【記事28735】国会事故調「日本文化論」についての一考察(BLOGOS2012年7月13日)
 
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国会事故調「日本文化論」についての一考察

 海外メディアにとって、7月5日は久々に東京での動きに目を凝らすべき日付として刻まれていたはずだ。この日、国際的な評価尺度でチェルノブイリ原発事故と並ぶレベル7に位置づけられる東京電力福島第一原子力発電所の事故について、日本の国会に設けられた調査委員会が最終報告書を衆参両院議長に提出する。民間の調査委員会ではなく、事故の当事者である政府や東京電力の調査委員会でもなく、完全に独立した形で立法府に設置された第三者委員会による調査報告となれば、その重要性は言うまでもない。

 福島の事故は、スペースシャトルの爆発やコンコルドの墜落、ロシアの潜水艦の沈没やイタリアの豪華客船の転覆のような「単なる大惨事」ではない。世界ではいま30カ国で427基の原発が稼働中(点検等で停止中のものも含む)で、まだ原発をもたない11カ国などに建設中の原子炉が75基、計画中が94基ある。社会主義体制末期のソ連とは比べるべくもない、日本のような国で、なぜこれほどの事故が起きたのか。去年の3月以来、その答えを探し続けている各国の原発関係者や規制当局者に、国会事故調の報告書は手がかりを与えてくれるはずだ。

 7月5日、報告書は国会へ提出された後、すみやかに日本語のダイジェスト版、要約版、本編(本文)、参考資料、会議録がネットで公開された。翻訳作業の都合なのか、英語版は要約版(Executive Summary)のみが公開された。その数時間後、「報告書」のポイントを英米のメディアがネット配信の記事で伝えはじめたこと、英語のツイートでつぶやく記者がいることなどを、私は翻訳家の加藤祐子さんのツイートで知った。

 「報告書」と括弧をつけたのは、英米メディアの多くがポイントを抽出したのは日本語で公開された要約版ないし本編ではなく、英語の要約版のトップに黒川清委員長の署名入りで掲載された英文の序文(Message from the Chairman)であり、しかもそれは日本語版には掲載されていない内容だったからだ。

 いくつかの英米メディアは公表直後の記事で、黒川委員長が序文に書いた「Man-made disaster」「Made in Japan」といった表現を引いて「人災」や「日本製の災害」と見出しをつけ、事故の原因として「日本の文化」を挙げていることを紹介した。その後、英米メディアでは、国会事故調の「報告書」が日本の文化的な特性を事故の原因と名指ししていることを批判する論調が目立つようになる。具体的に批判の対象となったのは、黒川委員長の英文序文の次の部分だ。

What must be admitted -- very painfully -- is that this was a disaster “Made in Japan.” Its fundamental cause are to be found in the ingrained conventions of Japanese culture: oure reflexive obedience; our reluctunce to question authority; our devotion to ‘sticking with the program’; our groupism; and our insularity.Had other Japanese been in the shoes of those who bear responsibility for this accident, the result may well have been the same.

(誠に残念ではあるが、今回の事故は「日本製」の災害であると認めざるを得ない。その根本的な原因は、日本文化に深く根づいた数々の慣習に見出すことができる。すなわち、私たちの条件反射的な従順さ、私たちの権威に疑念を抱くことへのためらい、私たちの「あらかじめ設定された通りに行うこと」へのこだわり、私たちの集団主義、そして私たちの島国根性。今回の事故に責任を負う立場に別の日本人が就いたとしても、結果は同じだったかもしれない)

 ブルームバーグは7月8日の社説で「国会事故調の報告書が極めて物足りないのは、福島で起きた惨事を文化がもたらした災厄と結論づけていること」であり、責任を日本の集団主義に帰するのは「責任逃れ」であると批判。2006年に米ウエストバージニア州のセーゴ鉱山で起きた爆発事故で13人が死亡した例を挙げ、「セーゴ鉱山の事故では数百件の安全義務違反が警告されていながら処分がほとんど課されず、石炭業界と(規制部門である)内務省が人材を互いに送り込むことで一体化していた。安全規制が十分に強化されず、古くからの内部関係者が業界利益を守ろうとするのは日本だけではない」と指摘した。

 フィナンシャル・タイムズは「クライシス後の「メード・イン・ジャパン」レッテルにご用心」と題した東京支局長による記事で、しがらみのない黒川氏を国会が起用したことを評価しつつも、「福島の事故を文化的な文脈で説明しようとするのは危険がある。ある国の文化を定義すること自体、そもそも難しい」と疑問を呈した。「日本のすべての企業や規制当局が複雑な技術的システムを安全に運用する能力を本来的に欠いているわけではない。たとえば新幹線は1964年の開業以来、死者を出す衝突事故や脱線事故を一度も起こしていない」と指摘した。

 英紙ガーディアンは「文化のカーテンの陰に隠れる国会福島報告書」と題した記事で、新渡戸稲造の「武士道」がH・G・ウェルズやインドの思想家ラビーンドラナート・タゴールにも影響を与えたことや、戦後日本の高度成長を説明するのに「疑似文化論的な分析」がたびたび利用されたことなどを振り返りつつ、「メード・イン・ジャパンの論点を持ち込むことは特異性を重視しようとする人々を喜ばせ、すでにあるステレオタイプを補強することになる。そもそも報告書が挙げた従順さや権威を疑うことへのためらいは日本だけに特徴的なことではなく、すべての社会にあまねく存在する性質だ」と指摘。「死活的に重要な事故の報告書を文化で虚飾すれば、世界全体に困惑させるメッセージを送ることになる。とりわけそれが、テクノロジーの進化に先端的な役割を果たしてきた国から発せられるとすれば」と批判した。

英米メディアのそうした批判は的を射たものなのか。問題となるのは次の3つの点だ。

 1)国会事故調が行った調査において、東京電力や規制当局の行為や行動がそれら今回の事故の当事者に特有のものではなく、普遍的な「日本の文化」であると言えるだけの根拠が確認されたのか。
 2)国会事故調の調査において、そうした「日本の文化」が福島の事故の原因であると言えるだけの根拠が確認されたのか。
 3)国会事故調が委員長の名のもとに、福島の事故は「日本の文化」が原因であると、立法府に設けられた第三者委員会の最終報告書に記すことは適切なのか。

これら3つが「イエス」であれば、黒川委員長が英語版の序文に書いたことは調査報告の本質的なポイントを適切に説明しており、海外メディアの批判は的外れであると言うことができる。逆にこの3つが「ノー」であれば、黒川委員長は報告書の発信をミスリードしたとして、その責任を問われても仕方がない。

事故は「メード・イン・ジャパン」なのか

 前に記したように、英文序文で「メード・イン・ジャパン」等を論じた箇所とまったく同一の箇所は日本語の報告書には存在しない。日本の国民性や文化に直接的に触れているのは、黒川委員長の署名がある序文(「はじめに」)の次の箇所である。

 100年ほど前に、ある警告が福島が生んだ偉人、朝河貫一によってなされていた。朝河は、日露戦争に勝利した後の日本国家のありように警鐘を鳴らす書『日本の禍機』を著し、日露戦争以後に「変われなかった」日本が進んで行くであろう道を、正確に予測していた。
 「変われなかった」ことで起きてしまった今回の大事故に、日本は今後どう対応し、どう変わっていくのか。これを、世界は厳しく注視している。この経験を私たちは無駄にしてはならない。国民の生活を守れなかった政府をはじめ、原子力関係諸機関、社会構造や日本人の「思いこみ(マインドセット)」を抜本的に改革し、この国の信頼を立て直す機会は今しかない。この報告書が、日本のこれからの在り方について私たち自身を検証し、変わり始める第一歩となることを期待している。

 一読して、日露戦争と福島原発事故の関係性が十分に説明されているとは言いがたい。ただ、それを「飛躍」と呼ぶかどうかも、事故が日本の文化に起因することが報告書の中で客観的に立証されているかどうかによる。
 国会事故調の報告書の内容は、黒川委員長の主張を裏づけるものなのか。報告書本文を通読してみて印象的なのは、黒川委員長が英文序文に「日本の文化的特性」として挙げたことの多くが事故の背景の随所に感じられることだ。
 第4部の「政府の原子力災害対策の不備」では、2007年の新潟県中越沖地震を機に原子力安全・保安院が複合災害を想定した対策を進めようとしたが、実施負担の大きさから国の関係機関や一部の立地自治体が反発すると、議論や対立や規制の導入の検討もなく、そのまま放置されたことが指摘されている。そこに「条件反射的な従順さ」「権威に疑念を抱くことへのためらい」「あらかじめ設定された通りに行うことへのこだわり」「集団主義」が介在していると説明しても、不自然さはないだろう。
 第1部「事故は防げなかったのか?」では、国際的な深層防護の考え方や海外のシビアアクシデント対策との比較から、東電と日本の規制当局のリスクマネジメントの甘さが検証されている。諸外国では対策が規制要件化されているのに、日本では事業者の自主対策としたために実効性が欠いたことなどは、「島国根性」「条件反射的な従順さ」のなせるわざと形容してもいいだろう。
 第5部「事故当事者の組織的問題」における耐震バックチェックの遅れ(というより半ば作為的な無視)や、設計水位を超える津波による全電源喪失と炉心損傷に至る危険性の認識の薄さを検証した部分には、東電の「あらかじめ設定された通りに行うことへのこだわり」が明確に感じられる。
 アメリカの全電源喪失規制を横目で見ながら何もしなかったことについて、原子力安全委員会の班目春樹委員長の「わが国ではそこまでやらなくてもいいよという、言い訳といいますか、やらなくてもいいということの説明ばかりに時間をかけてしまって、いくら抵抗があってもやるんだという意思決定がなかなかできにくいシステムになっている」という国会事故調での証言にも、「島国根性」「条件反射的な従順さ」が滲んでいる。
 しかしこれらは、事故調査を通じて確認された東電や電事連、規制各当局の行動が、黒川委員長が「日本の文化」と呼ぶパターンに分類し得るというだけのことであり、そこに普遍性があることはまったく意味しない。
 むしろ報告書の細部では、「東電に染みついた特異な体質(エネルギー政策や原子力規制に強い影響力を行使しながらも、自らは矢面に立たず、役所に責任を転嫁する黒幕のような経営体質)が事故対応をゆがめた点を指摘できる」(第3部)といったように、東京電力や原子力安全・保安院など今回の当事者に固有の責任があることを明示した記述が目立つ。
 つまり国会事故調の報告書には、事故の根本原因は日本の文化的特性にあることを、東電や規制当局の行動に当てはめて演繹的に導きだした箇所もなければ、他の業界や事故事例を参照してこれは日本の普遍的な文化特性であると帰納的に立論した箇所もない。
 黒川委員長としては、それは言わずもがなのことなのでわざわざ書くまでのこともない、あるいは事故調査が主眼である報告書に詳細を記す必要はないという判断だったのかもしれない。実際、外国特派員協会での会見で「メード・イン・ジャパン」等の部分が日本語報告書にないことを問われた黒川氏は、「日本人には当たり前のことなので書く必要はないと思った」と答えている。

福知山線事故とスペースシャトル

 では政府事故調や民間事故調など、東電原発事故の他の調査報告書に「黒川委員長が書かなかった日本文化との関係性」を見つけることはできるのか。
 2011年11月に公表された政府事故調の中間報告は、国会事故調と比べて事故発生後の官邸や東電の対応の分析にウエイトが置かれている。津波襲来の前に原子炉容器や配管類が地震動によって破損した可能性については留保する一方、土木学会の津波評価、耐震設計審査指針をめぐる不作為などを理由として事前の津波・シビアアクシデント対策が「不適切だった」と指摘し、東電の災害対策、全電源喪失対策の問題点も挙げているが、日本の文化的特性や国民性と結びつけることはおろか、東電や規制当局の行動原理的なものについて触れることもしていない。(政府事故調の最終報告書は7月23日に公表予定)
 それに比べると、民間事故調(福島原発事故独立検証委員会)の報告書では、4部構成のうち第3部をまるまる「歴史的・構造的要因の分析」に割いているように、特定の組織行動原理や思考様式が事故の誘因になった可能性を検証している。「安全神話」や「原子力ムラ」といった通俗的な表現を用いつつ、原発の安全性を楽観視する空気が醸成され、規制ガバナンスが無効化された経緯を説明している。
 2000年に台湾の馬鞍山原発で全電源喪失が起きた後、保安院の説明者が日本ではそのような事象は起こり得ないと断定したことを紹介した個所は「島国根性」を忍ばせるし、「国民全体が『安全神話』を受け入れ」とか、文科省と経産省の「日本における『二元体制』」といった形容に社会全体、日本固有の問題と位置づけようとするスタンスもうかがえる。
 しかし、日本の「文化」「国民性」にまで踏み込んだ部分、踏み込もうとした部分は民間事故調の報告書のどこにもない。むしろ、1974年の原子力船むつの放射能漏れに端を発した反原発運動の盛り上がり、1978年の伊方原発裁判判決などによって、安全への疑念を払拭するために「絶対的な安全性を唱え、事故が起きることを想定することすら許さない環境が出来上がった」と指摘しており、黒川委員長が「集合主義」と評したのとは逆のベクトルが働いたという説明になっている。
 福島事故のいわゆる調査報告としては、他に東京電力が自ら行ったものがあるが、その内容は責任追及を逃れるための理論構築に見事なまでに徹しており、客観的かつ総合的に事故の誘因を分析しようという姿勢が見受けられないため、ここでは触れない。
 1999年に茨城県東海村で起きたJCO臨界事故に際して設けられた日本原子力学会JCO事故調査委員会は、報告書(『事実・要因・対応〜JCO臨界事故 その全貌の解明〜』)において、「直接従事した者のミスとそのような違反を生み出した組織的責任」を挙げる一方、技術分野が3K職場となって優秀な人材が集まらなくなり、「これまでの日本的管理である『職員は真面目で任せておけば良い仕事をしてくれる』といういわゆる性善説に基づく管理が、欧米流の性悪説に基づく品質管理と人事管理を導入せざるを得ないことになりつつある」と指摘している。
 人事管理に言及した部分が原子力関連だけのことを言っているのか、日本の産業界全体を指しているのかは不明だが、いずれにしても社会構造についてのみの話であり、事故を特定の行動原理なり思考様式に帰するような説明は報告書の他の部分にもない。
 もう少し対象を広げて、原発以外の事故、シビアアクシデントにおいて集団・組織の文化が原因とされた(あるいは、され得る)ケースはあるのだろうか。寄付を募って有志の専門家で事故の原因と問題点を探り、各事故調よりひと足早く『FUKUSHIMAレポート〜原発事故の本質〜』を発表したFUKUSHIMAプロジェクト委員会の山口栄一委員(同志社大学大学院教授)は、「東電が起こした事故の本質は、2005年4月25日にJR西日本が起こし、107人が死亡した福知山線転覆事故の本質と酷似している」と指摘している。
 山口氏は編著書の『JR福知山線事故の本質 〜企業の社会的責任を科学から捉える〜』で、生存乗客の証言から事故が脱線ではなく転覆(転倒)によるものであること、カーブの構造から転覆限界速度が直前の制限速度より小さくなってしまうことを論証し、JR西日本が「科学的思考をする能力を喪失していた」ことが原因ではないかと指摘している。
 山口氏は、損害賠償の支払いに不自然なまでに消極的な姿勢など、被害者対応におけるJR西日本の「非合理性」も指摘し、そこから一般論としてのCSR(企業の社会的責任)に関する考察も行っている。新幹線を生み出した鉄道技術研究所が担っていたものを江崎玲於奈の言う「夜のサイエンス」に例え、科学的思考能力の喪失は民営化を機に鉄道技術研究所を切り離したJR各社に共通するものとも述べている。しかし、そこからさらに広げて、日本人ないし日本企業というくくりで何かを論じた部分は編著書には一切ない。
 海外の事故調査報告書として注目されたものの一つに、2003年に起きたスペースシャトル・コロンビア号の爆発事故のものがある。NASA長官の命で設置された事故調査委員会は事務局をNASAが担当し、当初の委員の大半は軍と政府、NASAの関係者だった。
 「委員リストを見たとき、これではNASAに都合の悪い報告になるわけがないと感じ、大して期待をもたなかった」と、宇宙航空研究開発機構(JAXA)参与の澤岡明・大同大学学長は著書『衝撃のスペースシャトル事故調査報告 〜NASAは組織文化を変えられるか』(2004年)に書いている。ところが徹底した調査により、事故の技術的な原因は見事に解明された。澤岡氏がそれ以上に驚いたのは、報告書が「この事故の背景にはNASAの組織文化の問題がある。NASAの組織文化を変えない限り、このような事故は再び起こる」と断定していることだった。
 澤岡氏の著書によれば、報告の言うNASAの組織文化とは、月面着陸やアポロ13号の奇跡的な帰還という成功体験がもたらした「CAN DO(成せばなる)文化」。それが予算の制約や政治的な圧力を不可視化させ、チャレンジャー号の爆発事故があったにも関わらず安全対策の不備を軽視する体質を生み出した。「成せばなる」をアメリカ人のステレオタイプ的なイメージと重ね合わせる人もいるかもしれないが、そのように国民性と結びつける分析は確認できない。
 航空・軍事ジャーナリストの青木謙知氏の著書『事故調査報告書が語る航空事故の真実』は、機体構造、金属疲労、高度誤認、クルーコーディネーション、地上スタッフのミス、乱気流など原因別に1960年代以降の世界の重大事故18件を分析しているが、特定の国の文化や国民性がかすかでも介在したとするような指摘はどの事故についても一切なされていない。

集団主義という「錯覚」

 では逆に、いわゆる「日本論」「日本人論」の側から、国会事故調の報告書の内容にその共通性を見つけることはできるのか。方法論としては、東電や規制官庁を例としてそれを「日本文化」に敷衍させるのは、日本の軍人や捕虜といった限定集団だけを根拠に日本人論に一般化していると和辻哲郎が批判したベネディクトの『菊と刀』に似ている。
 実際、原発利権に関わる人々に通じる部分があるのではないか、などと考えながら『タテ社会の人間関係』(中根千枝)を読んでみれば、東電・電事連と規制当局の関係はまさに日本社会の映し鏡だと思えてくる。閉鎖的な「イエ(家)」「ムラ」は官僚組織と学者と事業者の集合体に重なるし、そこにおける空気は中根が言う「ウチ」「ソト」の意識そのものだ。ただし、中根が行ったのは集団行動の分析に過ぎず、そこで特徴づけられたものが特定組織による事故の素因となるという推論を可能にする余地はない。
 こうした比較はいくらでも続けられる。知っての通り、『武士道』『美しい日本の私』『「甘え」の構造』から『日本人とユダヤ人』『ジャパン・アズ・ナンバーワン』『人間を幸福にしない日本というシステム』まで、日本論や日本人論をテーマにした著作は日本の国内と国外の両方のニーズから、明治以来、数え切れないほど発表され続けてきた。黒川委員長が言う「日本文化に根づいた慣習」はそれらの多くからさまざまに抜き出すことができるだろう。
 問題は、そうした「日本文化に根づいた慣習」そのものが幻影かもしれないということだ。黒川報告書が事故原因を集団主義などと結びつけたことへの批判は英米メディアだけでなく、日本のネットでも目立ったが、言ってしまえば、そもそも集団主義が日本の特性であるかどうかも怪しい。 『「日本文化論」の変容 戦後日本の文化とアイデンティティー』(青木保)や『日本文化論のインチキ』(小谷野敦)によれば、オーストラリアの研究者ピーター・デールは『日本的独自性の神話』という著作で、いわゆる日本文化論を片っ端から批判している。ほとんどすべての日本人論は日本人を「人種的民族的に同質で西洋とは異質なもの」と十分な比較もなく決めつけた非科学的なものである、というのがデールの主張だという。
 日系カナダ人の研究者ハルミ・ベフ(別府春海)は、日本文化論はイデオロギーであり、大衆消費財であると批判した。ベフは著書の『イデオロギーとしての日本文化論』(1986年)で次のように語っている。

 「アメリカには文化論的なものがないんです。中国にもそれに相当するものがない。自分がだれかということはちゃんとわかっていますから、自分がだれかというようなアイデンティティーの問題は起こらない。アメリカ人も同じことで、アメリカは世界でいちばん強い国だと思ってそれで満足しているのです。日本の場合はそうではない。そうでないという自覚が文化論をつくっていきます。負けているから、いや、負けていないんだという議論が必要になってくる」

 ユダヤ人が歴史においてどのような差別を受けてきたかを考えれば、根拠の薄弱な異質文化論、民族の類型化を事故や災厄に結びつけることの危険性は誰でもすぐに気づくはずだ。
 東京大学大学院の高野陽太郎教授は『「集団主義」という錯覚〜日本人論の思い違いとその由来』(2008年)で、「日本人は集団主義的、アメリカ人は個人主義的」という通説の誤りを裏づけた実証的な国際比較研究の数々を紹介し、通説が広まった理由を探っている。「集団主義、個人主義のような文化的なレッテルは、ひとびとの意識のなかで、異なる文化のあいだに深い亀裂をつくりだす。その亀裂は、文化集団のあいだの対立感情をあおり、やがて大きな惨禍をもたらすことにもつながりかねない」と、高野教授は指摘している。

「私の意見として書いた」

 実際のところ、国会事故調の黒川清委員長はどう考えているのか。氏がアカデミックフェローを務める政策研究大学院大学(東京・六本木)で7月9日に行われた黒川委員長の講演会で、講演後の質疑応答で黒川氏に直接、聞いてみた。以下はそのテープ起こし。
 竹田 「立法府の裏づけがある報告書に委員長の名前で『メード・イン・ジャパン』という指摘が入ったことの意味は大変重いと思うのですが、2点ほど伺いたいのですが、具体的にこれが『メード・イン・ジャパン』でジャパニーズカルチャーに根差しているものである考える根拠は今回の報告書のどのチャプターの何ページを見ればわかるのか。もう1点は、事故の根本原因をジャパニーズ・カルチャーと言ってしまうことで、事故について当事者である組織や個人の責任が曖昧になってしまうのではないかという不安を感じるのだが、それについてはどう思うか」
黒川委員長 「委員会として(日本語版報告書の)「はじめに」というところに書いたのは日本の人にわかりやすくと思って書いたことで、一方の英語版のほうはグローバルオーディエンスに対してということ。報告にも書きましたが、新卒で大学を出て組織や役所に入ってずっとそこに居続けるのはなぜなのですか、ということ。つまり戦後の成長もさることながら、もっと昔から日本人にはそういうのが染み付いているのではないかと私は思っています。あるところにいると、ずっとそこに居続けないといけないと思うこと自体がおかしいと思いません?
そういう意味では、それを当たり前だと思っている多くの国民がちょっと変だなあと。だからいま大学の新卒の人が必死になって3年生、4年生のころからリクルートスーツ着て、あんなのおかしいと思いません? 何で新卒じゃないといけないんですか? それを当たり前だと思っていて、去年の3月11日までは明らかにそういうトレンドがあって、最近になって少し変わってきたかもしれませんが、そういうことを日本人が比較的常識と考えるところに問題があるという意味で言ってるわけで、もしどこかに入ると一生そこにいてですね、基本的に年功序列だというのは、世界ではそんなことやってんの?と思いますよみんな。だからさっき言った天下りもそうですが、そういう意識はどこにあるんだと思います? そういうマインドセット。
実は、スリーマイルアイランド原発事故のときと今度の報告書はすごく似ていて、まったく事情が同じだなと私は思っています。見れば見るほど、書いてることもなぞっているようになっちゃっているんですよ。だからこの機会に、どうやって直していくかということが大事でね。たとえばあそこ(スリーマイルランド報告書)にも書いてあるように、それからチャレンジャー号(の報告書)にも書いてありますが、エンジニアは、機械は必ず故障するということを知っています。だけどマネジャーは知らない。まあなんとかなるだろうなと考えるマインドセットはどこから来るのか。ということですよ。
それから、社内や組織で常に違った意見を言う人。若いときから。どうですかそういう人は、日本では。言わないほうがいいよねっていうカルチャーはどこから来るんですか。それは出る杭は何とかという話もあるし、余計なことは言わない、それから今度(の報告書)には書きませんでしたが、日本のことをよく知っている人の間では、テレフォンカンファレンスやりますかあなた、よその部署の人と。日本語で。非常にできないんですよ。あなたの場合、フリーランスだというからやれるのかもしれないけど、組織だと、社長とか相手の顔が見えないで会話をするのは非常に怖いと思いません?
だからそういうのがマインドセットに入っていると思いませんか、なぜテレフォンカンファレンスが増えないのか。なかなか難しいんですよ。だからそこになるとあまりにも文化論にはまってしまうから、そこまで言いませんけど、日本語(の報告書)にもそういうのはある程度入ってますよね。
日本語で「わかりましたわ」とあったらそれが女の子が言っているか男の子が言っているか日本人にはすぐわかるけれども、このあいだチャイニーズの女の子と話したら「そういうのわからないんですよ」と言っていたし、コリアの人もわからないんとおっしゃる。英語に「I」という言葉が入っていたときにそれを「私」にするか「ワシ」にするかというのはその人の教養というか、社会での常識になってるじゃないですか。日本ではそういう言葉があるというのは日本ではそういうのが凄く大事というのが日本人の文化としてあって…」
竹田 「いや、文化論というのは凄くわかりますが、私の質問は…」
黒川委員長 「いやだから、そこには入らないで、あれはあくまでも私の最初の2ページ(日本語の序文)とコミッショナーとしての(英文序文)を見ていただければそこにエッセンスがあって、けしからんと言うかもしれないけど、私の意見として書いているということです」
竹田 「2つ目の質問はどうでしょうか」
黒川委員長 「もう1つは、中に書いてありますが、バックチェックという言葉がありますが、あなたご存知ですか? カタカナになった時というのは凄く危ないんですよ。ああいう言葉を使っているのは日本だけです。バックチェックをするとですね、チェックをするということは耐震とかいろいろなことをチェックするわけでしょ。でそれが(不明)だったらフィットさせないといけないんですよ。フィットするまではオペレーションできない。そういうことあり得ると思います? バックチェックしたらいつの間にかオーケーって、そういうことあり得ないじゃない。だからバックフィットにしなくちゃいけないってことをここにも書いてあります。それはやっぱりお金の問題とかあるのかもしれないけど、そういうことは、そのあいだ不便でも止めていようということをしないといけないわけで、そうでなければ。
国策民営ということに関してたくさんの本が出ており、たくさんリポートがあり、海外からもいくつもそういうリポートを見て、見解が合うところも合わないところもありますけど、私たちの言ってることはおおむね世界にとってもサンプルにできるのではないかと思っています。そういう意味では今度のものをきっかけにたくさんの書物が出て、たくさんのバックエンド、六ヶ所村のことに関する本が出て、ジャーナリストが書いたり、学者も書いてますが、素晴らしい機会というか、みんながよく考えてくれるいい機会になったと思うんですよね。知ってて言えない雰囲気というようなものがあって、それはなぜなんだということで、文化論までは言わないでそれを言わなきゃいけないなと思ってるんですけれども」
 黒川委員長は講演の中で、「憲政史上初」「国の信頼を取り戻す」という言葉を何度も繰り返した。国会事故調の立ち上げに動いた自民党の塩崎恭久衆議院議員が『「国会原発事故調査委員会」〜立法府からの挑戦状』に書いているように、国政調査権に近い調査権も付与された民間人による調査委員会が国会に初めて設けられたことは画期的に違いない。
 国会事故調の会議録を見るかぎり、序文における「メード・イン・ジャパン」等の記述について、合計20回開かれた委員会で黒川委員長以外の委員も参加して意見調整が行われた形跡はない。技術的な事故原因の解析と究明に今回の報告書がどの程度貢献したかの評価は別にあるだろうし、「日本文化論」を持ち出したことがそうした評価をすべて打ち消してしまうものでもない。ただ、国会事故調の報告書を待ちわびていた諸外国の電力事業関係者、規制当局者は困惑しているかもしれない。
 世界において「国の信頼を取り戻す」ことに熱意を持ちすぎるあまり、科学と客観性にのみ立脚すべき委員長が非科学的な主観に基づいた「マインドセット(思いこみ)」の虜になってしまったら、それを調査検証してくれるのは誰なのだろうか。

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