[2019_09_19_04]被災したジャーナリスト高野孟が語る千葉台風災害「東京五輪はお祈りするしかない」〈dot.〉(AERA2019年9月19日)
 
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被災したジャーナリスト高野孟が語る千葉台風災害「東京五輪はお祈りするしかない」〈dot.〉

 9日に関東地方に上陸した台風15号の影響で、千葉県内では今も停電が続く。なかには水道が止まっている地域もあり、復旧が遅れた地域に住む住民の疲労はたまり続けている。2007年に千葉県鴨川市の山中に移住したジャーナリストの高野孟さんも被災者の一人だ。台風直撃の後から、どんな日々を過ごしたのか。被災者の一人として自らの状況を記した『高野孟のTHE JOURNAL』の原稿を転載する。

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 台風15号が引き起こした千葉県の大停電は、当初は最大93万戸、とりわけ私自身が居住する鴨川市を含む房総半島南部の安房地域では、復旧にまだこれから2週間程度かかると言われる絶望的な状況にある。
 東日本大震災の際には我が家は当初13時間連続の停電で、灯りがない、空調暖房が止まる、テレビが点かず何が起きたのか分からない、冷蔵庫が止まる、揚水ポンプが動かないので水が出ない……等々に直面したが、それでもまだ寒い時期で、暖房を薪ストーブに頼り、調理台は幸いにしてプロパンガスなので煮炊きをすることができて、何とか復旧までの時間を乗り越えることができた。
 しかし、今回は、多少とも和らいでいるとはいえ、残暑厳しい時節であり、冷房が効かないのが何より辛く、少し動くと汗だくになるが水が出ないのでシャワーを浴びることもできない。固定電話はもちろん携帯も光回線や無線ネットも遮断されたままで、家族や知人と連絡をとることもできず、東京までの高速バスの運行状況を確かめる術もない。その状況がすでに150時間も続くという、まことに過酷な自宅避難民状態である。

■「想定外」は今や弁解にすぎない

 台風そのものはもちろん誰のせいでもない天災で、風速60メートルという暴風の強烈さも、それが房総半島西側の東京湾岸に沿って北上し千葉市付近に上陸するというコースの異常さも、「想定外」だったと言うしかないのかもしれない。
 しかし、8年前に3・11を体験した後では「想定外」はもはや死語化したのではなかったのか。
 その後も西日本を度々襲う集中豪雨、昨秋に関西圏を中心に電柱が1000本以上も倒れ240万戸を停電させた台風21号など、恐らくは地球温暖化による気候変動の影響だろう、今までの常識では考えられないような大災害が次々に起きているし、さらに首都圏直下型地震や東海・南海巨大地震などもいつ起きてもおかしくないと言われている。こうなると国や自治体、電力会社はもちろんのこと、我々個人のレベルまでも、「Think Unthinkable(考えられないことまで考える)」の思考法を徹底して、生き残り策を講じなければならないのだろう。
 それには想像力の拡張が必要で、今回はたまたま房総半島西岸を通過したけれども、もしこの台風が少し西にずれて、三浦半島の相模湾岸から横浜・川崎・東京を通過したらどんなことになっていたのか。日本経済新聞13日付「春秋」欄が「数十キロずれただけで東京は大打撃を受け、電気も水も途絶えていたかもしれない。……今度の被災地が千葉だったのは偶然にすぎない。地球温暖化の影響で、台風が強大化しやすくなっているという。今回のケースは想定外だったとの釈明も聞こえる。それにしてもこの対応の遅さは、台風と闘ってきた国にあるまじきことだ」と述べているのは至当である。

■国も県も動いたのは3日後

 安倍政権とそれに追従するマスコミは、10日から12日にかけてはもっぱら党・内閣の人事改造に関心を注ぎ、「進次郎入閣サプライズ」などと浮かれていた。その頃我々被災者は、電気も水もない、電話もネットも通じない中で、東電の「11日中には完全復旧をめざす」という当初発表にすがりつく思いで生きる道を探っていた。11日中というのは嘘で、12日にも13日にも我が家の辺りでは何も回復せず、すでに復旧したと聞いた鴨川市中心部の亀田病院やその並びの鴨川温泉ホテル街に行ってカフェでの食事や市民に無料開放された温泉入浴にようやくありついた。
 我が鴨川市長と市役所がどうしているのかはさっぱり伝わってこなかったが、千葉市の熊谷俊人市長はすぐに災害対策本部を立ち上げ、避難所や区役所などによる支援体制や、公共施設の浴場の無料開放などを分かりやすく市民に伝えると共に、県が現場に足を運んで実情を把握しようとしていないこと、東電がいい加減な楽観的復旧見通しを発表して被災者を惑わせていることを厳しく指摘した。
 千葉県が災害救助法を県内41市町村に適用して、避難所の設置や食料などの配布の経費を国と県が負担することにしたのは12日で、しかもその際の認識は「12日午後4時現在の避難者は845人で前日より65人減」というものだった。そうじゃないんですよ、電気も水も来ず電話も通じず、場合によっては屋根瓦も飛んでブルーシートをかけてでも自宅で頑張っている自宅避難民が、我が家を含めて何十万世帯もいるんですね。
 そういうことが少しは分かったのかどうか、安倍晋三首相がこの対策に全力を挙げるよう指示し、経済産業省が「停電被害対策本部」を立ち上げたのは13日になってからだった。

■東京電力の責任は重大

 停電の深刻さと復旧の遅れについては東京電力による人災の側面が大きい。
 日本経済新聞が12日付以降、繰り返し指摘しているところでは、「原発事故で経営が厳しくなった東電が送電関連の設備投資を抑え」てきた。1991年には送配電設備に約9000億円を投じていたが、15年には何と8割減の約2000億円に止まっている。そもそも電柱や鉄塔は風速40メートルに耐えうるようにしか設計されておらず、しかも多くは1970年代に建てられ、その初期のものは耐用年限に近づいているにもかかわらず、逆に「耐久性があると判断した電柱への投資を先延ばししてやりくり」してきた経営怠惰のツケが顧客に回された格好である。
 この「風速40メートルに耐える」というのは経済産業省の省令で決まっているのだそうで、これは台風の凶暴化に合わせて見直しが必要だろう。またこれを機に、他の先進国に比べて極度に遅れている電線の地中化の議論も高まるだろう。
 電気がこないことによる間接的な影響も甚大である。有線の固定電話が使えないのは仕方がないとして、困ったのは携帯と無線ネットの電波が来なくなったことで、これは基地局の非常用バッテリーが24時間しか保たないためである。
 実際、9日未明に停電となってその日の夜までは携帯もネットも使えたが、翌日には途切れた。街中の方から順次復旧しつつはあるけれども、我が家の場合は15日現在も不通のままである。遠くの家族・知人との安否確認ができないくらいはまだしも、熱中症など急病人が出ても通報のしようがなく手遅れになったケースあったという。
 また遠く北海道や東北から応援に駆けつけた電気工事作業員が慣れない場所に投入され、携帯で本部の指示を仰ぐことができずに著しく作業効率が悪くなったとも言われる。何もかもが携帯・ネット経由の時代、基地局の非常用バックアップが24時間のままでいいのか、検討が必要となろう。
 また例えば停電で浄水場が操業できずに広域的な断水が起きたり、風はすっかり収まったのに高速道路が何日も閉鎖のままで、なぜなら電気が来ないとゲートの開閉もETCカードの読み取りもできなくなってしまうからだとか、およそ電力系統に頼っている限り何もかも動かなくなってしまうという事態が続出した。それぞれの分野とレベルで、戦略的には系統に頼らないエネルギーの自給自足、地産地消の達成にどう近づいていくかが大事で、しかしそう簡単に自立化が実現しない以上、戦術的には非常時に備えた準備を怠らないことが重要だろう。

■誰も助けには来ない

 私自身が体験しあるいは見聞した限りでは、ガソリン駆動の小型発電機でテレビと冷蔵庫には通電できているという人や、車載インバーターで冷蔵庫だけは守ったという人がいたが、我が家にはその備えがないのでテレビは観られず、冷蔵庫の中身は全部捨てた。
 また我が家にはロウソクやそれと同じ程度の明るさのLEDランプ、手持ちの懐中電灯、野外用のヘッドランプなどはあるが、それらは家の内外を動くのにつまづかかないようにするくらいしか役に立たない。途中からコールマンのキャンプ用の大型ランタンを友人が運び込んでくれたので使い始めると、ホワイトガソリンを気化して点す白光が煌々と輝いて新聞でも何でも読めてしまう。ちょっと待てば停電が治るというのであれば懐中電灯でもいいのだが、このように長期になるとそれを頼りに生活するための本格的な光源が必要なのだと痛感した。
 近所の方がしみじみと語ったのは「国も県も市も東電も、誰も助けに来てくれないということが今回、身に沁みて分かった。自分を守るのは自分だと思って、あらゆる災害に備えなければならない」ということである。
 それともう1つ、被災した近所の方々の何人もが口にしたことは、「東京五輪の期間にこういう災害が東京を襲わないと誰が保証できるのか。どうして台風名物の国がその季節に五輪など誘致したのだろうか」ということだった。それはもう今さら言ってどうしようもなく、皆でお祈りするほかない。

※『高野孟のTHE JOURNAL』9月16日号より
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