[2019_09_24_01]奴隷の言葉=「東電元幹部3人への東京地裁無罪判決」「私たちの社会は何故このような判決を生みだしたのか」 鎌田 慧(ルポライター)(東京新聞2019年9月24日) |
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19日の東電元幹部3人への東京地裁無罪判決について、遅ればせながら書いておきたい。 政府と電力会社は原発を「未来」「クリーン」「安全」と、カネやタイコで煽ってきた。判決「結語」は「本件事故の結果は誠に重大で取り返しのつかないもの」と言いつつ、重ねてこう言う。 法令上の規制や国の指針、安全基準では「絶対的安全性の確保までを前提にしていなかった」。だから事故の「予見可能性の有無にかかわらず、当然に刑事責任を負うということにはならない」。 これでは尻抜け、なんの突っ張りにもならない。1992年の伊方原発最高裁判決では「万が一にも起きないように」が稼働条件だった。 事故後の避難者だけでも44人が死亡、13人が負傷、これから子どもや被曝労働者にどれだけの症状がでるかわからない。 しかし、判決は「絶対的な安全は求めない」という。 また「重大で取り返しのつかない」事故が起きても「刑事責任を負うことにはならない」。 何故か。「発電所の運転には小さくない社会的有用性が認められ」る。だから「結果の重大性を強調するあまり」原発の設置、運転に携わる者に「不可能を強いる」な。 「私たちの社会は何故このような判決を生みだしたのか」(武藤類子原発告訴団長)。 ああ、この化け物を裁ける者はどこにもいないのか。 (9月24日東京新聞朝刊25面「本音のコラム」より) |
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