| [2026_01_03_01]年のはじめに考える 原発をとめた町から(中日新聞2026年1月3日) |
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05:05 石川県珠洲市高屋町。能登半島の先端近く、日本海に面し、背後に山が迫る小さな港町です。50人ほどの住民の8割が65歳以上の高齢者。2024年元日に最大震度7を記録した能登半島地震の震源に近い地域です。 かつて、高屋と近くの寺家地区に、関西、中部、北陸の3電力による「珠洲原発」の立地計画がありました。しかし住民の粘り強い反対運動で、03年に電力各社は計画を「凍結」します。事実上の断念でした。 もし原発ができていたら、2年前の地震で深刻な事故が起きた可能性もあります。反対派のリーダー的存在で、高屋で20代続く円龍寺の住職・塚本真如(まこと)さん(80)の元には地震後、「原発をとめてくれてありがとう」のメッセージが全国から届いたといいます。 一方、東日本大震災での東京電力福島第1原発の事故以降、脱原発に向かっていた国のエネルギー政策は「原発回帰」に転換しました。昨年11月には北海道の泊原発、新潟県の柏崎刈羽原発の再稼働容認を、それぞれの知事が表明しました。そうした流れについて、塚本さんは、「過去から何も学んでない」と語気を強めます。 長引いた市二分の対立 珠洲市が地域振興策として原発誘致を表明した1975年以降、あらゆる選挙で、原発推進派と反対派が、市を二分する戦いを繰り広げました。用地取得を狙う土地ブローカーが高屋にも入る一方、反対派の住民は資金を出し合い予定地の一部を共有地にする運動で対抗しました。 93年の市長選も過熱し、開票後の票数が合わない事態に。96年に最高裁が推進派市長が当選した選挙の無効を決定、選挙はやり直されました。その後も争いは続き、原発計画は「断念」まで、28年に及ぶ住民の対立を生んだのです。 それでも、当時、「(推進派住民の)人格批判だけはやめよう」と塚本さんは言い続けたといいます。今、高屋の人たちは「わだかまりは一切ない」と口をそろえ、反対派だったというある女性も、「当時、賛成だった人もそれぞれに立場があってのこと。はっきり反対を言えた私らよりつらかったのでは」と慮(おもんぱか)ります。塚本さんの言葉は、地域の分断を決定的にしない知恵でもあったのでしょう。 「土に触りたい」との願い 24年の地震は高屋の人々にも大きな被害をもたらしました。塚本さんの寺は母屋が全壊。珠洲市と輪島市を海沿いに結ぶ幹線の国道249号があちこちで寸断されて、高屋の町は孤立しました。 停電と断水の中で住民たちは食べ物を持ち寄り、山の水をくんで炊き出しをし、車中泊をしながら助け合って生き延びました。そこに、原発の推進派も反対派もありません。自衛隊が道を開いて「脱出」できたのは10日後。10人ほどが高屋に残りましたが、大半が高屋から140キロ離れた加賀市に集団で避難しました。 塚本さんには印象深い出来事があったといいます。ようやく避難先に落ち着いたはずなのに、数日で高屋に帰りたいと言い始めた女性がいたことです。「訳を聞くと『土に触りたい』と。彼女には水や電気より、土に触れる環境こそが大事なインフラだったのです」 恨みっこなしで暮らす 仮設住宅ができて、ほとんどの人が帰還した高屋では、少しずつですが、暮らしが戻りつつあります。継続的に高屋を訪れ、ドキュメンタリー映画の撮影を続けているのが、金沢市に拠点を置く森義隆監督(46)。昨年完成した「先に棲(す)む〜こちら高屋〜」の第1弾は、地震前に移り住んでいた、地区で一番若い女性の目線で、里山里海の恵みを得ながら生きる住民の姿をとらえます。畑を耕し、シイタケを育て、海では岩ノリやサザエを取って、それらを分け合う…。たくましく明るい人々の表情が印象的です。 地震後、能登からの人の流出は続いています。約1万2千人だった珠洲市の人口は昨年、1万人を割り込みました。中でも過疎、高齢化が進む高屋ですが、森さんは「先を見てみたい。5年は通いたい」と話します。映画では、かつての原発計画に触れていません。それでも「何げない会話の中に、意見がぶつかっても、恨みっこなしで暮らしてきたコミュニティーの歴史を感じる」といいます。 意見の違いが「分断」につながるのをどう回避するか。過疎地は将来をどう見通していけばいいのか。高屋の人たちの暮らしに糸口はないかと考える年の初めです。 |
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