【記事27256】神戸の防災計画(下)折衷案それぞれの悔恨(神戸新聞2012年1月16日)
 
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神戸の防災計画(下)折衷案それぞれの悔恨

 6か5か−。神戸市の防災計画地震対策編の想定震度をめぐり、こじれた議論を収拾させたのは、学者側の取りまとめ役で神戸大助教授だった室崎益輝(67)だ。
 室崎はこう呼び掛けた。「ここで白紙に戻すより、5と6の間を取りましょう。段階的に上げることを検討すればいい」
 「5の強」。それは、当時の気象庁の震度階級に「強弱」がない中、議論を“落とす”折衷案だった。それでも、いざ被害の想定となると曖昧さを残す。
 実は、防災担当主幹だった吉沢博は市長の特命を受ける数年前から、独自に地震対策の準備に動いていた。
 「震度5」の場合、市内で最大110件の火災が起き、水道管は沿岸部の100カ所以上で継ぎ手が破損するとの試算を専門家から得ていた。
 この試算を採用しようとしたところ、今度は身内から反発が出た。消防局警防課長だった西田和馬(76)が「対策費はきちんと出してくれるんだろうな」と吉沢をにらむ。1970年代から関東大震災級の地震を想定し「消防体制の強化」を訴えてきたが、消防職員やポンプ車の数は、国基準さえ満たしていなかった。頭ごなしに対応不能な案を持ち出され、強い不快感を示した。
 結局、被害想定は言葉を濁す方向でまとまる。火災の予測には「最悪の条件下」との注釈が加えられ、水道管破損の試算は伏せられた。

    ◆

 94年9月、東京・大手町のビル会議室。原子力発電で生じる放射性廃棄物の地下処分を探るため、地下構造を可視化する国のプロジェクトが進んでいた。
 再現モデルは近畿が選ばれる。理由は「全国で最も地質情報が充実している地域」。70年代、神戸に地震の危険性を指摘した断層研究は、研究者の注目を集めていた。
 座長を務めた京都大名誉教授の西村進(79)が回想する。地下のデータをコンピューターに入力し、将来の変動量を見ようとキーを押したときだ。
 「驚きの声が上がりましたよ。予想が覆ったんです。それまで断層のひずみ量は、滋賀県から京都府に延びる花折断層が一番だと思っていた」
 真っ赤になったのは、4カ月後、最大震度7を引き起こす阪神−淡路の断層の帯。
 神戸市の地震対策編策定から10年。いくつかの危険信号は発せられたが、想定の見直しは議論されなかった。

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 室崎は震災後、各地の講演でおわびを繰り返す。「想像力に欠けていた。机をたたいてでも震度6を主張すべきだった」。行政がすべて対策できたわけではない。「抜けていたのは、限界を伝え、市民と防災を考えていく減災の発想だった」
 吉沢は震災から2カ月半後に退職する。庶務課係長だった原口知之(68)が振り返る。「彼は南海地震などの対策をずっと主張してきたが、6は現実味に乏しく、結局、そこまでの予算措置は難しかった。気象台出身の彼だからこそ本当は危機感を持っていた」
 吉沢は総務局の同僚だった小川順一(60)に電話をかけていた。「一生懸命やったけど、役に立たなかったな…」。か細い声だった。しばらくして心の病を患った。(敬称略)


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