる攻防の歴史
67・7   北陸電力(株)、能登原発候補地4地点を発表
  11  議会全員協議会で受け入れ決定。それに伴い、北陸電力(株)は志賀町字赤
     住と富来町福浦にまたがる建設計画(330 万u、50 万キロワット1号 75
     年に運転開始)を発表
  11  福浦反対同盟発足
76・1   中部・関西・北陸 3 社が,珠洲原発構想を発表
  2   能登エネルギー基地化反対地区労協議会を結成(エネ協)
79・3   米スリーマイル島原発事故発生
07・7   中越沖地震(M6.8)柏崎刈羽原発に大ダメージ

(9) 大原社会問題研究所 2013/11/1 「原発お断り」地点と反原発運動_平林祐子
 石川県珠洲市では,原発が市長,市議,さらに県議選の争点となり,激しいたたかいが繰り返された。珠洲市では原発をめぐる攻防が表面化したのはチェルノブイリ後の1988年と相対的に遅く,複数の電力会社が立地を計画していた特殊事情もあり,最終的には,電力会社側の「断念」というよりは,電力需要の低迷や電力自由化による厳しい経営環境などを理由とする,いわば自主的な撤退(2003年)という形をとった。
 しかしそうなるまでの約15年間,原発ができなかった背景には,市長も市議会も推進派という状況は変わらずとも,市民の少なからぬ割合が原発反対であることを度重なる制度政治の舞台で示してきた事実がある。原発問題浮上以前は考えられなかった接戦の市長選挙反対派市議候補の全員当選反原発の中心的人物の県議当選などの形で,1989年の40日間にわたる「市役所座り込み」などの直接行動と合わせて,住民の反対の意思が示され続けていたのである。

(10) ジェンダ 2015/7/4 立地反対運動と原発訴訟(富永智津子)
(11) 志賀原発を廃炉に!訴訟 原告団 2017/7/10 裁判資料(金沢)_原告意見陳述書(北野進)
(12) 論座 2020/2/14 関電「珠洲原発」用地先行取得の舞台裏と検察OBコネクション_村山治
 内藤: 電力が原子力(発電所)用に先行取得している用地は全国にたくさんある。関電の場合、輪島の北にたくさんある。この土地がどうなっているのかを調べたら天地がひっくり返る。
 2013年12月30日。初めて内藤宅を訪ねた朝日新聞記者に対し、内藤は、関電が原発用地として先行取得しながら、建設計画が中断し、塩漬けとなっている広大な土地について、こう語った。内藤は1980年代初めから半ばにかけて関西電力の原発立地の元締めである環境立地本部長兼副社長などを務め、それらの土地の扱いに忸怩たる思いを抱いていた。
 1970年代から反公害、反原発の運動が世界的に勃興。日本国内でも勢いを持ち、電力会社は原発立地に苦労するようになった。  そうした中、反原発世論を恐れる電力会社は立地の意図を隠し、ゼネコンなどを使って秘密裏に二束三文のへき地の土地を高値で買い取った。その「地上げ」には、仲介名目で政治ブローカーから暴力団、地域の顔役らが暗躍。地権者らによる脱税や国土利用計画法違反まがいの行為も横行した。

(13) 石川テレビ 2021/12/30 原発建設問題で揺れた石川・珠洲市
 小谷内さんは1991年の市議選で初当選し、当時の珠洲原発立地計画を巡り反対派として活動しました。2004年には珠洲市長選挙にも挑戦しましたが敗れています。

(14) 石川TV 2022/5/10 15日告示の石川・珠洲市長選…元市議・小谷内氏が出馬の意向
(15) ゲンダイ 2022/6/21 大きな地震相次ぐ石川能登で浮上していた「珠洲原発」…2003年12月に計画凍結
 同地域で多発する地震を見ていると、つくづく「あの施設」が建設されていなかったことが幸いだったろう。
 「あの施設」とは、北陸、中部、関西の電力3社が2014年から広域電源として共同運営する予定だった「珠洲原子力発電所」のことだ。
 珠洲原発は1975年ごろに計画が浮上。今回、震度5強を記録した珠洲市の高屋町、三崎町寺家の2か所に、135万kW級を2基設置する予定だった。だが、住民の反対運動などもあり、計画は2003年12月に凍結となった。
 もし、政府や電力会社が住民らの反対を押し切って珠洲原発を建設し、フル稼働させていた時に大地震が直撃していたら……そう考えるとゾッとしてしまう。

(16) Wikipedi 2022/6/22 珠洲原子力発電所
 1993年4月18日、当時原発立地を推進していた現職の林幹人(はやし みきんど)と建設反対派の樫田準一郎(かしだ じゅんいちろう)で珠洲市長選挙が行われたが、投票数に対し投票総数が16票多かったことから不正選挙の疑惑が浮上した。
 建設反対派は選挙無効を石川県選挙管理委員会に申し立てたが、委員会はこれを却下した。建設反対派は同年12月に名古屋高等裁判所金沢支部に選挙無効を提訴し、1995年12月11日に選挙無効の判決が出された。その後、石川県選挙管理委員会は最高裁判所に上告するが、1996年5月31日に上告を棄却する決定が行われ、選挙の無効が確定した。
 同年7月14日にやり直し選挙が行われたが、不正を行ったとされる林は立候補できず、珠洲市職員だった貝蔵治(かいぞう おさむ)を後継候補に指名した。この時も原発立地推進を唱える貝蔵が当選した。
 その後、推進派は継続したが、2006年、反対派である現市長(2016年現在)の泉谷満寿裕が立候補し初当選。住民の意思のもと原発設置の反対が確立された。

(17) 中日新聞 2022/9/7 樫田準一郎 珠洲原発に反対した教育者
(18) 珠洲たのしい授業の会 2022/10/27 活字になった珠洲原発 過疎にやってきた「国」策
(19) 珠洲たのしい授業の会 2022/10/28 珠洲原発反対運動の歴史(簡略版)
(20) 原子力資料情報室 2023/5/6 原子力市民年鑑(2023)原発おことわりマップ(P41)
(21) たんぽぽ 2023/5/12 珠洲原発襲う地震 建設されていなかったことが幸いし原発事故を回避した 山崎久隆
(22) 河北 2023/5/19 震度6強 石川・珠洲の住民「原発造らず正解だった」 建設計画に翻弄された過去
(23) Wikipedi 2023/6/2 志賀原子力発電所(Wikipedia)
(24) たんぽぽ 2023/6/2 珠洲市の震度6強の地震、本当によかったといえるのは志賀原発の「廃炉決定」の声を聞いた時なのだと思う 藤岡彰弘
(25) 東京 2024/1/5 志賀原発「異常なし」から考えた 運転中だったら?「珠洲原発」だったら?
 そもそも、石川県能登地方では、志賀原発の建設以前に、より北の珠洲市で関西電力、中部電力、北陸電による「珠洲原発」の建設計画があった。候補地の一つだった同市高屋町は、今回の震源となった地区と隣接する。志賀原発の廃炉を求める活動をしている金沢大の五十嵐正博名誉教授は「珠洲原発は住民による根強い反対運動で計画が中止となったが、もし高屋町に建設していたら、大変なことになっていたと思う」と想像する。
 志賀原発はできてからも、トラブルが続いた。
 1993年に稼働した1号機は99年に制御棒3本が脱落し、臨界事故を起こしたが、北陸電が事故を公表したのは2007年になってからで、「事故隠し」と批判された。
 日本原子力発電敦賀原発(福井県)の断層調査を行った経験がある、名古屋大減災連携研究センターの鈴木康弘教授は「これほど大きな地震を起こす断層が志賀原発の近くにあるという想定はなかった。この地域でどういう地震が起きるのか、抜本的に見直さなくてはいけない。前提条件が相当変わった」と指摘する。

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