戻る 火山入門(島村英紀)副読本的なもの[前半部のみ] 戻る

 
●初めに
 以下の文章および図は島村英紀さんの「火山入門」の副読本的なものとして、地震がよくわかる会で作成したものです。「火山入門」は当会の学習会実行時にテキストとして参考としました。その際に本の理解に役立つかと思い、本の中のキーワードに対して、リンクをつけ、図を引用したものです。よって、当文章は著書の了解を得たものではありませんので、あしからずご了承ください。あと、今現在(2019.2・6)は前半部のみです。後半部は後日作成します。

 
(1)第1章 こうして火山が日本を作ってきた 日本列島誕生は地球の歴史では新しい ( P.12 )
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●補足説明[大和堆]
大和堆(Wiki) 大和堆(やまとたい)とは、日本海中央部に位置する浅い部分(堆、海底山脈)である。最も浅い部分で水深236mであり、日本海有数の好漁場となっている。

概要

 大和堆の中央部は北東から南西方向に深さ2000mに及ぶ渓谷によって分割されており、日本に近い側を大和堆、反対側を北大和堆と呼ぶ。大和堆は日本の排他的経済水域(EEZ)に当てはまる[1]が、北大和堆はそうではない。大和海嶺の一部であり、北は日本海盆、南は大和海盆に接している。
 大和堆は、1924年に水産講習所(現在の東京海洋大学)の調査船「天鴎丸」によって発見された[2]。1926年、日本海軍水路部の測量艦「大和」が精密測量を行い、大和堆と命名した[2]。この発見まで、日本海は一様に深い海と考えられていた。
 ユーラシア大陸東縁に沿って直線的な形でくっついていた古日本列島が、新第三紀に入って大陸から分離される際、日本海の拡大のために発生した海嶺の跡である。現在は活動していない。
日本海の海底地形。中央部分にある浅い部分が大和堆。

●補足説明[ブランズフィールド海峡]
ブランズフィールド海峡の地図の説明

 
(2)「殻」の内側には「白身」と「黄身」がある ( P.14 )
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●補足説明[コアのような金属がどうやって電磁石になるのか]
なぜ地球は電磁石になるのか?

 
(3)プレートの動きが地震も火山も生み出してきた ( P.16 )
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●補足説明[プレートテクトニクス]
地震が起こるのはなぜ? ‐プレートテクトニクス‐

 
(4)世界の火山の大半はいまも海底にある ( P.18 )
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(5)「大きな事件」を解明するプリューム・テクトニクス ( P.22 )
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補足説明
プリームテクトニクスWiki プルームテクトニクス (plume tectonics) は、1990年代以降の地球物理学の新しい学説。マントル内の大規模な対流運動をプルーム (plume) と呼び、この変動を検討するため、プルームテクトニクスと命名された。
プレートテクトニクス理論が地球の表面に存在するプレート(厚さ約100km)の変動(テクトニクス)を扱うのに対し、この説では深さ2,900kmに達するマントル全体の動きを検討する。日本の深尾良夫(元東京大学地震研究所)や丸山茂徳(東京工業大学地球生命研究所)が提唱している。
マントルプルーム
プルームとは(羽毛のように舞い上がる)「煙」を意味する。マントルは半径約6,357kmの地球の中で、深さ数十km - 約2,900kmまでの範囲を占めているが、その中を下降するプルーム(コールドプルーム)と上昇するプルーム(ホットプルーム)が存在する。プルームの上昇・下降とも、通常時は深さ670kmの所でいったん停滞する。この部分は上部マントルと下部マントルの境目に当たり、マントルを構成する鉱物がこの位置の温度と圧力を境に相変化するため、この上下でマントルの密度や固さが大きく変化すると想定されている。プルームが深さ670km付近を超え大きく上昇、あるいは下降したものをスーパープルームという。

 
(6)陸上にある火山の7分の1は日本にある ( P.25 )
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補足説明

 
(7)日本列島と大きく重なる2つの火山前線 ( P.27 )
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補足説明

 
(8)日本の地形のはとんどは火山が作ってきた ( P.30 )
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補足説明

 
(9)どうして日本には梅雨があるのか ( P.32 )
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補足説明
ゴンドワナ大陸Wiki ゴンドワナ大陸 (ゴンドワナたいりく、Gondwana)は、プレートテクトニクスにおいて、過去に存在したと考えられている超大陸。名前の由来はインド中央北部の地域名で、サンスクリット語で「ゴンド族の森」を意味する。現在のアフリカ大陸、南アメリカ大陸、インド亜大陸、南極大陸、オーストラリア大陸や、アラビア半島、マダガスカル島を含んだ、巨大な大陸であった。
ゴンドワナ大陸は、今から約2億年ほど前から分裂を始め、中生代白亜紀末(6500万年前)にはアフリカから南米、南極、インド、オーストラリアの各プレートが離れたとされている[1]。
2億年前(三畳紀)の世界図 : ゴンドワナ大陸は南半球を中心に広がっていた。北方はローラシア大陸

 
(10)季節の移り変わりが楽しめなくなる可能性 ( P.35 )
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補足説明

 
(11)世界に誇る和食もじつは火山が育んだ ( P.38 )
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補足説明

 
(12)地球深部から鉱物を運んできたのはマグマ ( P.40 )
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補足説明
薩摩硫黄島と鬼界カルデラWiki
鬼界カルデラ(きかいカルデラ)は、薩摩半島から約50km南の大隅海峡にあるカルデラ[1]。薩南諸島北部にある薩摩硫黄島、竹島がカルデラ北縁に相当する。薩摩硫黄島はランクAの活火山に指定されている。


 
(13)鍾乳洞は南の海からやってきた ( P.43 )
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補足説明

ブラたもりより
武甲山は、玄武岩(火山岩)と石灰岩の二重構造だったです。石灰岩は、海のサンゴから生まれます。なぜ海のない埼玉県の秩父で、石灰岩がとれるのでしょうか?
武甲山の石灰岩は、約5億年前、秩父から5千キロ離れた南洋に起源があります。
海底火山の活動(地上に出た場合、ハワイの火山のイメージになります)
プレートに乗って移動。火山活動が休止し、サンゴ礁ができる。
サンゴ礁が死滅し、石灰岩に。
(かつての日本を含む)大陸に衝突し、割れる。

 
(14)火山の恵みで植物もすくすく育つ ( P.45 )
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補足説明
鹿沼土Wiki
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
鹿沼土(かぬまつち)は、農業や園芸に使われる栃木県鹿沼市産出の軽石の総称。形状は丸みを帯びている。土と呼ばれているが実際には軽石である。
概要
鹿沼土は通気性・保水性がともに高い[1]ことと、強い酸性土であるため、主にサツキなどのツツジ科の植物や東洋ランなどの栽培に用いられる。また、雑菌をほとんど含まないため、挿し芽などにも適している。
鹿沼土は水分を含むと黄色くなり、乾燥すると白くなるので土壌の乾燥が判断しやすく、園芸に優れている。

 
(15)日本の地熱資源埋蔵量は世界第3位 ( P.48 )
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補足説明
再エネ電力100%の国、アイスランドの地熱発電所体験
ガイドツアーのようす。これはこの発電所でできた熱水をレイキャビクまで運ぶパイプの説明をしているところ。優れた断熱性能で、27km先のレイキャビクまで送っても、2℃しか下がらないそうです。
三菱製のタービン。ほかに東芝製もあるそうで、日本の技術がアイスランドの地熱発電を支えています。


 
(16)第2章 日本を脅かしてきた噴火と火山災害 浅間山の火山灰が引き起こした天明の大飢饉 ( P.54 )
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補足説明
天明の大飢饉Wiki
東北地方は1770年代から悪天候や冷害により農作物の収穫が激減しており、すでに農村部を中心に疲弊していた状況にあった。こうした中、天明3年3月12日(1783年4月13日)には岩木山が、7月6日(8月3日)には浅間山が噴火し、各地に火山灰を降らせた。火山の噴火は、それによる直接的な被害にとどまらず、日射量低下による更なる冷害をももたらすこととなり、農作物には壊滅的な被害が生じた。このため、翌年から深刻な飢饉状態となった。天明2年(1782年)から3年にかけての冬には異様に暖かい日が続いた。道も田畑も乾き、時折強く吹く南風により地面はほこりが立つ有様だった。空は隅々まで青く晴れて、冬とは思えない暖気が続き、人々は不安げに空を見上げることが多くなった。約30年前の宝暦年間(1751年-1763年)の4年、5年、13年の凶作があったときの天気と酷似していた[1]。

被害は東北地方の農村を中心に、全国で数万人(推定約2万人)が餓死したと杉田玄白は『後見草』で伝えているが、死んだ人間の肉を食い、人肉に草木の葉を混ぜ犬肉と騙して売るほどの惨状で、ある藩の記録には「在町浦々、道路死人山のごとく、目も当てられない風情にて」と記されている[2]。しかし、諸藩は失政の咎(改易など)を恐れ、被害の深刻さを表沙汰にさせないようにしたため、実数はそれ以上とみられる。被害は特に陸奥でひどく、弘前藩の例を取れば死者が10数万人に達したとも伝えられており[3]、逃散した者も含めると藩の人口の半数近くを失う状況になった。飢餓とともに疫病も流行し、全国的には1780年から86年の間に92万人余りの人口減を招いたとされる[4]。

 
(17)世界の気候を変えてしまった火山災害 ( P.57 )
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補足説明
タンボラ火山Wiki
1815年の大噴火

1815年の大噴火は、過去2世紀に世界で記録されたもののうち最大規模である。VEI(火山爆発指数)=7。

1812年から火山活動が始まり、1815年4月10日から同年4月12日にかけての大爆発音は1,750キロメートル先まで聞こえ、500キロメートル離れたマドゥラ島では火山灰によって3日間も暗闇が続いた。高さ3,900メートルあった山頂は2,851メートルに減じ、面積約30平方キロメートル、深さ1,300メートルの火口が生じた。この大噴火による噴出物の総量は150立方キロメートルにおよび、半径約1,000キロメートルの範囲に火山灰が降り注いだ。地球規模の気象にも影響を与えた[1]。

この火山灰によって農作物は壊滅的な被害を受けた。また、この大噴火後数か月にわたって世界各地で異常な夕焼けが見られ、この1815年の夏は異常に低温であった。同年、アメリカ北東部では異常低温となり、雪や霜が6月までみられた。イギリスやスカンディナヴィアでは5月から10月まで長雨が続き、異常低温による不作や食糧不足の事態が社会不安を引き起こした。さらに、翌1816年は「夏のない年」(Year Without a Summer)と言われた。

クラカタウ火山wiki
1883年の大噴火
1883年の5月10日、微々たる揺れ(空気の振動や風の響きがかろうじて感じる程度)が始まった[9]。 5月15日、振動は前回よりも強く長く続き、広範囲で感じられた[10]。 5月20日、ラカタ島で水蒸気爆発を伴う噴火が始まり、同時に発生した地震は数年にわたって観測された。 8月11日、同島の3つの火山が噴火した。 そして8月26日日曜日の午後1時6分に地震の雷鳴が聞こえた。次の8月27日月曜日バタヴィア時間午前10時02分(現地時間9時58分)に大噴火が起こった。 噴火で発生した火砕流は海上40kmを越え、スマトラ島ランプン湾東部の Ketimbang(インドネシア語)で人間を殺傷した(The Burning Ashes of Ketimbang)。また、噴火により発生した津波が周辺の島を洗い流し、航海中の船を激しく揺さ振った。死者は36,417人に及び、2004年にスマトラ島沖地震が起こるまではインド洋における最大の津波災害であった。地質学史上、第5番目の爆発規模と考えられている[11]。


 
(18)渡島半島を襲った謎の大津波 ( P.61 )
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補足説明
渡島大島の大津波
渡島大島は、松前の沖合約60qに浮かぶ火山島です。周囲13.7q、木は生えていません。草が覆い、所々に溶岩の流れた跡などが見えるといいます。
1741年、江戸時代の寛保元年、渡島大島は大噴火を起こしました。
それに伴い大津波が発生し、松前から、檜山の各地を襲いました。津波は、青森、佐渡、福井、島根まで達したといわれます。
津波の高さは、松前市街地で40メートル。松前城のある高台の上まで達したといいます。これでは逃げようがありません。
松前町の上ノ国よりにある奥末川では、何と48メートルにも達したようです。
この津波を寛保津波と呼びます。

死者は、松前藩の公式記録では1467人とされていますが、これだけの大津波ですから、集落ごと全滅したところもたくさんあったようで、実際には3000人を超えただろうと推定されています。

噴火に伴って、大津波が起こったことはわかっていたのですが、直接の原因が、
・噴火による海底地震だったのか、
・噴火による山体崩壊だったのかで、
意見が分かれていました。

それに決着をつけたのは、1993−99年にかけて、「しんかい2000」による海底探査でした。
それによると、島の北東斜面に残る馬蹄形の崩落地形は、海面下まで長さ5キロ、水深1100メートル付近まで広がって、ものすごい規模で山を削り取っていたのです。
削り取られ、滑り落ちた山体は山頂から16キロメートル先の水深2000メートルまで続いていたのです。
崩壊量は、札幌ドーム1900杯分、1980年に巨大噴火したアメリカのセントヘレンズ山に匹敵する3立方キロメートルとされています。
これらのことから、寛保大津波は山体崩壊によって引き起こされたことがはっきりしました。
同じことがまた起こるかどうかははっきりしませんが、当面心配はいらないとされています。
しかし、渡島大島は噴火の周期が長く、予測の難しい火山でもあります。100%安心とは言えません。
渡島大島(気象庁の写真)

 
(19)雲仙岳の噴火がもたらした日本史上最大の被害 ( P.64 )
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補足説明
島原大変肥後迷惑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
島原大変肥後迷惑(しまばらたいへんひごめいわく)とは、1792年5月21日(寛政4年4月1日)に肥前国島原(現在の長崎県)で発生した雲仙岳の火山性地震およびその後の眉山の山体崩壊(島原大変)と、それに起因する津波が島原や対岸の肥後国(現在の熊本県)を襲ったこと(肥後迷惑)による災害である。
1791年(寛政3年)末ごろから、雲仙岳西側で有感地震が多発。震源が徐々に普賢岳に向かって行った。1792年2月10日(寛政4年1月18日)、普賢岳で噴火が始まり、溶岩流や火山ガスの噴出も見られるようになった[注釈 1]。溶岩は2か月掛けて2キロメートル、千本木と呼ばれた部落まで流れて止まった。穴迫谷(あなさこたに)と呼ばれる山中の谷を埋めたと言う。1792年4月1日(寛政4年3月1日)から1週間ほど地震が群発し、普賢岳から火が噴き、吹き上げられた石は雨のごとく地面に降り注ぎ、また前に聳える眉岳・天狗岳(708メートル)に落石し、地割れが各所で起こった[1]。 その後、地震は島原の近くに震源を移し、有感地震が続いた。4月21日からは、島原近辺での地震活動が活発になった。

群発地震が収まりかけたかに見えた5月21日の夜、2度の強い地震が起こり、眉山の南側部分が大きく崩れ、3億4000万立方メートルに上る大量の土砂が島原城下を通り有明海へと一気に流れ込んだ。これは日本三大崩れのうち大谷崩れ、稗田山崩れの崩壊土砂量を上回り、この時の死者は約5,000人と言われている。眉山崩壊の原因については、眉山の火山活動によって直接起こったものか、雲仙岳の火山性地震によって誘発されたものであるかは、現在でも定かではない。

山体崩壊で大量の土砂が有明海になだれ込んできた衝撃で10メートル以上の高さの津波が発生し、島原の対岸の肥後天草にも襲いかかった。大量の土砂は海岸線を870メートルも沖に進ませ、島原側が高さ6?9メートル、肥後側が高さ4?5メートルの津波であったと言う[2]。肥後の海岸で反射した返し波は島原を再び襲った。津波による死者は島原で約10,000人、対岸の熊本で5,000人を数えると言われている[1]。津波のエネルギーは崩壊した土砂の持っているポテンシャルの1/100から1/1000程度に過ぎないとされるが、ここからも陸上に堆積した土砂の量が甚だ多かったことが判る。

肥後側の津波の遡上高は熊本市の河内、塩屋、近津付近で15?20メートルに達し、三角町大田尾で最高の22.5メートルに達した[3]。島原側は布津大崎鼻で57メートルを超えたとの記録がある[4]。

島原大変肥後迷惑による死者・行方不明者は合計15,000人(うち約3分の1が肥後領側)におよび、有史以来日本最大の火山災害となった。島原地方には今も多くの絵図や古記録が残っている。都司嘉宣、日野貴之の研究によると合計15,000人としているが、熊本県側は5,158人としている[3]。


雲仙普賢岳(左)と眉山(右)。山体崩壊の様子が窺える。


 
(20)いまの八ヶ岳があるのは「山体崩壊」のおかげ ( P.65 )
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補足説明
リベンジ八ヶ岳E〜赤岳山頂〜
八ヶ岳にはいくつか伝説があって、そのひとつが「富士山と八ヶ岳の背比べ」
その内容は、
「むかし、富士山の女神と八ヶ岳の男神が高さを競って争った。喧嘩の仲裁に入った阿弥陀如来は、高さを確認するために両山の頂上に樋をかけ中央から水を流した。その結果、水は富士山の方へ流れ八ヶ岳の方が高いことが判明した。負けた富士山は悔しさの余り、八ヶ岳の頭を太い棒で叩いた。すると頭が割れて八つの峰(硫黄岳、横岳、阿弥陀岳、赤岳、権現岳、旭岳、西岳、編笠山)に分かれ、以前より低くなってしまった」
というものです。

実際はどうだったのでしょうか?

約25万年前、八ヶ岳は富士山と同じような成層火山となっており、約3,400mに達していたと考えられています。

当時の山体をイメージしてみました。
この富士山のような昔の八ヶ岳は、地質学的に「旧阿弥陀岳」と呼ばれています。

この頃の富士山はまだ完全な形ではなく、その標高は約2,400mで、旧阿弥陀岳の方が1000m高かったようです。

その後、旧阿弥陀岳が山体崩壊を伴う大噴火を起こし、約10万年前には赤岳2900mと阿弥陀岳2800mの標高となってしまいましたが、富士山の標高はまだ約2700mで八ヶ岳には勝っていなかったようです。

そして、約1万年前から富士火の火山活動が始まり、富士山は高度を上げ3,776mまで達し遂に日本一の高さになったとのこと。

伝説は正しかったのです。

 
(21)20世紀最大の火山災害と火砕流の恐怖 ( P.68 )
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補足説明
プレー山Wiki
プレー山(仏: Montagne Pele)は、西インド諸島のなかのウィンドワード諸島に属するマルティニーク島にある活火山。名称は『はげ山』の意味。1902年に大噴火を起こし、当時の県庁所在地だったサン・ピエールを全滅させた。その結果、約30,000人が死亡、20世紀の火山災害中最大であったことで知られる。モンプレー(Mont Pele)とも呼ばれる。

 
(22)どこにも逃げ場がない離島での火山噴火 ( P.72 )
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補足説明
伊豆大島噴火(1986)(気象庁)
 1986年7月、12年ぶりに火山性微動が観測され、10月27日から連続微動となりました。
 11月12日に竪穴状火孔壁から噴気が上がっているのが目撃されました。
 11月15日17時25分ごろ竪穴状火孔南壁(A火口)で噴火が始りました。
 赤熱溶岩・火山弾・スコリアを200〜500mの高さまで噴き上げる溶岩噴泉の活動が続き、噴煙は高さ3,000mに達しました。
 これらの活動に伴い、噴出物によって深さ約230m、直径約300mの火孔は次第に満たされていきました。
 そして、火孔からあふれた溶岩は、三原山火口を埋め尽くし、19日10時35分ごろ火口の北西縁を越え、溶岩流となってカルデラ床まで流れ下りました。
 11月21日14時頃からカルデラ北部で地震が群発するようになり、測候所で有感地震を観測しました。
 16時15分、三原山北部のカルデラ床で、北西〜南東方向の割れ目噴火が始りました。(B火口列)
 B火口列は大規模な溶岩噴泉活動を続け、北方と北東方向に溶岩が流出しました。
 噴煙柱は高度16,000mに達し、風によって流されたスコリア・火山灰が島の東部に降り積りました。
 同日17時46分にB火口列の延長線上カルデラ外の北西斜面で新たな割れ目噴火が始り(C火口列)、18時頃には溶岩が流れ下り始めました。
 溶岩流は谷沿いに元町に向かって流れ下り、町外れにある元町火葬場から70mの地点にまで達しました。
 大島町合同対策本部は21日夜、全島民に対して島外避難命令を出し、22日昼過ぎまでに、およそ1万1,000人の島民と、2,000人の観光客が無事に下田、稲取、伊東、熱海、東京に到着しました。島民はその後約1ヶ月にわたり島外での避難生活を強いられました。

 21日夜半から22日未明にかけてA火口、C火口列での噴火はおさまり、B火口列での噴火も23日までにはおさまりました。
 11月15日〜23日の噴出物量は約6〜8千万トンと推定されています。
 1年後の1987年11月16日、三原山山頂で爆発が起り、竪穴状火孔を満たしていた溶岩の破片が周辺に飛散り、火孔は約30m陥没しました。
 11月18日にも噴火し、陥没により直径350〜400m、深さ約150mの竪穴状火孔が再現しました。
 その後1988年1月25,27日、1990年10月4日にも小噴火がありました。


B火口列噴火(1986年11月21日)

 
(23)地震と噴火の場所が異なった三宅島 ( P.77 )
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補足説明
三宅島噴火(2000)(気象庁)
2000(平成12)年6月?噴火

6月26日18時30分頃から三宅島南西部を震源とする小さな火山性地震が観測され始め、次第に活発となりました。当初は南部?西部での噴火の可能性が高いとみられましたが、火山性地震の震源は26日21時半頃から島の西部に移動し、翌27日にはさらに西方の沖合へ移動、ヘリコプターによる観測で西方沖1km付近で海底噴火によるとみられる変色水が確認されました。一連の現象は、当初三宅島の南西部に貫入したマグマが西方海域へ移動したことによると推定されました。

その後、地震の震源はさらに西方沖へ移動し、新島、神津島近海で近年まれに見る規模の活発な群発地震活動(最大マグニチュード6.5、震度6弱)となりました。海底噴火後は三宅島の地震活動は低調になり、傾斜計やGPS等のマグマの動きを示す地殻変動のデータに変化傾向の鈍化が見られるようになりました。29日には火山噴火予知連絡会伊豆部会は「噴火の可能性はほとんどなくなった」とコメントし、これを受け三宅島は26日から発令していた避難勧告を全面解除し、気象庁や三宅村等の災害対策本部も廃止されました。

ところが、7月4日頃から再び三宅島の雄山山頂直下を震源とする地震が観測され始め、次第に活発化していきました。7月8日18時41分頃、山頂で小規模な噴火が発生しました。これにより雄山山頂付近に直径700?800mの円形の陥没地形が形成されたことを翌日のヘリ観測で確認しました。この陥没は次第に拡大し、8月中旬までに直径1.5km、深さ450mのカルデラが形成されました。このカルデラの大きさ及び位置は2500年前に形成された八丁平カルデラとほぼ同じです。

8月10日には噴煙の高さが8000mに達する規模の大きな噴火が発生しました。その後は断続的に噴火が観測されるようになり、18日の噴火では噴煙の高さが14000mにも達しました。この噴火の際には西側山麓で厚さ10cmの降灰があり、中腹では50cmの噴石、山麓でも5cm程度の火山礫が落下しました。

8月29日の噴火の際には低温で低速の火砕流が発生し、山頂から北東側に5km、南西側に3km流れ、北東側は海にまで達しました。また、雨による泥流も頻発しました。8月31日、火山噴火予知連絡会は「今後、高温の火砕流の可能性もある」とする見解を発表。これを受け、9月1日全島避難が決定、4000人余の島民は島外での避難生活を余儀なくされることになりました。

噴火は9月まで続き、その後は山頂火口からの大量の火山ガス放出活動に移行。二酸化硫黄の放出量は観測を開始した8月下旬は1日あたり2000トン前後でしたが、9月から10月には2?5万トン/日もの二酸化硫黄放出量が観測されました。その後火山活動は低下し、火山ガス放出量は減少。この間小規模な噴火が時々発生し、山ろくで降灰。2005(平成17)年2月1日、ようやく避難指示が解除されました。
2000(平成12)年8月18日噴火

 
(24)十勝岳では融雪型の火山泥流で大被害 ( P.80 )
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補足説明
1926年十勝岳泥流災害
 十勝岳1926年噴火と災害の概要十勝岳付近の火山活動は20万年ほど前に開始された。現在火山活動を繰り返している新期十勝岳の噴火は3,500年前から始まった。十勝岳は泥流ばかりでなく山麓の白金温泉まで火砕流を流出する噴火や溶岩流の流出を繰り返してきたことが、噴出物の地質調査により判っている。山頂付近に点在する火口群の中で、62−II火口からは絶えず白色噴煙が認められる。
 1887年の噴火後30年余りの静穏期を経て、1923年ごろから十勝岳では噴気活動が次第に激しくなり、当時の硫黄鉱山の採掘は活発になっていった。1926年5月24日に2回の噴火が起こった。2回目の噴火で中央火口丘の大部分が崩壊して直径450m×300mの火口を作り、高温の岩がん屑せつなだれが発生、急速に残雪を溶かして泥流となった。泥流は美び瑛えい川と富ふ良ら野の川を流下して25分あまりで山麓の富良野原野の開拓地に到達した。死者・行方不明者は144名、損壊建物は372棟に達した。家畜68頭が失われ、山林や耕地にも大きな災害をもたらした。噴火の後期には少量の火山弾などを放出した。1926年噴火そのものの規模はさほど大きくないが、寒冷地で積雪期に起こる融雪型泥流災害の典型的な事例であり、海外で出版された専門書にも紹介されている。1990年代には泥流を体験した生存者19名の聞き取り調査が行われ、泥流の流下速度や温度、破壊力、流下・堆積状況が取りまとめられている。

 
(25)船を襲った海底火山の噴火 ( P.83 )
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補足説明
明神礁Wiki
海底火山体の本体は明神海山と呼ばれ、海底からの比高が約1600m、直径約7×10kmの海底カルデラをもつ。明神礁はこのカルデラの外輪山北東部に形成された後カルデラ火山となっている。ベヨネース列岩は西側カルデラ縁上にあるが、カルデラの形成よりも先に形成された先カルデラ火山である。また、カルデラ中央部には高根礁とよばれる中央火口丘があり、山頂は水深330mにある。

1952年(昭和27年)9月17日午前の噴火を最初に報告した静岡県焼津市の焼津港所属の漁船「第十一明神丸」にちなんで命名された。雲仙普賢岳などと同じデイサイト質の溶岩を噴出する火山で、激しい爆発を起こす性質がある。激しい火山活動をたびたび引き起こし何度か標高200〜300mまで達する新島を形成したが、自らの爆発で消滅したり波浪に浸食されたりして現在に至るまで安定した新島を形成できていない。しかし公海上[2]で新たに形成された島は第一発見国がその領有を宣言できるため、当時アメリカ、旧ソ連、中国、韓国、フィリピンなどの艦船が頻繁に出没していた。

同年9月24日、噴火を観測中の海上保安庁の測量船「第五海洋丸」が突然消息を絶った。捜索の結果、噴火に巻き込まれたことを示す遺留品や船体の断片が見つかり、田山利三郎測量課長を始めとする31名が遭難、全員殉職したものと認定された(付近の「高根礁」の爆発に巻き込まれた、との説もある。生存者や目撃者が存在しないため、真相は不明)。
明神礁噴火連続写真(海上保安庁)
1952/9/23 13:13
連続写真 小坂丈予氏 撮影
ウォータードームの盛上がりの後、噴火を開始しその後コックステール状の噴煙となる.

 
(26)火山から離れたところでの意外な災害 ( P.86 )
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エルチチョン火山Wiki
エルチチョン(El Chichon)は、メキシコ南部チアパス州北西部に位置する活火山である。別名エルチチョナル(El Chichonal)。名前の由来は「瘤」。

1982年の噴火

1982年3月29日に噴火活動を開始し、4月4日までに大規模な噴火が続いた。火口から約8キロの範囲に火砕流が流下し、周辺の村や町を直撃して2000人以上の犠牲者を出した。一方、噴煙は高さ16,000メートルにまで到達し、大量のエアロゾルが成層圏に撒き散らされた。この為、世界全体の平均気温が0.3℃〜0.5℃ほど低下したと言われている。
この噴火による被害総額は55,000,000メキシコ・ペソ、破壊された耕地面積は24,000平方キロに達した。

 
(27)注意が必要な火山の有毒物質 ( P.90 )
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(28)第3章 どんな大噴火がこれから日本を襲うのか 火山ごとにマグマの性質は全然違う ( P.94 )
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(29)マグマが出てこなくても噴火することはある ( P.98 )
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(30)噴火は5つのタイプに分けることができる ( P.99 )
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(31)とりわけ大きな災害を引き起こす3つの噴火 ( P.101 )
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(32)はたしてこれから大噴火は起きるのか ( P.103 )
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(33)大噴火以上の被害をもたらすカルデラ噴火 ( P.107 )
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(34)カルデラ噴火はじつは日本各地で起きていた ( P.109 )
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(35)将来日本を襲いうるカルデラ噴火の恐怖 ( P.113 )
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(36)現在の科学ではカルデラ噴火の「元」は見えない ( P.116 )
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(37)地震と火山にはどのような関係があるか ( P.117 )
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(38)マグニチュード9の巨大地震後に噴火は必ず起きる ( P.120 )
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(39)東北地方太平洋沖地震後に活発化した火山 ( P.122 )
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(40)第4章 危ない火山は意外に近くにある 御嶽山の噴火はなにを問いかけるのか ( P.126 )
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(41)あてにならない噴火警戒レベル ( P.128 )
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(42)「危ない火山」が起こした「意外な噴火」 ( P.130 )
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(43)火山の新しい分類と貧弱な監視体制 ( P.132 )
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(44)過去たびたび噴火してきた富士山 ( P.135 )
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(45)もし富士山が噴火したらどうなるか ( P.138 )
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(46)富士山の地下で起きている地震には2種類ある ( P.140 )
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(47)富士山が噴火する「閾値」がわからない ( P.142 )
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(48)箱根山も「危ない火山」の代表的存在 ( P.145 )
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(49)富士・箱根以外にも日本に「危ない火山」は多い ( P.148 )
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(50)東北地方で噴火警戒レベルが設定されている活火山 ( P.150 )
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(51)火山ガスが多い草津白根山と那須岳 ( P.153 )
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(52)ずっと登山禁止だった新潟焼山 ( P.156 )
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(53)飛騨山脈でいちばん火山活動が激しい焼岳 ( P.157 )
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(54)いまだ広がり続けている西之島新島 ( P.159 )
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(55)要厳重監視の「札付き」火山・阿蘇山 ( P.160 )
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(56)噴火を繰り返している桜島 ( P.162 )
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(57)問題だらけのハザードマップ作り ( P.164 )
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(58)地震・噴火と原子力発電所 ( P.168 )
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(59)1回きりの大地震がもたらす教訓 ( P.172 )
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(60)第5章 火山とともに生きていく なぜ有珠山だけ噴火が予知できるのか ( P.180 )
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(61)それでも火山活動の推移や終わりの予測はできない ( P.183 )
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(62)多くの「前兆」があったのに噴火しなかった火山 ( P.186 )
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(63)噴火予知が一筋縄ではいかない本当の理由 ( P.190 )
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(64)天気予報のように噴火を予知できる日はくるか ( P.192 )
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(65)日本の噴火による「損失」は世界一 ( P.197 )
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